日本大百科全書(ニッポニカ) 「河口坪江庄」の意味・わかりやすい解説
河口坪江庄
かわぐちつぼえのしょう
中世越前(えちぜん)国にあった興福寺(こうふくじ)領の2荘園(しょうえん)。河口庄は現在の福井県あわら市、坂井市坂井町地区に、坪江庄はあわら市、坂井市三国(みくに)町地区、同市丸岡町地区に比定される。前者は総田数600町、12世紀初頭に春日(かすが)社一切経料所(いっさいきょうりょうしょ)として、後者は総田数約60町、1288年(正応1)同社新三十講料所として皇室より寄進されたと伝え、両法会(ほうえ)を統轄する興福寺大乗(だいじょう)院が両庄を支配、興福寺の諸塔頭(たっちゅう)の所領にあてられた。応仁(おうにん)の乱(1467~77)後、同庄の荘官であった朝倉氏が越前を支配し、同庄からも半済(はんぜい)分を収取し、興福寺の収取も同氏の権力に依存した。朝倉氏の滅亡後、1575年(天正3)に織田政権の手に移り、興福寺領としての歴史を閉じた。
[神田千里]