江沼郡(読み)えぬまぐん

日本歴史地名大系 「江沼郡」の解説

江沼郡
えぬまぐん

面積:一五四・三九平方キロ
山中やまなか

近世末までの江沼郡は加賀国の南西端に位置したが、北西半部に加賀市が成立、東端部が小松市に属したため、現在江沼郡を構成するのは山中町一町である。福井県との境は大日だいにち(一三六八メートル)から刈安かりやす(五四七・七メートル)に連なる一〇〇〇メートル級の山々で、大聖寺だいしようじ川・動橋いぶりはし川の源流地となっている。郡名は「延喜式」にエヌマ(民部省)、エヌ(武田本神名帳)の訓がある。小松市那谷金比羅山なたこんぴらやま窯跡群出土の七世紀中葉と推定される須恵器平瓶刻書銘に「与野評」がみえ、古代氏族に「江渟臣」がいるので、ヨノ(ヨヌ)、エヌの訓が古いとみられる。のちに訛ってヨネともいったらしく、「蔭涼軒日録」文明一八年(一四八六)一一月三日条に「米郡」、天正一一年(一五八三)四月二七日の羽柴秀吉判物(溝口文書)には「余禰郡」と記される。「江沼」の表記の初見は天平三年(七三一)二月二六日の越前国正税帳(正倉院文書)で、この当時は越前国七郡の一つであった。

〔原始・古代〕

江沼盆地は石川県の南西部を占める広い平野であり、その北東端には柴山しばやま潟が横たわる。盆地には日本海に注ぐ大聖寺川や柴山潟に流入する動橋川が流れ、周辺には肥沃な穀倉地帯を形成するが、その周辺を取巻く丘陵部も石器時代以来、人々の生活の場として幾多の遺跡を残してきた。とくに海岸に臨む加賀市の橋立はしたて丘陵は、宮地向山みやじむかいやま遺跡(旧石器)大野山おおのやま遺跡(縄文早期)千崎海岸ちざきかいがん遺跡(縄文前期)ふじ遺跡(縄文中期)など初期の狩猟・採集民の生活の舞台として知られている。稲作や金属器を伴う弥生文化が波及すると、低湿な柴山潟周辺をはじめ盆地のいたる所で水田耕作が始まり、同市猫橋ねこばし遺跡で代表される農耕集落が現れる。四世紀代に入ると強力な首長層が出現するとともに、盆地を望む丘陵上に大小の古墳群が築かれるようになる。同市の分校ぶんぎよう古墳群や吸坂すいさか南郷なんごう古墳群がよく知られているが、五世紀代になると豪華な副葬品を納めた同市狐山きつねやま古墳(国指定史跡)など王墓的盟主墳が出現し、盆地全域を支配する大首長の存在を示している。六世紀後半になると前方後円墳の造営は終わり、有力家長層によって横穴墓(横穴古墳)の造営が盛んとなる。同市法皇山ほうおうざん横穴古墳群(国指定史跡)丸山まるやま横穴群が著名である。また古墳時代前期においては、緑色凝灰岩(碧玉)を用いた玉造遺跡が分布し、とくに同市片山津玉造かたやまづたまつくり遺跡は、前期古墳に副葬されていることの多い石製腕飾類(鍬形石など)の製作地として周知される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報