越前国(読み)エチゼンノクニ

デジタル大辞泉 「越前国」の意味・読み・例文・類語

えちぜん‐の‐くに〔ヱチゼン‐〕【越前国】

越前

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日本歴史地名大系 「越前国」の解説

越前国
えちぜんのくに

古代

若狭国に次ぐ北陸道の第二国で、国名は「和名抄」東急本に「古之乃三知乃久知」とよむ。「延喜式」には「越前国大 敦賀・丹生・今立・足羽・大野・坂井」とあって、北陸道七ヵ国中で唯一の大国であり、六郡を管するのみで大国というのも全国に例がなく、いかに越前国が重要であったかを示している。田地は「和名抄」東急本に「本田万二千六十六丁」とし、加賀・越中・越後各国より少ない。同じく郷名は「和名抄」高山寺本には

<資料は省略されています>

とあり、東急本では、敦賀郡で神戸かんべ、丹生郡でいずみ従省しとん、大野郡で加美かみ、坂井郡で堀江ほりえ余戸あまるべの各郷が加わり、足羽あすわ郡の野田のた上家かずいえ川合かわいとかり郷が大野郡に記され、曰理わたり郷が記されないなど、用字の違いをも含めてかなりの異同がみられるが、高山寺本の合計五一郷というのも北陸道中で最多である。古道は北陸道が近江国から愛発あらち(跡地は現敦賀市)を越えて敦賀へ、さらに武生から福井を経てほぼ南北に貫通しており、国府は「国府在丹生郡、行程上七日・下四日」とあり(「和名抄」刊本)、丹生郡の武生近辺にあったと考えられている。一宮は早くより「日本書紀」などにみえる気比けひ(笥飯)神宮(現敦賀市)で、ほかに「延喜式」神名帳では敦賀郡四三座・丹生郡一四座・今立郡一四座・足羽郡一三座・大野郡九座・坂井郡三三座の合計一二六座の神名があげられ、これも北陸道中の最多である。

貢租関係は、調庸物として調が両面・羅・綾・白絹・帛・糸など、庸が韓櫃・綿・米など、中男作物は紙・麻・紅花・茜・漆・油などの品名があげられており(「延喜式」主計上)、ほかに交易雑物として絹・牛皮・漆・曝黒葛など(同書民部下)、年料舂米として内蔵寮五〇石・大炊寮六五四石・糯二〇石、年料租舂米として一千三〇〇石、年料別貢雑物として筆・紙麻・零羊角・甘葛汁・蘇が一五壺(同書民部下)などのさまざまな賦課を負った。諸国器仗は甲四領・横刀一〇口・弓二〇張・征箭三〇具・胡三〇具(同書兵部省)、正税も「越前国正税・公廨各万束、国分寺料三万束、京法華寺料二万束、文殊会料二千束、薬分料六千束、修理池溝料四万束、救急料十二万束、俘囚料一万束」とあり(同書主税上)、これらの負担や用途においても越前国は北陸道のうちで最大級であった。

〔記紀の時代〕

このように政治・経済・軍事において越前国は重要な位置を占めていたから、文献への登場もきわめて早い。「日本書紀」によれば崇神天皇の時代に大彦命が北陸(「古事記」では高志道)に派遣されたといういわゆる四道将軍説話が存在するし、「額に角有ひたる人」と記された都怒我阿羅斯等が漂着した「越国の笥飯浦」を角鹿つぬがと名付けたのも垂仁天皇の時代であるという。

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改訂新版 世界大百科事典 「越前国」の意味・わかりやすい解説

越前国 (えちぜんのくに)

旧国名。北陸道に属する大国(《延喜式》)。現在の福井県のうち南西部の旧若狭国を除いた北東部を占める。

北陸地方は古くは(こし)(高志)とよばれ,越前に当たる地域には角鹿(つぬが)国造,三国国造がいた。越は蝦夷経営の前進基地としての政治的役割をもち,589年に阿倍臣を北陸道に遣わし越等の諸国の境を視察させている。また658年(斉明4)および660年,越国守阿倍比羅夫が粛慎(みしはせ)を討っているのも,越の位置づけを物語る(なお,658年は誤りとする説もある)。507年には武烈天皇のあと絶えた皇統を継がせるため,応神天皇の5世の孫と伝える男大迹(おおど)王を三国(みくに)から迎えた。これが継体天皇である。越は7世紀後半に分割され,越前,越中,越後等の諸国が成立したが,越前国の初見は《日本書紀》持統6年(692)9月,同国国司が白蛾を献上したという記事である。国府は丹生(にう)郡,現在の武生市に比定されているが,その正確な位置・規模は不詳。成立時の越前国は能登,加賀国の地域をも含んだが,718年(養老2)5月越前国羽咋(はくい),能登,鳳至(ふげし),珠洲(すず)4郡を割き能登国を置き,823年(弘仁14)3月には江沼,加賀郡を分割し加賀国を建てた。また国内では同年6月丹生郡から9郷1駅を分けて今立郡を置いている。《延喜式》では敦賀(つるが),丹生(のち南条郡が分立),今立,足羽(あすわ)(のち吉田郡が分立),大野,坂井の6郡からなる。同国内の駅としては《延喜式》に松原,鹿蒜(かえる),淑羅,丹生,朝津,阿味(あちま),足羽,三尾の8駅の名が見え,また北陸道が近江国から同国に入った地点,現在の敦賀市南部には三関の一つ愛発(あらち)関が置かれた。一方,越前は日本海を利用した海上交通が盛んであり,同国への行程は《延喜式》によれば〈上七日,下四日,海路六日〉と規定されている。とくに九頭竜川の河口の坂井郡三国と嶺南の敦賀郡角鹿(敦賀)とは港として重要な役割を果たした。さらに日本海を通した海外との交流も多く,《日本書紀》には崇神朝に加羅国王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が笥飯(けひ)浦(敦賀市気比神社付近)に来泊したという伝承が見える。また敦賀には松原客館が置かれ,渤海との交渉の拠点となった。福井平野には奈良時代以来荘園が多く設定され,とくに東大寺領荘園が多数設けられた。例えば足羽郡道守(ちもり)荘糞置(くそおき)荘,丹生郡椿原荘,坂井郡桑原荘・鯖田国富荘などの名が知られ,とりわけ足羽,坂井郡に多い。そしてそこからの収穫は九頭竜川,日本海の水運を利用して運搬された。しかしこれらの東大寺領荘園は10世紀までには荒廃している。また奈良時代後半,759年(天平宝字3)以来,藤原仲麻呂の子薩雄,辛加知が相ついで越前守となるなど仲麻呂の勢力が強く越前に及び,764年仲麻呂が乱を起こし倒れるまで,同国は彼の勢力基盤の一つとなった。
執筆者:

平安末の治承・寿永の乱では,北陸道の関門にあたる越前は,木曾から越中,加賀を経て攻め上る源義仲軍とこれを迎撃する平家軍との交戦の舞台となった。鎌倉期に入ると,幕府は北陸道一帯の守護人として鎌倉殿勧農使比企朝宗(ひきともむね)を補任するが,その後一時停廃しながらも1213年(建保1)以降の越前守護は大内惟義島津忠久,同忠時,後藤,足利,後藤と交替しながら建武新政を迎えた。奈良時代に成立した東大寺の広大な墾田地系荘園が平安時代に入って衰亡すると,鎌倉期にかけて越前では新しく寄進地系を中心とした皇室や摂関家,大寺社の荘園が生まれた。坂井郡では興福寺兼春日社領河口荘・坪江荘,長講堂領坂北荘,吉田郡では最勝光院領志比荘,山門領藤島荘,皇室領河北荘(河合荘),足羽郡では近衛家領宇坂荘,伊勢神宮領(後に一条家領)足羽御厨,一条家領東郷荘,大野郡では醍醐寺領牛原(うしがはら)荘,春日社領泉荘・小山荘,丹生郡では妙法院領織田荘など大規模な荘園が存在した。これに対し国府(府中)を中心とする今立,南条郡一帯は国衙領が多く荘保も皇室領を中心として小規模なもので占められた。これらの荘園の地頭は断片的にしか追認できないが,地頭による荘園侵略は進み,醍醐寺が〈一荘滅亡〉と訴えた鎌倉初期の牛原荘や,下地中分が成立した小山荘など事例は多い。曹洞宗の開祖道元は叡山の迫害をのがれて1243年(寛元1)京都から越前志比荘に下向した。これは集団で入門した越前波着(はじやく)寺の懐鑑(えかん)や道元に学んだ徹通義介ら越前と関係の深い人々の勧めに負うところが大きいと考えられるが,やはり志比荘の地頭波多野義重の勧誘も動機の一つであろう。初め志比荘に大仏寺を建立,46年これを永平寺と改称した。道元の死後は相続権をめぐる三代相論が起こり,加賀に大乗寺を分立させる結果となって永平寺は衰退に向かった。

 建武新政下の最初の守護は新田一族の堀口貞義であったが,1334年(建武1)9月までに足利一族の斯波高経に代わる。足利尊氏の離反によって新政が破れると,越前は南北両朝軍の戦場となった。敦賀の金崎(かねがさき)城に立てこもった新田義貞らを高経以下の北朝軍が攻撃し,翌年3月これを落とした。このとき城を脱した義貞は府中(現,武生市)で態勢をたて直し,38年(延元3・暦応1)2月義貞を追って府中に進駐した高経軍を撃破し,勢いに乗じてさらに兵を北に進めて高経軍の拠点,足羽七城を包囲した。しかし義貞が灯明寺畷(現,福井市)で戦死すると,形勢は逆転し南朝軍は四散した。その後義貞の弟脇屋義助が高経を加賀へ放逐するなど一時的に南朝の勢力挽回をはかったが,再び高経は反撃に転じ,越前国内の南朝方の諸城を抜いてようやく越前を高経の掌中に収めた。このあと高経は2度も幕府に背き66年(正平21・貞治5)には失脚して,越前守護職は細川頼春や畠山義深らに移ったこともあるが,79年(天授5・康暦1)ころ高経の子義将が復帰して以後は,斯波氏の世襲するところとなった。斯波氏は管領家として幕政に参与したが,代々治世短命が多く,6代義健の若死後は支流の義敏が宗家を継承した。これに対して発言権を高めた守護代甲斐氏は専横が目だつようになり,斯波氏の有力被官となった国人土豪層はこれに反感を抱き,義敏を戴いて甲斐氏と対立し,1458年(長禄2)ついに武力衝突に発展した(長禄合戦)。南北朝の争乱時に但馬国から越前に入部した朝倉広景7代目の敏景(孝景)は,長禄合戦では甲斐氏と結んで勝利を収めたが,合戦の翌日,甲斐将久が急死したのを契機に敏景の権力はいっそう強まり義敏を退け斯波氏の支流義廉を守護に推戴した。

 応仁の乱が始まると,敏景は甲斐氏とともに義廉を戴いて西軍に属したが,足利義政らの誘いに応じて71年(文明3)東軍に転じた。このとき守護職に補任されたとする説は争論の分かれるところであるが,敏景が下向して守護権を行使しながら越前平定に乗り出したことは事実で,当初苦戦を強いられた朝倉勢も反対勢力の斯波義敏,甲斐氏らを国外へ放逐,その晩年には越前をほぼ掌握した。敏景の越前平定と軌を一にして,71年京都を追われた本願寺8世蓮如は坂井郡吉崎に坊舎を建立して布教を始めると,北陸一帯に急激に門徒が増加し,一向宗教団を形成していった。これが一向一揆の母体となる。越前から放逐された反朝倉勢力はこれら一向一揆と結んでしばしば越前侵攻を試みたが,敏景に続く氏景,貞景の時代はよくこれを撃退して,朝倉の領国支配を維持した。87年(長享1)越前国領有をめぐって朝倉氏と斯波氏の間で訴訟事件が起こるが,これも朝倉側が実質的な勝利を収め,名実ともに越前支配は揺るぎないものとなった。貞景時代は国内の行政組織を整備する一方,同族争い(朝倉景豊の乱)を克服し,加賀からの大規模な越前侵攻(永正一揆)を撃退すると同時に越前一向宗徒の巨頭超勝寺,本覚寺らを加賀へ追放した。次の4代孝景(宗淳)の時代は最も安定した時代となる。すなわち積極的に加賀へ兵を進めて加賀の内紛(享禄の大小一揆)にも関与し,また美濃,江北をはじめ若狭武田氏の要請で丹後へ,幕府の要請で京都にまで出兵した。《朝倉系図》によれば孝景は1516年(永正13)将軍家より白傘袋並びに毛氈鞍覆(もうせんあんぷく)を免ぜられ,28年(享禄1)将軍義晴の御供衆に,35年(天文4)塗輿御免,38年には御相伴衆に列した。67年(永禄10)5代義景のとき,京都を追われた足利義秋は朝倉氏を頼って来越し,翌年一乗谷で将軍の宣下を受けて義昭と改名する。この義昭の仲介で約1世紀にわたって仇敵の間柄であった越前,加賀の和睦が成立した。しかし間もなく義昭は一乗谷を去って美濃の織田信長の下に走り,上洛を達成した。このころから新興勢力の織田氏と朝倉氏との宿命的対立が始まる。70年(元亀1)信長軍は京都から若狭を経て敦賀まで攻め入ったが,近江の浅井氏が信長に背いたため信長軍はやむなく軍を退けた。このあと義景は直ちに若狭へ侵入してこれを朝倉氏の支配下に置いた。以後朝倉・浅井連合軍と織田軍は合戦を繰り返すが,73年(天正1)8月義景みずから近江に出兵し刀禰坂の合戦で決定的敗北を喫した。義景は一乗谷からさらに大野郡に走ったが,頼みとした大野郡司朝倉景鏡や平泉寺にも見放され,大野郡賢松寺で自刃して滅亡した。

 朝倉氏の居城一乗谷には応仁・文明の乱以降,荒廃した京都を避けて来遊する学者や文化人が多く,越南の小京都とうたわれて繁栄した。《朝倉孝景条々》に〈朝倉が館之外,国内に城郭を為構まじく候,惣別分限あらん者,一乗谷へ引越,郷村には代官計可被置事〉と記されるように,城下町の形成がみられ,近時の発掘調査によって朝倉館を中心に武家屋敷,町屋地区,寺院などの遺構が発掘復元され,この期の城下町の研究に大きな関心が集まっている。

 1573年朝倉氏滅亡後まもなく一向一揆が蜂起するが,翌々年信長は出兵して越前を再平定した。柴田勝家に越前八郡を,その目付として府中三人衆(前田利家,佐々成政,不破光治)を府中に置いて付近の今立・南条2郡を支配させた。また大野郡は金森長近,原政茂,敦賀郡は武藤舜秀が統治した。勝家は北国の重鎮として北ノ庄(現,福井市)に築城して越後の上杉氏を制御し,加越の一揆徒党平定の任に当たった。また九頭竜川には舟橋を架設し,南条郡今庄より板取を経て近江に出るため栃ノ木峠を開削し,また新田開発を進め,諸方に検地を行い,刀狩を実施するなど民政にも留意した。82年本能寺の変後,勝家は羽柴秀吉と対立し,翌年近江の賤ヶ岳に敗れ,勝家側に立った府中の前田利家は秀吉に下り,勝家は北ノ庄城に退いて,お市の方(信長の妹)とともに自刃して滅亡した。
執筆者:

勝家のあとは,丹羽,堀,青木氏と続いたが,1600年(慶長5)関ヶ原の戦の後,北ノ庄の青木一矩はじめ織田秀雄,大谷吉継らの改易,堀尾吉晴の転封により旧領主はすべて越前を去り,徳川家康の次男結城秀康が越前一国68万石で入封し福井藩が成立した。24年(寛永1)福井藩が50万5000石余となったため,大野,勝山,木本(このもと),丸岡の諸藩が創出され,また敦賀郡が小浜京極氏に割かれ,以後小浜藩領となった。丸岡のほかはいずれも秀康の庶子に与えられた。木本2万5000石は末子松平直良が領したが,35年福井藩預地となり,37年本家に吸収された。45年(正保2)には松平忠昌の庶子に5万石と2万5000石を分知して,松岡と吉江の2藩が成立するが,吉江は松平昌親の本藩相続により,74年(延宝2)福井藩に組み込まれた。86年(貞享3)福井藩は25万石になるが,1720年(享保5)には間部詮言(まなべあきゆき)が越後国村上から鯖江5万石に入封して定着した。その他の藩領は,紀州家頼職,頼方(のちの徳川吉宗)兄弟が3万石ずつ賜って一時高森と葛野(かずらの)に陣屋を置いたほか,三河国西尾藩,美濃国郡上藩,安房国加知山藩が飛領をもち,若干の旗本領も存した。天領は本保に陣屋が置かれたが,福井藩預地になった部分もある。郡名は1664年(寛文4)まで中世以来の12郡が使用されたが,同年4月松平光通が賜った判物を契機にもとの8郡に改められた。

 越前の近世農村を規定したのは1598年の太閤検地である。長束正家を総奉行に秀吉最後の検地として厳しく行われ,以後村高はほとんど変わらなかった。検地帳は基本台帳とされ,現在も大量に残存している。このときの検地高が秀康の68万石に相当すると思われ,豊臣末期とされる49万1000石に比べると38%の打出しとなる。5ヵ条の検地条目は,300歩1反,2%の口米,京桝使用などを規定するが,石盛が畿内より高いこと,1筆当りの面積が広く10町歩の田地もあること,小農自立度はなお低いことなどの特徴をもつ。越前農村に年貢率10%以下の村が少なくなく,百姓持高が高いのもこのことに起因する。割地慣行は早くから行われたが,年貢制度は藩により違い,福井藩は通常の免状を発給していない。農村は藩領を越えて用水で結ばれた。九頭竜,日野,足羽の三大河川とその支流を利用した用水が発達し,幕末には福井藩用水奉行所管のものだけで95ヵ所あり,足羽郡徳光用水や坂井郡十郷用水は40~50ヵ村が利用した。そのため水論が続発して,ときに数年に及び,ことに諸藩領が入り組んでいたので幕府の裁許を仰ぐことも多かった。農業では大地主は生まれなかったが,越前海岸から若狭にかけての漁業が技術の先端を示した。そのほか福井藩五箇(ごか)の奉書や鳥の子紙,福井城下の絹織物,府中の打刃物,鯖江藩の漆器と漆搔き,大野藩の面谷(おもだに)銅山,勝山藩のタバコなどが著名。交通は,陸上で北陸街道(北国路)が北進し,近江国境の栃ノ木峠を越えた板取駅から加賀国境の細呂木(ほそろぎ)駅まで15駅置かれたほか,西街道,美濃街道などが通った。海上では三国,敦賀が古くから港町として栄え,また九頭竜,日野川の川舟も三国と結んで発達した。一揆,騒動は130件以上確認される。1644年(正保1)丹生郡米ヶ浦の一村逃散をはじめ,97年(元禄10)の勝山藩,1724年(享保9)丸岡藩,48年(寛延1)福井藩,56年(宝暦6)天領(本保騒動),58年郡上領(石徹白(いとしろ)騒動),68年(明和5)福井城下,71年勝山藩,79年(安永8)丸岡藩,83年(天明3)大野藩,1834年(天保5)には福井藩で大規模な一揆,打毀が起こっている。これらは参加した百姓の風体などから蓑虫騒動とも呼ばれた。藩校には丸岡の平章館,鯖江の進徳館,福井の明道館,勝山の成器堂,大野の明倫館があった。とくに大野藩は洋学が盛んで,大野洋学館で洋書の翻訳出版を行い,ここで学んだ藩士が藩政改革の担い手となり全国から門人が集まった。県立大野高校に残る洋書は貴重。

 1837年を頂点とする天保飢饉で死者数万という被害を被り,諸藩では天保末年から藩政改革に乗り出した。福井藩の松平慶永のほか,勝山藩では林毛川(もうせん)が産物改会所を設けて財政の建直しをはかり,大野藩では土井利忠が登用した内山良休,隆佐兄弟を中心に改革に成功し,大野屋と称する会所を全国各地に設け,藩船大野丸で諸藩と交易を行い,北蝦夷地進出もはかった。鯖江藩主間部詮勝(あきかつ)は老中として井伊直弼のもとで活躍した。1870年(明治3)天領と預地に本保県,翌年福井,丸岡,大野,勝山,鯖江,小浜の諸県が置かれた。同年11月鯖江・小浜両県を敦賀県,その他を福井県とし,12月福井県を足羽県と改称。同県は73年敦賀県に吸収され,さらに76年には敦賀郡を除く越前7郡が石川県に,敦賀郡と若狭3郡が滋賀県にそれぞれ編入されたが,81年越前,若狭の11郡が石川,滋賀県より分離独立して福井県が成立した。地誌に《越前鹿子》(17世紀中葉)や福井藩士井上翼章の《越前国名蹟考》(1815)がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「越前国」の意味・わかりやすい解説

越前国
えちぜんのくに

福井県北部の旧国名。敦賀(つるが)市以北の地域。北陸道七国のうち唯一の大国で、軍事・交通上の要地。国府は府中(越前市)。古くは北陸を総称して「越(こし)」といい、天武(てんむ)天皇(在位673~686)の末年に越前、越中(えっちゅう)、越後(えちご)に分かれたといわれるが、国名の初見は『日本書紀』持統(じとう)天皇6年(692)9月21日条の、越前国司による白蛾(はくが)献上の記事とされる。718年(養老2)に能登(のと)国、823年(弘仁14)に加賀国が分立して越前国域が確定した。九頭竜(くずりゅう)、日野、足羽(あすわ)の三大河川によって、福井市からあわら市・坂井市にかけて広大な平野が早くから開け、奈良時代の東大寺領糞置庄(くそおきのしょう)、道守(ちもり)庄(福井市)、中世以降の興福寺領河口(かわぐち)庄、坪江(つぼえ)庄(あわら市、坂井市)など著名な荘園(しょうえん)が置かれた。田数は『和名抄(わみょうしょう)』に1万2066町と伝える。溜池(ためいけ)がほとんどなく、十郷用水など三大河川からの取水による灌漑(かんがい)用水が発達した。東大寺領は早く衰退したが、興福寺領は戦国時代まで存続し、『大乗院寺社雑事記(ぞうじき)』などにより、国人や戦国大名との葛藤(かっとう)が知られる。戦国時代、一乗谷(福井市)に拠(よ)った朝倉氏が越前を支配したが、1573年(天正1)義景(よしかげ)が織田信長に敗れ、5代約100年で滅亡した。1471年(文明3)蓮如(れんにょ)が吉崎(あわら市)にきて布教し、本願寺教団は飛躍的に発展した。1573年一向一揆(いっき)が蜂起(ほうき)し、一時は「越前一国一揆持ち」となったが、75年信長により「死骸(しがい)ばかり」といわれるように文字どおり掃滅された。しかし現在も両本願寺派の寺院・門徒が多く、真宗十派のうち4本山が所在し、また真宗関係の習俗がよく残るなど、真宗王国の面目を保つ。1575年柴田勝家(しばたかついえ)が北庄(きたのしょう)(福井市)に入るが、83年賤ヶ岳(しずがたけ)に敗れた。1598年(慶長3)豊臣秀吉(とよとみひでよし)最後の検地が行われ、38%打出(うちだし)して68万石となり、以後村高の基準となった。このときの太閤(たいこう)検地帳は大量に残存する。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いののち、徳川家康の次男結城秀康(ゆうきひでやす)が越前一国を賜って福井藩が成立するが、以後領知高は激減し32万石となった。それに伴い、有馬氏丸岡、小笠原(おがさわら)氏勝山、土井氏大野、間部(まなべ)氏鯖江(さばえ)の諸藩や天領、西尾領、旗本領が置かれた。幕末には間部詮勝(あきかつ)が老中となり、松平慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))が幕政に参画し、大野藩は各地に大野屋(藩営商店)を置いて交易を行った。一揆・騒動は130件以上確認される。教育では大野藩洋学館の洋学が著名。産業は福井の羽二重(はぶたえ)、府中の打刃物、五箇(ごか)の和紙など。明治維新後、福井、敦賀、足羽、石川県を経て1881年(明治14)若狭(わかさ)と越前が合併して福井県になる。地誌に『越前国名蹟考(めいせきこう)』(井上翼章編、1815)がある。

[隼田嘉彦]

『『福井県史』全4巻(1920~22・福井県)』『『福井県史 資料編3~5』新編(1982~84・福井県)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「越前国」の解説

えちぜんのくに【越前国】

現在の福井県北東部の旧国名。律令(りつりょう)制下で北陸道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の越前市におかれていた。奈良時代には東大寺荘園(しょうえん)の糞置荘(くそおきのしょう)、鎌倉時代から室町時代には興福寺領の荘園河口荘などが経営された。1213年(建保(けんぽう)1)以後は、大内氏や島津氏らが守護となった。戦国時代には、朝倉氏が一乗谷(いちじょうだに)を本拠に領国を支配した。一方、蓮如(れんにょ)が1471年(文明(ぶんめい)3)に吉崎御坊(よしざきごぼう)を建立したり、1573年(天正(てんしょう)1)に一向一揆が一時は国を支配したりするなど、浄土真宗本願寺派が大きな影響力を持った。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いののち、徳川家康(とくがわいえやす)の次男結城秀康(ゆうきひでやす)が入封(にゅうほう)して福井藩が成立。幕末には藩主松平慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))が幕政に参加した。1871年(明治4)の廃藩置県により福井県となる。のち足羽(あすわ)県と改称、1873年(明治6)の敦賀(つるが)県編入を経て、1876年(明治9)に石川県滋賀県に分割編入されたが、1881年(明治14)に福井県が再設置された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「越前国」の意味・わかりやすい解説

越前国
えちぜんのくに

現在の福井県北部。北陸道の一国。大国。もと三国,角鹿国造が支配。角鹿は早くから海上交通の要地にあたり,朝鮮との関係も深い場所である。初め越国 (こしのくに) であったが,天武天皇のときに越前,越中,越後の3国に3分された。天平 13 (741) 年,能登4郡を越中国に分出,弘仁 14 (823) 年,東方2郡が加賀国となり分離した。国府,国分寺ともに武生市。『延喜式』には敦賀 (つるか) ,足羽 (あすは) ,丹生 (にふ) ,今立 (いまたち) ,坂井 (さかのゐ) ,大野 (おほの) の6郡がみえ,『和名抄』は郷 57,田1万 2066町余をあげているが,『色葉字類抄』『拾芥抄』には2万 3576町余とあり,さらに『掌中暦』には4万 7502町余とある。鎌倉時代には比企氏,島津氏,後藤氏が守護となり,南北朝時代から室町時代にかけては斯波氏,畠山氏が支配。戦国時代には朝倉氏が台頭し,文明3 (1471) 年,朝倉敏景が守護,その後5代 100年にわたって一乗ヶ谷に拠って支配した。豊臣秀吉は藤枝に丹羽氏,敦賀に大谷氏,丸岡に青山氏,安居に戸田氏,今庄に赤座氏を封じ,江戸時代には徳川家康が次男秀康を封じ,福井藩とした。秀康の子忠直は幕府の忌むところとなり,元和9 (1623) 年,豊後国に流され,越後高田にあった弟忠昌が入国した。越前にはこのほか有馬氏の丸岡藩,土井氏の大野藩,間部氏の鯖江藩,小笠原氏の勝山藩,酒井氏の敦賀藩 (鞠山藩) があり,それぞれ幕末にいたっている。明治4 (1871) 年の廃藩置県に際しては各藩が県となったが,同年 11月福井県に合併され,さらに足羽県に変り,敦賀県に合併したが,1881年あらためて福井県となる。

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百科事典マイペディア 「越前国」の意味・わかりやすい解説

越前国【えちぜんのくに】

旧国名。北陸道の一国。今の福井県東部。もと越(こし)の国に含まれ,7世紀末に分立。畿内に近いため早くから開け,奈良時代には東大寺などの荘園が多かった。718年に能登国,823年に加賀国を分出して,《延喜式》に大国,6郡。鎌倉時代に比企氏,のち斯波氏らが守護,次いで守護代甲斐氏,のち朝倉氏らが勢力をふるい,朝倉氏滅亡後,柴田・前田氏らが支配。江戸時代,福井藩松平氏ら数藩に分かれる。絹,紙などが旧特産。→道守荘
→関連項目河口荘中部地方坪江荘福井[県]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「越前国」の解説

越前国
えちぜんのくに

北陸道の国。現在の福井県北東部。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では敦賀(つるが)・丹生(にう)・今立(いまたち)・足羽(あすは)・大野・坂井の6郡からなる。7世紀後半に越国(こしのくに)とよばれた北陸地方を分割して成立。当初の管郡は11郡であったが,718年(養老2)能登国,823年(弘仁14)加賀国を分置した。国府は丹生郡(現,越前市)におかれた。一宮は気比(けひ)神宮(現,敦賀市)。「和名抄」所載田数は1万2066町。「延喜式」では調として糸・絹など,庸として米・綿・韓櫃(からびつ)を規定。令制三関の一つ愛発(あらち)関を管理する関国であった。鎌倉時代の守護として島津・後藤氏ら,室町時代には斯波(しば)氏が知られる。のち朝倉氏が権力を掌握し,一乗谷(現,福井市)を本拠地として約100年間支配したが,織田信長により滅ぼされた。近世は徳川家康の子結城秀康を藩祖とする福井藩により支配された。1871年(明治4)の廃藩置県の後,敦賀県・福井県(まもなく足羽(あすわ)県と改称)となり,76年石川・滋賀両県に分割されたが,81年福井県となる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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