日本歴史地名大系 「小野市」の解説 小野市おのし 面積:九三・六八平方キロ(境界未定)加古川中流域に位置し、市域は同川の沖積地と河岸段丘上に広がる。北は加東(かとう)郡社(やしろ)町・滝野(たきの)町、西は加西市、南は加古川市・三木市、東は加東郡東条(とうじよう)町と接する。加古川は市域西寄りを蛇行しながら南流し、途中左岸で東条川・万勝寺(まんしようじ)川、右岸で万願寺(まんがんじ)川を合する。加古川右岸には青野原(あおのがはら)台地が広がり、左岸には北から嬉野(うれしの)台地・草加野(そうかの)台地・焼山(やけやま)台地・樫山(かしやま)台地などがある。同川右岸に沿ってJR加古川線が南北に貫通し、青野ヶ原・河合西(かわいにし)・粟生(あお)・小野町・市場(いちば)の五駅がある。南からは神戸電鉄粟生線が加古川左岸を北上し、同川を渡って粟生駅に至る。途中市域には樫山・市場・小野・葉多(はた)の四駅がある。粟生駅から西へは北条鉄道が加西市方面に向かう。道路は国道一七五号小野バイパスが市域中央部を縦断し、JR加古川線に沿って県道市場―滝野線が通る。ほかに主要地方道小野―藍本(あいもと)線、加古川―小野線、神戸―社線、三木―山崎(やまさき)線、県道社―滝野線、大門(だいもん)―小田(おだ)線などが縦横に通る。市名は一柳直次が承応二年(一六五三)に門前(もんぜん)村小野に築いた陣屋周辺に形成された小野町の町名を継承する。〔原始・古代〕旧石器時代・縄文時代の遺跡は青野原台地の鶴池(つるいけ)遺跡からナイフ形石器・尖頭器・石鏃などが採集されている程度である。弥生時代前期の遺跡に高田古苗代(たかたふるなわしろ)遺跡があり、中期では敷地(しきじ)カノノ下(した)遺跡が発掘されている。後期になると集落数は増加し、高田(たかた)・宮の後(みやのうしろ)遺跡や船木高町(ふなきたかまち)遺跡・垂井(たるい)遺跡などの代表的な遺跡の調査が進んでいる。また弥生時代末から古墳時代初期への変遷を示す船木南山(ふなきみなみやま)墳墓がある。古墳時代では加古川左岸の段丘面を中心に総数約六〇〇基の古墳がある。中期の古墳では径四五メートル程度の小野王塚(おのおうづか)古墳・敷地大塚(しきじおおつか)古墳がある。後期では木棺直葬墳で一〇〇基以上群集する焼山・樫山・船木中番(ふなきなかばん)などの古墳群がある。律令制下では賀茂(かも)郡の中央南部を占める。「和名抄」所載の同郡川合(かわい)郷の比定地で、ほかに市域は山田(やまだ)郷と柞原(ならはら)郷の一部からなっていた。平城宮跡出土木簡に「川合郷坂本里」や「川合里」と記されるものがあり、「坂本里」と記された木簡の裏には佐伯部豊嶋なる人物の名も記されている。また飛鳥池遺跡出土木簡に「加毛評柞原里人」とあるのも評木簡として注目されよう。さらに優婆塞貢進解(正倉院文書)に秦人足嶋が山田郷戸主秦人水間の戸口としてみえる。条里地割は加古川本流両岸と東条川沿いに合せて約二五七町をみることができたが、現在は圃場整備などでほとんど損なわれている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小野市」の意味・わかりやすい解説 小野〔市〕おの 兵庫県南部,姫路平野北東部の市。 1954年小野町と河合,来住 (きし) ,市場,大部,下東条の5村が合体して市制。加古川中流の沖積地と猪飼野と呼ばれていた中・高位段丘面から成る。良質の酒造米の特産地で,伝統工業のそろばん,刃物の製造で知られ,特にそろばんは全国の約 80%の生産を誇る。第2次世界大戦後は鉄工,電機,化学など近代工業も進出,播磨工業地域の一部となっている。 52年の神戸電鉄の粟生 (あお) への延長により住宅都市化も進行。中部の浄谷にある浄土寺は行基開基の名刹で浄土堂は国宝建造物。広渡廃寺跡は史跡に指定されている。来往の鴨池は冬季はカモの来集地。国際電信電話株式会社 (現 KDDI) 小野受信所がある。西部は播磨中部丘陵県立自然公園に属する。 JR加古川線,国道 175号線が市域を縦断する。面積 92.94km2(境界未定)。人口 4万7562(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by