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池田輝政 いけだてるまさ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

池田輝政
いけだてるまさ

[生]永禄7(1564).12. 尾張,清洲
[没]慶長18(1613).1.25. 播磨,姫路
安土桃山時代の大名。信輝 (恒興) の次男。幼名は古新,のち三佐衛門と改名。織田信長,豊臣秀吉に仕え,天正 12 (1584) 年小牧・長久手の戦いで父と兄を失って遺領 10万石を引継ぎ,美濃大垣城主となった。同 18年小田原征伐,さらに奥州征伐に功を立て,三河吉田移封,15万 2000石を領した。のち慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いには東軍徳川家康方に従って,播磨国 52万石を与えられ,姫路城を築造。同 17年松平氏を称することを許され,従三位,参議叙任。秀吉,家康に信任され,世に姫路宰相百万石と称された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

池田輝政 いけだ-てるまさ

1565*-1613 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
永禄7年12月29日生まれ。池田恒興(つねおき)の次男。父のあと美濃(みの)大垣城主をつぎ,豊臣秀吉の九州攻めなどに従軍,羽柴姓をあたえられる。天正(てんしょう)18年三河吉田城主。関ケ原の戦いで徳川方に属し,岐阜城を攻略。その功により慶長5年播磨(はりま)姫路藩池田家初代となる。52万石。継室にむかえた徳川家康の娘督姫(とくひめ)(良正院)との間に忠継(ただつぐ)ら5男をもうけ,松平姓をゆるされ,神君の婿(むこ),西国の将軍といわれた。慶長18年1月25日死去。50歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

池田輝政

没年:慶長18.1.25(1613.3.16)
生年:永禄7.12.29(1565.1.31)
安土桃山時代の大名。幼名は古新。通称は三左衛門尉。諱は照政とも。池田恒興と荒尾善次の娘の子。尾張国清洲(愛知県清洲町)生まれ。天正8(1580)年荒木村重の属城花熊城(神戸市)攻めに,父に従い参陣する。同12年小牧・長久手の戦において,羽柴(豊臣)秀吉に味方した父恒興と兄元助を,長久手で失う。父兄の戦死によって家督を継承し,大垣城主となる。翌13年秀吉から美濃岐阜城を与えられ,10万石を領する。同15年九州征討従軍後,羽柴の苗字を与えられる。同16年後陽成天皇が秀吉の聚楽亭に行幸した際,騎馬で供奉した。このとき,豊臣の姓を受け,従四位下侍従となった。同18年小田原の役や奥州征討に従い,凱旋後三河吉田(豊橋市)15万2000石に移封された。文禄3(1594)年秀吉の命により徳川家康の娘督姫(良正院)を継室とした。このことが,家康から優遇され,池田家繁栄の基盤を築く背景となる。なお,正室は中川清秀の娘(大義院)である。慶長5(1600)年関ケ原戦には東軍に属し,織田秀信のこもる岐阜城を攻略。決戦には先陣を務めた。戦後その功により播磨姫路52万石に封ぜられた。同時に,弟長吉が因幡鳥取6万石を与えられる。姫路入城後,城郭の大規模な改築に着手した。同8年家康が征夷大将軍就任に参内したとき,少将に昇進し,家康の乗輿に従った。同14年西国の大型船が禁止されたが,輝政のみ許可された。輝政優遇の一事例である。同17年正四位下参議に叙任され,松平姓を与えられた。世上,姫路宰相百万石,西国将軍などと称された。輝政が52万石,弟長吉が6万石,慶長8年に次男忠継が備前28万石,同15年に3男忠雄が淡路6万石を与えられ,一族の合計所領高が92万石にのぼることによる。<参考文献>橋本政次『姫路城史』(復刻,1973)

(平野明夫)

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世界大百科事典 第2版の解説

いけだてるまさ【池田輝政】

1564‐1613(永禄7‐慶長18)
安土桃山時代の武将。初名照政,幼名古新,通称三左衛門。恒興の次男。1580年(天正8)織田信長の摂津花熊の荒木一族攻撃の際兄之助とともに奮戦し賞され,84年の小牧・長久手の戦では父と兄を失った。しかし豊臣秀吉に美濃大垣10万石を安堵され,のち岐阜城に移り,弟長吉とともに豊臣氏の有力部将として天下統一戦に従軍,90年三河吉田15万2000石余を与えられた。1588年の聚楽第行幸に供奉して従四位下侍従に任ぜられ,豊臣姓を与えられていたので羽柴吉田侍従と称した。

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大辞林 第三版の解説

いけだてるまさ【池田輝政】

1564~1613) 安土桃山時代の武将。織田信長・豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川方について戦功あり、播磨五二万石を領する姫路城の城主となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

池田輝政
いけだてるまさ
(1564―1613)

戦国末期の武将で姫路藩初代藩主。永禄(えいろく)7年11月晦日(みそか)、尾張(おわり)国(愛知県)清洲(きよす)城で生まれる。父は信輝(のぶてる)、母は荒尾善次の娘(法号善応院)。幼名は古新(こしん)、のち三左衛門といった。1580年(天正8)摂津花熊(はなくま)合戦で初陣の功をたてて尼崎(あまがさき)城主、1584年父信輝、兄之助(ゆきすけ)の討ち死に(長久手(ながくて)の戦い)により家督(かとく)を相続して大垣城主。やがて豊臣(とよとみ)秀吉の命で羽柴(はしば)氏を称し、1590年三河吉田(豊橋)城主で15万2000石を領し侍従となる。中川清秀の娘糸子をめとったが、94年(文禄3)家康の次女督姫(とくひめ)富子(法号良正院)を継室(けいしつ)に迎えた。関ヶ原の戦いでは家康に味方し、その戦功で播磨(はりま)(兵庫県)52万石を領し池田氏に復す。姫路城を大改築し、藩政の基礎を固め、「西国の将軍」とうたわれた。慶長(けいちょう)18年正月25日死去、法号国清院、備前(びぜん)国(岡山県)和気(わけ)郡和意谷(わいだに)に葬られた。[谷口澄夫]
『谷口澄夫他著『大名列伝 武功篇 上』(1966・人物往来社)』

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367日誕生日大事典の解説

池田輝政 (いけだてるまさ)

生年月日:1564年12月29日
安土桃山時代;江戸時代前期の大名
1613年没

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世界大百科事典内の池田輝政の言及

【池田氏】より

…(1)南北朝・室町・戦国期の摂津の国人。橘諸兄の後裔とする伝承があるが不詳。1363年(正平18∥貞治2)の幕府文書に摂津守護赤松光範の被官として池田親政とあるのが初見。南北朝中期,守護より加茂庄(現,兵庫県川西市)の半済地をあてがわれ,また垂水西牧小曾禰村(現,豊中市)の番頭にも名がみえる。室町期には守護細川氏の有力被官となり,伊丹,吹田両氏と並ぶ摂津屈指の土豪に成長した。加茂,垂水のほか,細川庄,桜井郷など各荘園の代官を兼ね,給分を資本に高利貸も行って,応仁の乱ころは年収1万2000貫,〈富貴無双〉とうたわれた。…

【飾磨津】より

…古くは《万葉集》にみえる思賀麻江である。姫路藩主池田輝政はここを城下の外港として重視し,1601年(慶長6)入江に向島を建設し,船役所・船置場を置き,船手(ふなて)(水主(かこ))を配置した。09年には城の外堀から南へ飾磨入江に達する運河(三左衛門堀)を通じようとしたが失敗した。…

【高砂[市]】より

…人口9万7632(1995)。町の発展は池田輝政による加古川水運の改修と港の整備により始まり,播磨の穀倉地帯を背後にもつことから姫路藩の年貢米の集散地,内海航路の拠点として栄えた。明治中期,鉄道(山陽本線)が市内を避けたことから発展が遅れたが,加古川の水に恵まれているのでしだいに製紙,紡績などの工場が立地し,昭和に入ると機械,化学,窯業などがつづいた。…

【播磨国】より

…国高は52万石となった。 関ヶ原の戦(1600)のあと徳川家康の女婿池田輝政が播磨一国52万石をうけて姫路城に入った。彼は翌年(慶長6)播磨国中の太閤検地帳を回収し,机上計算によって2割の高増しを行い,それによってさっそく年貢増徴を果たした。…

【姫路[市]】より

…本能寺の変(1582)で秀吉の在城は3年余で終わり,そのあと姫路には弟秀長が,次いで85年からは木下家定が在城した。関ヶ原の戦後1ヵ月,1600年(慶長5)10月池田輝政が播磨一国52万石を与えられて入封,縄張りを改めて新たに今の姫路城を築いた。内堀はらせん状に旋回して藍染川に連なって中堀となり,さらに船場川から外堀につながって城下町の地域を区画する。…

【姫路城】より

…近世の築城は,1580年(天正8)に当時の城主黒田孝高(如水)が,毛利氏と戦うべく西下した羽柴秀吉にこの城を明けわたし,秀吉の居城として普請したのに始まる。秀吉の後もその親族が城主であったが,関ヶ原の戦後,徳川家康はここに池田輝政を封じ,西国大名に備えた。輝政は大天守,小天守,渡櫓(わたりやぐら)などからなる天守群を1609年(慶長14)までに完成させるなど,大規模な改修工事を行った。…

【姫路藩】より

…1580年(天正8)羽柴(豊臣)秀吉が黒田孝高(よしたか)から姫路城を譲られたが,本能寺の変(1582)ののち大坂城に移り,そのあと83年に弟秀長が在城し,ついで85年以降木下家定1万1300石(のち2万5000石)が在城した。関ヶ原の戦後1ヵ月,1600年(慶長5)10月徳川家康の女婿池田輝政が播磨一国52万石の大名として入城した。その翌年,机上計算で6年前の太閤検地の高を早くも2割増高(ましだか)する措置をとり,それを追認させる作業として,数年をかけて2割打出し検地を行った。…

【吉田】より

…戦国の武将牧野氏がこの地に今橋城を築いて職人を招き,社寺を勧請してから発展し,一説では1522年(大永2)牧野信成が今橋城を改めて吉田城と称したという。吉田城は東から今川氏,西からは松平氏,それに田原の戸田氏の進攻の前に幾度か戦火にさらされたが,豊臣秀吉の命によって池田輝政が15万石余で入封すると,城郭を築き,豊川の治水に努力し,町並みを整備するなど,本格的な城下の建設に着手した。江戸幕府創設後は譜代大名の交替が相次いだが,歴代藩主の努力もあって城下町として発展した。…

※「池田輝政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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