河田島村(読み)こうだじまむら

日本歴史地名大系 「河田島村」の解説

河田島村
こうだじまむら

[現在地名]川島町河田町こうだまち

松原島まつばらじま村・松倉まつくら村の南、木曾川南派流の北に位置する。江戸時代は円城寺えんじようじ(現笠松町)の枝村で、明治八年(一八七五)同村から分離して独立村となった。当地を俗に美濃河田といい、木曾川南派流対岸の河田(現愛知県一宮市)を尾張河田とよぶ。両河田の間は渡で結ばれ、交通の要所であった。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦の前哨戦でも両軍対峙の場となり、同年八月二二日の井伊直政書状写(伊達家文書)に「今朝之注進ニハ、幸田之渡り之仕合不相聞候間、不申上候キ、敵二千許ニ而河端ヘ出候を、河を被越、被及合戦、羽三左衛門殿手許へ、くび五百程被討捕之由、飛脚之申口ニ候」とあり、同月二九日の徳川家康書状(前田家所蔵文書)も同じく二二日の出来事として「濃州幸田・萩原二手ニ而相働候処、岐阜人衆しんか野ニ相支候処ニ、羽三左衛門尉松原瀬を越、及一戦、追崩町際迄、不残討捕候事」と東軍の羽三左衛門(池田輝政)軍が織田信秀軍と合戦、勝利をおさめたことを報じている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報