(本多博之)
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安土(あづち)桃山時代の武将。幼名辰之助(たつのすけ)。通称金吾(きんご)。左衛門佐(さえもんのすけ)、権中納言(ごんちゅうなごん)。豊臣(とよとみ)秀吉の正室高台院の兄木下家定の三男として生まれる。秀吉の猶子(ゆうし)となり、丹波亀山(たんばかめやま)10万石を領し、羽柴秀俊(はしばひでとし)と名のる。1594年(文禄3)小早川隆景(たかかげ)の養子に入る。同年11月中国に下向して三原城(広島県三原市)に入り、毛利輝元(もうりてるもと)の従妹(いとこ)を妻とした。翌年家督を嗣(つ)ぎ、隆景から筑前(ちくぜん)1国、筑後(ちくご)の大部分、肥前(ひぜん)2郡33万6000石を譲り受け、隆景は三原に隠居、かわって秀秋は筑前名嶋(なじま)城に移った。97年(慶長2)朝鮮に出陣。釜山浦(ふざんほ)城の守将となり、また蔚山(うるさん)城の救助に活躍し、帰国。その後秀吉の怒りに触れ越前(えちぜん)北庄(きたのしょう)に移封されようとしたが、徳川家康のとりなしで筑前にとどまる。99年秀吉の遺命で復領し、筑前・筑後52万2500石を得る。翌年関ヶ原の戦いで西軍として伊勢(いせ)口を守り、伏見(ふしみ)城を攻めたが、9月の関ヶ原決戦時には東軍に応じた。戦功により家康から備前(びぜん)、美作(みまさか)において50万石を与えられ、岡山城に移り住んだが、慶長(けいちょう)7年21歳の若さで死去した。秀秋には嗣子(しし)がなく、備前・美作は収公され、小早川本宗家は断絶した。
[田端泰子]
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安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の五男。幼少より秀吉の養子となり秀俊と名のる。1593年(文禄2)小早川隆景の養子となり,やがて筑前・筑後を領す。慶長の役には予備隊の大将として出陣するが,その際の行動が軽挙だとして秀吉の怒りをかい98年(慶長3)越前へ移封される。しかし翌年再び筑前・筑後の領国を与えられた。1600年の関ヶ原の戦では,秀秋の寝返りによって徳川方勝利の因をつくり,宇喜多秀家の旧領備前・美作50万石を領して岡山に居す。
執筆者:外園 豊基
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1582~1602.10.18
織豊期の武将。木下家定の五男。幼少時に叔父豊臣秀吉の養子となり,丹波国亀山城主10万石。豊臣秀頼の誕生後,小早川隆景の養子となり,筑前一国と筑後の一部を相続。慶長の役での軽率な行動を理由に1598年(慶長3)越前国北庄(きたのしょう)へ減封。翌年筑前に復領。関ケ原の戦で西軍から東軍へ寝返り,東軍を勝利に導く。戦後,備前国岡山城主50万石。嗣子なく断絶。
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…この動きを察知した西軍は,これを阻止するために15日午前1時ごろ,雨をついて主力を関ヶ原に進出させた。 戦闘は午前7時過ぎから始まったが,この東軍9万余,西軍8万余が東西4km,南北2kmの小盆地で激突した大会戦は,小早川秀秋の裏切りもあって,午後2時ごろ東軍の勝利に終わった。石田三成,小西行長,安国寺恵瓊などはまもなく捕らえられて10月1日京都六条河原で処刑され,毛利輝元,島津義弘らは軍勢をまとめて国に帰った。…
※「小早川秀秋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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