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越前国 えちぜんのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

越前国
えちぜんのくに

現在の福井県北部。北陸道の一国。大国。もと三国,角鹿国造が支配。角鹿は早くから海上交通の要地にあたり,朝鮮との関係も深い場所である。初め越国 (こしのくに) であったが,天武天皇のときに越前,越中,越後の3国に3分された。天平 13 (741) 年,能登4郡を越中国に分出,弘仁 14 (823) 年,東方2郡が加賀国となり分離した。国府,国分寺ともに武生市。『延喜式』には敦賀 (つるか) ,足羽 (あすは) ,丹生 (にふ) ,今立 (いまたち) ,坂井 (さかのゐ) ,大野 (おほの) の6郡がみえ,『和名抄』は郷 57,田1万 2066町余をあげているが,『色葉字類抄』『拾芥抄』には2万 3576町余とあり,さらに『掌中暦』には4万 7502町余とある。鎌倉時代には比企氏,島津氏,後藤氏が守護となり,南北朝時代から室町時代にかけては斯波氏,畠山氏が支配。戦国時代には朝倉氏が台頭し,文明3 (1471) 年,朝倉敏景が守護,その後5代 100年にわたって一乗ヶ谷に拠って支配した。豊臣秀吉は藤枝に丹羽氏,敦賀に大谷氏,丸岡に青山氏,安居に戸田氏,今庄に赤座氏を封じ,江戸時代には徳川家康が次男秀康を封じ,福井藩とした。秀康の子忠直は幕府の忌むところとなり,元和9 (1623) 年,豊後国に流され,越後高田にあった弟忠昌が入国した。越前にはこのほか有馬氏の丸岡藩,土井氏の大野藩,間部氏の鯖江藩,小笠原氏の勝山藩,酒井氏の敦賀藩 (鞠山藩) があり,それぞれ幕末にいたっている。明治4 (1871) 年の廃藩置県に際しては各藩が県となったが,同年 11月福井県に合併され,さらに足羽県に変り,敦賀県に合併したが,1881年あらためて福井県となる。

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デジタル大辞泉の解説

えちぜん‐の‐くに〔ヱチゼン‐〕【越前国】

越前

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百科事典マイペディアの解説

越前国【えちぜんのくに】

旧国名。北陸道の一国。今の福井県東部。もと越(こし)の国に含まれ,7世紀末に分立。畿内に近いため早くから開け,奈良時代には東大寺などの荘園が多かった。718年に能登国,823年に加賀国を分出して,《延喜式》に大国,6郡。
→関連項目河口荘中部地方坪江荘福井[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

えちぜんのくに【越前国】

現在の福井県北東部の旧国名。律令(りつりょう)制下で北陸道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の越前市におかれていた。奈良時代には東大寺荘園(しょうえん)の糞置荘(くそおきのしょう)、鎌倉時代から室町時代には興福寺領の荘園河口荘などが経営された。1213年(建保(けんぽう)1)以後は、大内氏や島津氏らが守護となった。戦国時代には、朝倉氏が一乗谷(いちじょうだに)を本拠に領国を支配した。一方、蓮如(れんにょ)が1471年(文明(ぶんめい)3)に吉崎御坊(よしざきごぼう)を建立したり、1573年(天正(てんしょう)1)に一向一揆が一時は国を支配したりするなど、浄土真宗本願寺派が大きな影響力を持った。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いののち、徳川家康(とくがわいえやす)の次男結城秀康(ゆうきひでやす)が入封(にゅうほう)して福井藩が成立。幕末には藩主松平慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))が幕政に参加した。1871年(明治4)の廃藩置県により福井県となる。のち足羽(あすわ)県と改称、1873年(明治6)の敦賀(つるが)県編入を経て、1876年(明治9)に石川県滋賀県に分割編入されたが、1881年(明治14)に福井県が再設置された。

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世界大百科事典 第2版の解説

えちぜんのくに【越前国】

旧国名。北陸道に属する大国(《延喜式》)。現在の福井県のうち南西部の旧若狭国を除いた北東部を占める。
【古代】
 北陸地方は古くは(こし)(高志)とよばれ,越前に当たる地域には角鹿(つぬが)国造,三国国造がいた。越は蝦夷経営の前進基地としての政治的役割をもち,589年に阿倍臣を北陸道に遣わし越等の諸国の境を視察させている。また658年(斉明4)および660年,越国守阿倍比羅夫粛慎(みしはせ)を討っているのも,越の位置づけを物語る(なお,658年は誤りとする説もある)。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

越前国
えちぜんのくに

福井県北部の旧国名。敦賀(つるが)市以北の地域。北陸道七国のうち唯一の大国で、軍事・交通上の要地。国府は府中(越前市)。古くは北陸を総称して「越(こし)」といい、天武(てんむ)天皇(在位673~686)の末年に越前、越中(えっちゅう)、越後(えちご)に分かれたといわれるが、国名の初見は『日本書紀』持統(じとう)天皇6年(692)9月21日条の、越前国司による白蛾(はくが)献上の記事とされる。718年(養老2)に能登(のと)国、823年(弘仁14)に加賀国が分立して越前国域が確定した。九頭竜(くずりゅう)、日野、足羽(あすわ)の三大河川によって、福井市からあわら市・坂井市にかけて広大な平野が早くから開け、奈良時代の東大寺領糞置庄(くそおきのしょう)、道守(ちもり)庄(福井市)、中世以降の興福寺領河口(かわぐち)庄、坪江(つぼえ)庄(あわら市、坂井市)など著名な荘園(しょうえん)が置かれた。田数は『和名抄(わみょうしょう)』に1万2066町と伝える。溜池(ためいけ)がほとんどなく、十郷用水など三大河川からの取水による灌漑(かんがい)用水が発達した。東大寺領は早く衰退したが、興福寺領は戦国時代まで存続し、『大乗院寺社雑事記(ぞうじき)』などにより、国人や戦国大名との葛藤(かっとう)が知られる。戦国時代、一乗谷(福井市)に拠(よ)った朝倉氏が越前を支配したが、1573年(天正1)義景(よしかげ)が織田信長に敗れ、5代約100年で滅亡した。1471年(文明3)蓮如(れんにょ)が吉崎(あわら市)にきて布教し、本願寺教団は飛躍的に発展した。1573年一向一揆(いっき)が蜂起(ほうき)し、一時は「越前一国一揆持ち」となったが、75年信長により「死骸(しがい)ばかり」といわれるように文字どおり掃滅された。しかし現在も両本願寺派の寺院・門徒が多く、真宗十派のうち4本山が所在し、また真宗関係の習俗がよく残るなど、真宗王国の面目を保つ。1575年柴田勝家(しばたかついえ)が北庄(きたのしょう)(福井市)に入るが、83年賤ヶ岳(しずがたけ)に敗れた。1598年(慶長3)豊臣秀吉(とよとみひでよし)最後の検地が行われ、38%打出(うちだし)して68万石となり、以後村高の基準となった。このときの太閤(たいこう)検地帳は大量に残存する。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いののち、徳川家康の次男結城秀康(ゆうきひでやす)が越前一国を賜って福井藩が成立するが、以後領知高は激減し32万石となった。それに伴い、有馬氏丸岡、小笠原(おがさわら)氏勝山、土井氏大野、間部(まなべ)氏鯖江(さばえ)の諸藩や天領、西尾領、旗本領が置かれた。幕末には間部詮勝(あきかつ)が老中となり、松平慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))が幕政に参画し、大野藩は各地に大野屋(藩営商店)を置いて交易を行った。一揆・騒動は130件以上確認される。教育では大野藩洋学館の洋学が著名。産業は福井の羽二重(はぶたえ)、府中の打刃物、五箇(ごか)の和紙など。明治維新後、福井、敦賀、足羽、石川県を経て1881年(明治14)若狭(わかさ)と越前が合併して福井県になる。地誌に『越前国名蹟考(めいせきこう)』(井上翼章編、1815)がある。[隼田嘉彦]
『『福井県史』全4巻(1920~22・福井県) ▽『福井県史 資料編3~5』新編(1982~84・福井県)』

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