日本歴史地名大系 「河口庄」の解説
河口庄
かわぐちのしよう
- 福井県:坂井郡
- 河口庄
「春日権現験記」二巻に「康和年中、一切経論をかゝせられて、社頭に経蔵をたて、百口の僧ををかれて、転読せらる。越前国河口庄をながく供料に寄進せらる」とみえ、康和年中(一〇九九―一一〇四)に春日社へ当庄が寄進されたとしている。「春日権現験記」は延慶二年(一三〇九)三月の左大臣藤原冬平の自序を有する後世の絵巻物の詞書であるが、「祐茂記」に引く嘉禎二年(一二三六)正月二七日付の藤氏長者宣に「一切経供料河口庄」とみえ、平安末期頃から春日社一切経供料所として伝領されていたことは承認してよいだろう。
ところで、三箇御願料所等指事(大乗院文書)中の建永元年(一二〇六)八月一二日付の左中将某添状などにより、河口庄に地頭職が設置されており、それが領主春日社の鬱憤を招き、ついに後鳥羽院の命令で地頭基員を停止せしめたことがわかる。また同指事中には、河口庄と大乗院の関係を示す次のような院宣もみえる。
河口庄
かわぐちのしよう
- 京都府:福知山市
- 河口庄
古代の川口郷(和名抄)に成立したと考えられ、由良川の支流
その後も醍醐寺領として推移したと思われるが、地頭職は南北朝期久下氏に与えられている。承久の乱に北条氏に従って上洛し、丹波
とある。しかしこの両荘支配権の久下貞重への移行はスムーズにいかなかったらしく、翌年三月義詮は丹波守護仁木頼章に対し御教書を下して、濫妨を退け貞重に沙汰付けするよう命じている(観応三年三月一八日付「足利義詮御判御教書」同文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報