河合中村(読み)かわいなかむら

日本歴史地名大系 「河合中村」の解説

河合中村
かわいなかむら

[現在地名]小野市河合中町

西にし村の東に位置し、加古川右岸から西の青野原あおのがはら台地までを村域とする。南は新部しんべ村。集落はやや川寄りに形成されている。川合中村あるいは単に中村とも記された。「和名抄」にみえる賀茂かも郡川合郷の遺称地で、河合中・河合西・新部に分れたという。文明七年(一四七五)一一月一五日の京都大徳寺仏殿内の鐘銘に「賀東郡東河合中村華厳寺之鐘也」とある(日本古鐘銘集成)

慶長八年(一六〇三)一〇月高木善右衛門は姫路藩主池田輝政から「河合之中村」の内で三〇〇石など、都合八〇〇石を与えられている(「高木間家譜」鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図には中村とみえる。寛保二年(一七四二)幕府領となる(正保郷帳、「寛文朱印留」、貞享元年「本多忠国領知目録」本多家文書、寛延四年「酒井忠恭領知目録」酒井家史料など)。宝暦一三年(一七六三)三卿の清水領、寛政五年(一七九三)幕府領、文政七年(一八二四)再び三卿の清水領、安政二年(一八五五)幕府領となり、慶応元年(一八六五)陸奥会津藩領となる(以上「三枝五郎兵衛由緒書」三枝家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報