デジタル大辞泉
「小早川秀秋」の意味・読み・例文・類語
こばやかわ‐ひであき〔こばやかは‐〕【小早川秀秋】
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こばやかわ‐ひであき【小早川秀秋】
- 安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の妻高台院の兄の木下家定の五男。幼名辰之助。はじめ秀吉の養子で羽柴秀俊と称し、のち、小早川隆景の養子となる。慶長の役に総大将として出陣。関ケ原の戦いでは石田方に属したが、徳川方と通じ、東軍勝利の要因をつくった。金吾中納言。天正一〇~慶長七年(一五八二‐一六〇二)
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小早川秀秋
没年:慶長7.10.18(1602.12.1)
生年:天正10(1582)
安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院(北政所)の兄木下家定の5男。母は杉原七郎左衛門家次の娘。近江国(滋賀県)長浜に生まれる。幼名は辰之助。早くより秀吉の養子として高台院のもとで養育され,羽柴秀俊を名乗る。天正19(1591)年右衛門督となり,唐名により「金吾」と呼ばれた。その後,丹波国亀山に10万石を与えられる。文禄2(1593)年,朝鮮出兵(文禄の役)のため肥前国名護屋に出陣。同年8月,秀吉の側室淀が拾丸(秀頼)を生んだことで小早川隆景の養子となり,同3年11月に備後国三原に赴いた。慶長2(1597)年6月に隆景が死去したのちは秀秋を名乗る。同年,朝鮮再出兵(慶長の役)の際には軍の総大将として渡海し,翌年の蔚山の戦いでは自ら刃を交えて奮戦するが,指導力の欠如など大将らしからぬ行動を秀吉に問われ,急遽帰国を命じられた。その際筑前国その他の所領を没収され越前国北庄に移されるが,秀吉没後の同4年,再び所領を戻された。その前後から徳川家康との関係を深くし,関ケ原の戦(1600)では当初西軍の石田三成方として松尾山に陣を敷いたものの,戦い途中でにわかに東軍方に転じ,家康軍の勝利に貢献した。戦後,その功により西軍の宇喜多秀家の旧領であった備前・美作57万石を与えられ,岡山に入り,秀詮と名を変えて新領地支配に臨むが,支配は安定せず,同7年21歳で夭逝した。なお近年発見された『足守木下家文書』からは,高台院との近しい人間関係が窺える。<参考文献>『小早川家文書』『大阪城天守閣所蔵木下家文書』
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小早川秀秋
こばやかわひであき
(1582―1602)
安土(あづち)桃山時代の武将。幼名辰之助(たつのすけ)。通称金吾(きんご)。左衛門佐(さえもんのすけ)、権中納言(ごんちゅうなごん)。豊臣(とよとみ)秀吉の正室高台院の兄木下家定の三男として生まれる。秀吉の猶子(ゆうし)となり、丹波亀山(たんばかめやま)10万石を領し、羽柴秀俊(はしばひでとし)と名のる。1594年(文禄3)小早川隆景(たかかげ)の養子に入る。同年11月中国に下向して三原城(広島県三原市)に入り、毛利輝元(もうりてるもと)の従妹(いとこ)を妻とした。翌年家督を嗣(つ)ぎ、隆景から筑前(ちくぜん)1国、筑後(ちくご)の大部分、肥前(ひぜん)2郡33万6000石を譲り受け、隆景は三原に隠居、かわって秀秋は筑前名嶋(なじま)城に移った。97年(慶長2)朝鮮に出陣。釜山浦(ふざんほ)城の守将となり、また蔚山(うるさん)城の救助に活躍し、帰国。その後秀吉の怒りに触れ越前(えちぜん)北庄(きたのしょう)に移封されようとしたが、徳川家康のとりなしで筑前にとどまる。99年秀吉の遺命で復領し、筑前・筑後52万2500石を得る。翌年関ヶ原の戦いで西軍として伊勢(いせ)口を守り、伏見(ふしみ)城を攻めたが、9月の関ヶ原決戦時には東軍に応じた。戦功により家康から備前(びぜん)、美作(みまさか)において50万石を与えられ、岡山城に移り住んだが、慶長(けいちょう)7年21歳の若さで死去した。秀秋には嗣子(しし)がなく、備前・美作は収公され、小早川本宗家は断絶した。
[田端泰子]
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小早川秀秋
こばやかわひであき
[生]天正10(1582)
[没]慶長7(1602).10.18. 岡山
安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の5男で,幼名は辰之助。初め秀吉の養子となり,羽柴秀俊と名のって丹波亀山で 10万石を領したが,文禄2 (1593) 年秀頼誕生後,小早川隆景の養子となり秀詮と改名した。隆景の隠居後小早川家を継ぎ,秀秋と名のって筑前,筑後,肥前に 33万石を領し,筑前名島城主となった。次いで慶長2 (97) 年の慶長の役 (→文禄・慶長の役 ) には総大将として渡鮮したが,軽率なふるまいがあったとして召還され,帰国後越前北庄 12万石に減封された。秀吉の死後,復領して 52万石を領し,関ヶ原の戦いには,初め西軍に加わったが,東軍に内通し,その功で備前,備中,美作で宇喜多秀家の旧領 50万石を与えられた。子なく,死後小早川家は断絶。 (→小早川氏 )
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小早川秀秋【こばやかわひであき】
安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の妻北政所(高台院)の兄木下家定の子,木下長嘯子(ちょうしょうし)の弟。通称,金吾(きんご)中納言。初め秀吉の養子,のち小早川隆景の養子となり,筑前(ちくぜん)・筑後を領した。慶長の役には総大将として渡鮮。関ヶ原の戦には初め西軍に属したが徳川方に内応し,その功によって備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・美作(みまさか)で50万石を与えられた。
→関連項目小早川氏|関ヶ原の戦
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小早川秀秋 (こばやかわひであき)
生没年:1582-1602(天正10-慶長7)
安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の五男。幼少より秀吉の養子となり秀俊と名のる。1593年(文禄2)小早川隆景の養子となり,やがて筑前・筑後を領す。慶長の役には予備隊の大将として出陣するが,その際の行動が軽挙だとして秀吉の怒りをかい98年(慶長3)越前へ移封される。しかし翌年再び筑前・筑後の領国を与えられた。1600年の関ヶ原の戦では,秀秋の寝返りによって徳川方勝利の因をつくり,宇喜多秀家の旧領備前・美作50万石を領して岡山に居す。
執筆者:外園 豊基
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小早川秀秋 こばやかわ-ひであき
1582-1602 織豊-江戸時代前期の武将。
天正(てんしょう)10年生まれ。木下家定の子。高台院の甥(おい)。豊臣秀吉の養子から,秀吉の実子秀頼(ひでより)の出生後に小早川隆景(たかかげ)の養子となる。関ケ原の戦いで西軍に属したが,途中ねがえって東軍勝利の一因をつくり,備前,美作(みまさか)51万石をあたえられた。慶長7年10月18日死去。21歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。幼名は辰之助。前名は羽柴秀俊。通称は金吾中納言。
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小早川秀秋
こばやかわひであき
1582~1602.10.18
織豊期の武将。木下家定の五男。幼少時に叔父豊臣秀吉の養子となり,丹波国亀山城主10万石。豊臣秀頼の誕生後,小早川隆景の養子となり,筑前一国と筑後の一部を相続。慶長の役での軽率な行動を理由に1598年(慶長3)越前国北庄(きたのしょう)へ減封。翌年筑前に復領。関ケ原の戦で西軍から東軍へ寝返り,東軍を勝利に導く。戦後,備前国岡山城主50万石。嗣子なく断絶。
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小早川秀秋
こばやかわひであき
1582〜1602
安土桃山時代の武将
豊臣秀吉の正室北政所の兄の子。通称金吾中納言。隆景の養子となった。慶長の役に総大将となり蔚山 (うるさん) に奮戦。関ケ原の戦いには初め西軍に属したが東軍に内応,東軍を勝利にみちびいた。功によって岡山50万石を与えられたが,嗣子がなく所領を没収された。
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世界大百科事典(旧版)内の小早川秀秋の言及
【関ヶ原の戦】より
…この動きを察知した西軍は,これを阻止するために15日午前1時ごろ,雨をついて主力を関ヶ原に進出させた。 戦闘は午前7時過ぎから始まったが,この東軍9万余,西軍8万余が東西4km,南北2kmの小盆地で激突した大会戦は,小早川秀秋の裏切りもあって,午後2時ごろ東軍の勝利に終わった。石田三成,小西行長,安国寺恵瓊などはまもなく捕らえられて10月1日京都六条河原で処刑され,毛利輝元,島津義弘らは軍勢をまとめて国に帰った。…
※「小早川秀秋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」