河田賢治(読み)カワタ ケンジ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「河田賢治」の解説

河田 賢治
カワタ ケンジ


肩書
日本共産党名誉幹部会委員,元・参院議員

生年月日
明治33年1月1日

出生地
京都府与謝郡岩滝村

学歴
東京工科学校機械科

経歴
小学校を卒業後、明治45年舞鶴海軍工廠に入り、大正6年上京して富士電機に勤務、夜は学校に通った。8年日本鉄工に入社、友愛会東京鉄工組合支部に入会して労働運動に加わる。10年解雇され、11年総同盟関東同盟会主事となり、同年日本共産党創立とともに入党。昭和3年3.15事件で捕えられた。18年に出所戦後共産党再建にあたり、21年京都府委員長、24年衆院議員に当選1回。26年レッドパージにあい、地下活動に移る。32年公然活動に復帰し、33年中央委員、39年中央委員会幹部会員。43年以来参院議員を2期務めた。のち名誉幹部会委員。

没年月日
平成7年12月17日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「河田賢治」の解説

河田 賢治
カワタ ケンジ

大正・昭和期の政治家 日本共産党名誉幹部会委員;元・参院議員。



生年
明治33(1900)年1月1日

没年
平成7(1995)年12月17日

出生地
京都府与謝郡岩滝村

学歴〔年〕
東京工科学校機械科

経歴
小学校を卒業後、明治45年舞鶴海軍工廠に入り、大正6年上京して富士電機に勤務、夜は学校に通った。8年日本鉄工に入社、友愛会東京鉄工組合支部に入会して労働運動に加わる。10年解雇され、11年総同盟関東同盟会主事となり、同年日本共産党創立とともに入党。昭和3年3.15事件で捕えられた。18年に出所。戦後共産党再建にあたり、21年京都府委員長、24年衆院議員に当選1回。26年レッドパージにあい、地下活動に移る。32年公然活動に復帰し、33年中央委員、39年中央委員会幹部会員。43年以来参院議員を2期務めた。のち名誉幹部会委員。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河田賢治」の解説

河田賢治 かわた-けんじ

1900-1995 大正-昭和時代の労働運動家,政治家。
明治33年1月1日生まれ。大正11年総同盟関東同盟主事となり,共産党に入党。総同盟分裂後は日本労働組合評議会中央委員となる。三・一五事件で懲役10年。戦後,共産党の再建につとめ,昭和24年衆議院議員,43年参議院議員(当選2回)。平成7年12月17日死去。95歳。京都出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の河田賢治の言及

【三・一五事件】より

… 検挙を逃れた市川正一らの幹部は,弾圧への抗議行動を訴えつつ党の再建をはかるとともに労農党などの再建につとめたが,コミンテルンの方針転換もあってその指導は混乱し,再建が軌道にのらないうちに翌29年4月の四・一六検挙で壊滅的打撃をうけた。三・一五事件の裁判は,四・一六事件の被告と統一して行われ(一部は分離公判),被告らは,裁判を共産党の宣伝扇動の場として利用する闘争を展開したが,32年10月の判決では,三・一五事件の被告徳田球一,志賀義雄,杉浦啓一,河田賢治らは,治安維持法改悪前の最高刑10年の懲役を科された。【岡本 宏】。…

※「河田賢治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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