労働運動(読み)ろうどううんどう(英語表記)working-class movement 英語

精選版 日本国語大辞典 「労働運動」の意味・読み・例文・類語

ろうどう‐うんどう ラウドウ‥【労働運動】

〘名〙 労働者階級資本家階級支配抑圧反対し、労働条件維持改善、その他経済的・社会的地位向上をめざして行なう自主的な運動
日本下層社会(1899)〈横山源之助〉日本の社会運動「期成会員諸子の如く労働運動の先鋒者が能く力を尽くすこと少なきを憾まずんばあらず」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「労働運動」の意味・読み・例文・類語

ろうどう‐うんどう〔ラウドウ‐〕【労働運動】

労働者団結して労働条件の改善や社会的地位の向上を目ざして行う運動。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「労働運動」の意味・わかりやすい解説

労働運動
ろうどううんどう
working-class movement 英語
labor movement 米語
Arbeiterbewegung ドイツ語
mouvement ouvrier フランス語

労働運動とは、労働者階級が、資本家階級から受ける搾取と抑圧に反抗して、自分たちの労働と生活の条件を守り、改善するための運動をいう。

塩田庄兵衛

労働運動の意義と領域

労働運動の発生

労働運動は資本主義社会の必然的産物である。封建制度の社会が解体して資本主義制度の社会が成立し始めるに伴って、新しく発生してきた労働者階級は労働運動をおこした。さらに産業革命を経過して資本主義が確立し、高度化するに伴って、その矛盾も広がったから、労働運動は社会主義思想を受け入れ、資本主義制度そのものを廃止し、階級対立のない社会主義制度を実現することを目標とするようになった。

 労働運動は数世紀にわたる歴史的発展を経て、今日では世界に労働者階級を中心とする勢力が政治権力を握る十数か国の社会主義国が出現し、人類史の動向に大きな影響を与える段階に到達した。また、これまで長年の間、発達した資本主義国の帝国主義的支配を受けていたアジア、アフリカ、ラテンアメリカの植民地・従属国における民族解放闘争の発展のなかで、労働者階級が指導的役割を果たす傾向が強まった。さらに資本主義諸国の内部でも、労働運動の力が強大になり、独占資本の支配に介入し、政治、経済、社会の動向に大きな影響力をもつようになってきた。

[塩田庄兵衛]

労働運動の諸部面

労働運動は、初めは個々の資本家の圧制と搾取に反抗する労働者の孤立・分散した抵抗として開始されたが、資本主義の確立・発展とともに労働者階級の数が増え、生産活動のなかで集団的規律を身につける訓練を受け、互いの立場の基本的共通性を意識して連帯を強めるようになった。さらに計画的、組織的な活動を展開するようになり、ストライキその他の闘争方法を発展させ、また持続性のある自主的組織に団結するようになった。労働者が最初につくった組織には、労働組合、協同組合、共済組合などがあるが、さらに階級的自覚の高まりとともに、社会主義思想を受け入れて、資本主義社会の変革を目ざす革命闘争を指導するための政治組織、すなわち社会主義政党あるいは労働者政党を結成して活動するようになった。この労働者階級の団結は、1企業から産業部門全体へ、さらに1地域、1国から国際的規模へと拡大してきた。そしてその活動分野も、経済闘争、政治闘争、思想闘争の三つの側面をもつようになった。

 これらの諸組織部面、諸闘争形態は相互に関連しあっており、促進しあって発展するが、その具体的現れ方には、歴史のそれぞれの時期によって、またそれぞれの国の事情によって特殊性がみられる。一般的に労働者は、初めは主として生活防衛のための相互扶助組織である共済組合や協同組合に団結するが、やがて労働組合をよりどころに持続的、大衆的な闘いを運動の中心とするようになり、さらにその基礎のうえに社会主義政党を先頭に押し立てて闘うようになったといえよう。そのなかで、たとえば協同組合運動は、イギリスや北ヨーロッパ諸国で伝統的に活発であり、アメリカ合衆国では、労働組合運動はかなり強力であるが、有力な社会主義政党がなく、労働者階級の独自の政治闘争は低調である、といった特徴がみられる。労働運動には経済闘争、政治闘争、思想闘争の三つの側面があると述べたが、資本家階級が労働者階級を経済的に搾取し、政治的に支配し、また経済的搾取と政治的支配とを維持するために思想的支配を図るのに対抗するためには、この三つの側面をそれぞれ独自の運動として展開し、それとともに互いに結び付きを図ることが必然的となるのである。

[塩田庄兵衛]

経済闘争

経済闘争は、歴史的にみて労働運動の最初の形態であるが、いまでも労働者が生きていくためには避けることのできない闘いであり、資本家階級による搾取に反対し、それを弱めることを目的とする。それは、労働力の販売のより有利な条件を獲得するために、労働条件と生活状態の改善のために、労働者が雇主に対して行う賃金引上げ、労働時間短縮、資本家的「合理化」反対、首切り反対などを目的とする闘争である。労働組合が組織されたのも、もともと経済闘争の必要からであった。

[塩田庄兵衛]

政治闘争

労・資の階級対立は経済的利害の対立を根本にしているが、それは政治に集中的に反映する。政治とは、国家権力による階級支配のさまざまな形であるが、資本主義社会では資本家階級の支配のために権力が行使される。政治闘争は、資本家階級の政治的支配を弱め、労働者階級と勤労人民の政治的地位を改善するための闘争から、さらに労働者階級を中心とする人民が政治権力を獲得するための闘争を含む。

[塩田庄兵衛]

思想闘争

資本主義社会では、支配階級である資本家階級のものの考え方や、農民や都市の小市民などのプチ・ブルジョア的(小所有者的)なものの考え方が労働者階級のなかに持ち込まれ、影響力をもつ。思想闘争は、これらを克服して、労働者階級の独自の立場にたつものの考え方を確立し、広げていくための闘争であって、政治闘争を発展させ、経済闘争と政治闘争を結び付けていくうえで欠くことのできない闘いである。

[塩田庄兵衛]

国際労働運動の成立と展開

産業革命と労働運動の高揚

封建社会が解体して資本主義社会が成立し始めるに伴って、農民や手工業者が土地や仕事場などの生産手段から切り離されてプロレタリア(無産者)に転落し、賃金労働者となった。この変動に投げ込まれた人々の不満は、多くの騒擾(そうじょう)や暴動を引き起こした。産業革命によって機械制工場生産が行われることに反対する職人的労働者を中心とする機械うちこわし運動(ラッダイト運動)が、イギリスで19世紀初めに広がったが、やがて歴史の発展に取り残されて消滅した。一方、賃金労働者は相互扶助のための共済組合や協同組合をつくるとともに、労働組合に団結して、賃金、労働時間その他の労働条件の改善を目ざす組織的運動を始めた。これに対してイギリスの議会は、1799年と1800年に団結禁止法を制定して弾圧を加えた。しかし、この法律は労働者の抵抗と資本主義の状況変化によって意味を失い、1824年と1825年に撤廃されるに至った。

 18世紀末から19世紀なかばにかけてイギリスを先頭に西ヨーロッパ諸国に産業革命が進行し、資本主義が確立するに伴って労働運動が本格的に発展し始めた。大陸では、1831年、1834年のフランス・リヨンの絹織物工の蜂起(ほうき)、1844年のドイツ・シュレージエン織工一揆(いっき)などがその先駆けとなった。労働者階級独自の政治闘争も始まり、イギリスでは1830年代後半以降、労働者の政治的権利確立の「人民憲章」の制定を求めるチャーティスト運動が展開され、大陸では1848年の二月革命、三月革命のなかで、労働者階級は資本家階級とは別に独自に封建勢力と闘い始めた。

[塩田庄兵衛]

科学的社会主義の成立

産業革命の進行に伴って資本主義の弊害が表面化したことに対して、人道主義の情熱に燃える知識人のなかから社会主義の主張が現れた。イギリスのロバート・オーエン、フランスのシャルル・フーリエ、サン・シモンらがその代表である。しかし彼らは、労働者階級が未成熟であった歴史的条件に制約されて、資本主義から社会主義への変革の必然性を根拠づけることができなかったので「空想的社会主義者」とよばれている。画期的な意味をもったのは、1847年に革命運動の小さな国際組織として結成された共産主義者同盟の綱領として、マルクスとエンゲルスが1848年に『共産党宣言』を発表したことであった。これによって労働者階級が変革の担い手となって、資本主義から社会主義への移行が行われる必然性が理論的に根拠づけられ、科学的社会主義(=マルクス主義)が成立して、労働運動に大きな影響力をもつことになった。

 マルクス、エンゲルスが指導的役割を演じて、1864年にロンドンで国際労働者協会(第一インターナショナル)が結成された。さまざまな社会主義の潮流や労働運動団体がヨーロッパ中心に寄り集まった混成部隊であったが、労働運動の国際的結集を実現したという歴史的意義をもった。協会は72年以降活動停止状態となり、1876年に解散した。しかしその間、ヨーロッパ各国に社会主義政党の結成が進んだ。先頭を切ったドイツでは、1863年にフェルディナンド・ラッサールの指導のもとに普通選挙法獲得を目ざす全ドイツ労働者協会が結成された。1869年にはマルクス主義の影響のもとに、ベーベル、リープクネヒトを指導者にドイツ社会民主労働者党が結成された。そして両派は1875年のゴータ大会で合同してドイツ社会主義労働者党(のちにドイツ社会民主党と改称)と名のり、1877年の総選挙で9%以上の投票を獲得して政治勢力として進出した。これに対しビスマルク宰相は1878年に社会主義者鎮圧法を制定して弾圧を加えたが、地下活動と国外での運動で力を充実させた社会主義勢力は、ビスマルクを失脚に追い込んで合法政党となり、社会民主党と名のるようになり、1891年のエルフルト大会でマルクス主義の立場をとる新綱領を採択した。この時期、1870年オランダに、1871年デンマークに、1872年ボヘミアに、1876年アメリカ合衆国に、1879年フランスとスペインに、1898年ロシアにと、次々に社会主義政党が結成された。社会主義とは縁遠いと考えられたイギリスにも、1883年マルクス主義的な社会民主連盟が結成された。

 資本主義の最先進国として「世界の工場」といわれたイギリスでは、19世紀なかば以来、労働運動が穏健化し、経済闘争中心を特色とした。その主力部隊は熟練労働者の職業別労働組合であった。1868年にはその全国的結集体としてイギリス労働組合会議(TUC)が組織された。しかし資本主義の拡大・発展に伴って、未熟練労働者を組織する一般労働組合general unionが登場するようになった。さらに、独占資本主義の時代である20世紀に入ると、職種を問わず同一産業に従事するすべての労働者を一括組織することを原則とする産業別労働組合が基本的な組織形態になり、労働組合の大衆的・階級的性格が強まった。

 1889年にパリで社会主義政党の国際組織が結成された(第二インターナショナル)。マルクス主義的な社会主義政党と労働者諸組織の緩い連合体で、8時間労働制の実現、労働者の選挙権の拡大、労働者保護立法の制定と拡充など、おもに改良主義的な要求を課題に運動した。エンゲルスの提唱を受けて、1890年には「万国の労働者団結せよ!」のスローガンを掲げて国際的メーデーを開始した。この時期に労働組合の国際組織も成立した。1890年以降、各種の国際産業別書記局(ITS。現、グローバル労連。GUF)が設立され、1903年には各国労働組合センター国際書記局がつくられた。これはのちに国際労働組合連盟(IFTU)と名のるようになった。

[塩田庄兵衛]

第一次世界大戦とロシア革命

独占資本主義の段階に入ると帝国主義戦争が繰り返されるようになった。労働者階級は巨大な数に増大し、社会的役割が大きくなった。労働運動の課題は多面化し、その影響力が強まると同時に複雑な経過をたどることになった。第一次世界大戦(1914~1918)とロシア社会主義革命(1917)によって資本主義世界は激動した。労働運動の内部には、革命化・戦闘化する潮流と、労資(使)協調主義・改良主義の立場をとる潮流との左右両派への分化がくっきりし、その対立が激化した。

 第一次世界大戦が始まると、これまで帝国主義戦争反対を唱えていた各国の社会主義政党は、ほとんどが「祖国防衛」の名目で戦争協力の立場に転換し、第二インターナショナルは崩壊した。しかしロシアでは、1917年11月(ロシア暦では10月)ロシア社会主義労働党ボリシェビキ派の指導のもとに社会主義革命が成功し、労働運動の長年の夢であった労働者階級の政治権力が樹立された。ロシア革命の国際的影響は深刻で、労働運動に強い刺激を与えた。ヨーロッパ、アジアの各国で革命運動が高揚した。ロシア革命の指導者レーニンの呼びかけで、19年3月、革命運動の国際的統一指導部として共産主義インターナショナル(第三インターナショナル、略称コミンテルン)がモスクワで結成された。ドイツをはじめとする各国に共産党が相次いで結成されて、コミンテルンの支部となった。さらに21年に、革命的労働組合運動の国際的連絡組織として赤色労働組合インターナショナル(略称プロフィンテルン)がモスクワに結成された。コミンテルンとプロフィンテルンは、第一次大戦を境に高揚し始めた植民地・従属国の労働運動を援助し、このころからヨーロッパ、北アメリカだけでなく、アジアその他の植民地・従属国の労働者も、国際労働運動の舞台に組織的に登場することになった。

 他方、先進資本主義国では、独占資本の超過利潤の分け前にあずかる特権的労働者層が「労働貴族」として形成され、それを基盤に労働運動を労資(使)協調主義、改良主義、反共主義の路線で指導する「労働官僚」が支配力を振るった。これら右派勢力は1920年7月、ジュネーブで第二インターナショナルを復活させた。中央派が1921年2月に国際社会党協議会を結成したが、1923年にはこれは前者に合流して、本部をロンドンに置く社会主義労働者インターナショナルが成立した。労働組合戦線でも、1919年7月にアムステルダムでIFTUが復活して、反共・反ソの立場を明確にした。

[塩田庄兵衛]

軍国主義の台頭と侵略戦争

1929年秋アメリカから始まった大恐慌は、資本主義の矛盾を激化させ、アジアの日本とヨーロッパの各国で軍国主義が台頭し、侵略戦争が開始された。これと連動してファシズムが台頭し、民主主義と平和に対する脅威が深刻になった。その典型は、先に1922年にイタリアでムッソリーニがファシズム政権を樹立したのに続いて、1933年1月、ドイツでヒトラーのナチスが独裁政権を樹立したことであった。各国で労働者階級を中心に反ファシズム運動が展開されたが、画期的であったのは、1935年夏モスクワで開かれたコミンテルン第7回大会が、反ファシズム統一戦線運動(人民戦線)の方針を樹立したことであった。すなわち、反戦・反ファシズムを課題に、労働戦線を統一し、共産党・社会党が提携して広範な人民の統一戦線を形成しようというのである。

 1936年にはフランス、スペインで人民戦線派が総選挙で勝利し、革新連合政府=人民戦線政府を樹立した。やがてスペインでは、ドイツ、イタリアのファシズム権力に支援されたフランコ将軍の反革命武力反乱によって人民戦線政府は倒され、フランスの人民戦線政府も長く維持することはできなかったが、各国に広がった統一戦線運動は、第二次世界大戦中のレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)の基礎となり、さらに戦後、労働者階級を中心とする統一戦線運動、社・共の共同戦線運動のなかに受け継がれた。中国、ベトナム、インドネシアなどアジア地域でも、民族解放を目ざす統一戦線運動が展開された。この状況のなかで、プロフィンテルンは1937年に、コミンテルンは1943年にその役割を終えたとして解散した。

[塩田庄兵衛]

第二次世界大戦後の国際労働運動

世界労連の結成と分裂

第二次世界大戦は1945年に終わったが、東ヨーロッパに人民民主主義革命を経て社会主義建設に向かう国々が相次いで現れ、さらに朝鮮、ベトナム、中国でも革命が起こり、社会主義世界は拡大し、資本主義との「二つの世界」の対立が人類史の基本条件となる時代に入った。労働運動はこの条件に規定されて展開することになった。

 第二次世界大戦末期から、イギリス、フランス、ソ連などの労働組合間で戦後を展望した交流が進んでいたが、1945年10月、パリで世界労働組合連盟(WFTU)が結成された。資本主義国、社会主義国、植民地の労働者を、社会体制、思想・信条、皮膚の色の違いを超えて結集した初めての全地球的な国際労働組合組織の成立であった。これに加盟を拒否した主要組織は、アメリカ労働総同盟(AFL)だけであった。世界労連は、ファシズムの絶滅、戦争の根源である独占資本との闘争と恒久平和の樹立、賃金・生活水準の改善を目標に掲げた。ヨーロッパ各国に社・共両党が連合する革新政権が樹立された。

 しかし1947年以降、早くも二つの世界の「冷たい戦争」が表面化した。アメリカ陣営から反ソ・反共を目的とする分裂攻撃が加えられ、産業別組合会議(CIO)、イギリス労働組合会議(TUC)を先頭に資本主義国の有力組合が脱退して世界労連は分裂した。そして脱退派は1949年12月、ロンドンで国際自由労連(ICFTU)を結成し、反共主義・労資(使)協調主義の立場を明らかにした。世界労連の組織勢力は120か国、1億3000万人(2000)、国際自由労連は150か国、1億5800万人(2002)といわれている。なおこのほかに国際労働組合連合(WCL)があり、116か国、2600万人(2001)といわれている。

 労働運動の政治的側面でも、共産主義と社会民主主義の対立がふたたび激しくなった。1947年10月、ヨーロッパ9か国の共産主義政党はコミンフォルム(共産党および労働者党情報局)を結成した(1956年に解散)。一方、同じ1947年11月にコミスコ(国際社会主義者会議委員会)が組織され、これは1951年に社会主義インターナショナルと名のり、反マルクス主義の民主社会主義の立場を明らかにした。

[塩田庄兵衛]

現代の国際労働運動

1960年以降、国際共産主義運動の内部に中ソ論争を中心とする路線対立が表面化し、それは世界労連その他の左派系の労働運動にも反映した。そのなかから日本を含めて発達した資本主義国の共産党は、自主独立の立場からそれぞれ独自の革命路線の探求を試みるようになった。また、社会主義国でも共産党のイニシアティブによる改革への試みが進められることになった。

 1970年代なかばから資本主義の矛盾が新たに激化し、生産の不振、貿易摩擦、財政危機、産業構造の転換、多国籍企業の広がりなどの条件のもとで、労働運動に対する資本の側からの攻撃が厳しくなり、失業が増大し、賃金引上げが困難になり、労働組合の地盤沈下がみられ、労働運動はその打開への挑戦を余儀なくされている。また1980年代から1990年代初めにかけて、ソ連の崩壊、東欧の民主化などによって、国際労働運動は新しい局面を迎えている。

[塩田庄兵衛]

第二次世界大戦前の日本の労働運動

資本主義の形成と労働運動の台頭

明治維新によって幕藩体制が倒れ、資本主義的発展の道が切り開かれるに伴って、労働運動が発生し始めた。しかし、絶対主義的天皇制が権力を握り、専制的、非民主的な政治制度のもとで資本主義の育成が進められたので、労働運動は厳しい制約を受けた。資本主義の発展にとって必要な労働力は、土地を失った農民を主力に、ギルド的株仲間の解体に伴う手工業職人と封建的支配層としての地位を失った士族層のなかから生み出された。労働運動として最初に目だったのは鉱山労働者と職人層の反抗であった。それはしばしば暴動化した。1886年(明治19)山梨県甲府で雨宮(あめみや)製糸の女子労働者が労働条件の悪化に反対しておこしたストライキ(雨宮製糸争議)が、もっとも初期の工場労働者のストライキ闘争とされている。労働組合結成の試みも、印刷労働者や鉄工(金属・機械工業の中核としての熟練労働者)の間で始まった。

 日清(にっしん)戦争(1894~1895)は、日本資本主義確立の画期となったと同時に、労働運動発展の出発点ともなった。政府統計によると1897年の下半期だけで32件のストライキが記録されており、それまでと際だった対照をみせた。とくに1898年2月におこった日本鉄道機関方の待遇改善要求と首切り反対のストライキ(日本鉄道争議)は、労働問題に対する社会の関心を刺激した。

 労働組合の組織運動が始まった。アメリカ帰りの高野房太郎(ふさたろう)らは、職工義友会を設立して労働組合の結成を呼びかけ、労働組合期成会を組織(1897)して、それを母体に運動を進めた。片山潜(せん)を主筆に、わが国最初の労働組合運動の機関紙『労働世界』が発刊された。鉄工組合、日本鉄道矯正会、活版工組合などの職種別組合が相次いで結成された。この時期に生活協同組合の運動も始まった。しかし1900年(明治33)に制定された治安警察法は、労働運動の発展に致命的な障害となった。とくにその第17条は、労働組合や労働争議を禁止し、「労働組合死刑法」といわれた。未成熟であった労働組合運動は一時的に消滅した。

[塩田庄兵衛]

独占資本主義の確立と社会主義運動

労働組合運動の誕生とほぼ時期を同じくして社会主義運動が始まった。1898年に社会主義研究会が結成され、知識人たちによる社会主義の集団的研究が始まった。1901年5月、わが国最初の社会主義政党である社会民主党が結成された。しかし治安警察法によってただちに解散させられたので、「宣言」を発表しただけで具体的に活動することはできなかった。

 日露戦争(1904~1905)に対して、社会主義者たちは公然と反対の声をあげた。幸徳秋水(こうとくしゅうすい)、堺利彦(さかいとしひこ)らは1903年に平民社を創立し、その機関紙として週刊『平民新聞』を発行し、「非戦論」を叫び続けた。また片山は、戦争さなかの1904年8月、オランダのアムステルダムで開かれた万国社会党大会(第二インターナショナル第6回大会)に日本の社会主義者を代表して出席し、日本人民の平和と社会主義への熱意を表明し、「敵国」ロシアの代表プレハーノフと壇上で固い握手を交わして大きな国際的反響をよんだ。『平民新聞』はたびたび発売禁止を受け、執筆者、編集者が次々に罰金刑・投獄の弾圧を受け、ついに1905年1月廃刊を余儀なくされた。後継紙として『直言』『光』『新紀元』などが刊行されたが、長くは続かなかった。

 日露戦争の勝利を画期として日本は独占資本主義・帝国主義に向かって「前進」した。戦後の労働運動はストライキ件数の増加、その規模の拡大と激化などの特徴を示した。軍事工場や巨大工場にストライキが続発したが、1907年2月、足尾銅山争議は暴動化し、軍隊が出動して弾圧を加えた。1911年末には東京市電6000人のストライキ(東京市電争議)が、片山ら社会主義者の指導・協力を受けて勝利した。

 1906年、日本社会党が初めて合法的に成立し、1907年日刊の機関紙『平民新聞』を発行して活動した。しかしやがて、議会政策派と直接行動派の対立がおこった。社会主義運動は、それまでドイツ社会民主党流の議会政策論の立場をとり、普通選挙権の獲得を通じて労働者・農民の代表が議会の多数派となることによって社会主義を実現する路線を追求していた。ところが、アメリカ旅行から帰国した幸徳は、無政府共産社会の一挙的実現を目ざす直接行動が世界革命運動の新しい潮流であると主張して、片山や田添鉄二(たぞえてつじ)らの議会政策派と対立した。直接行動派の「過激な」主張を理由として日本社会党は結社禁止(1907)を受けた。1908年6月には赤旗(あかはた)事件の厳しい弾圧がおこされた。これは、出獄同志の歓迎会で直接行動派の青年が「無政府共産」「無政府」と記した赤旗を振り回して警官隊と衝突した小事件に、厳しい重刑が科せられた弾圧事件であった。続いて1910年5月から大逆(たいぎゃく)事件の検挙が始まった。これは、少数の直接行動主義者の空想的なテロリズム計画を、幸徳を首謀者とする明治天皇暗殺の一大陰謀計画にでっち上げて、社会主義運動を一掃しようとする権力側の謀略事件であった。秘密裁判の結果、24名に死刑が宣告されたが(うち12名は天皇の名によって無期懲役に「減刑」)、その大多数はまったく無実の犠牲者であった。韓国併合と同じ年に起こされた大逆事件によって、社会主義運動は「冬の時代」とよばれる一時的窒息状態のなかに凍結された。

[塩田庄兵衛]

総同盟の成立と発展

第一次世界大戦と1917年のロシア革命は日本の労働運動にも大きな刺激を与えた。大戦を利用した高度経済成長を通じて、日本資本主義は独占資本主義の段階に達した。これまでの若年女子労働者が圧倒的多数を占める繊維産業中心の産業構造から、成年男子労働者を主力とする重化学工業中心へと比重が移行し始め、労働運動発展の条件が成熟してきた。1918年(大正7)夏、米(こめ)騒動が起こった。物価とくに米価暴騰に反対する大衆運動が暴動化して全国に広がり、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣を総辞職させた自然発生的な運動であったが、この経験が土台になって人民各階層の組織化が始まった。

 これより先1912年8月、友愛会が結成された。東京帝国大学出身の法学士鈴木文治(ぶんじ)の指導のもとに15人の労働者が集まった共済・親睦(しんぼく)団体であったが、時代の潮流にのって急速に発展し、1921年には日本労働総同盟(総同盟)と名のる労働組合の全国中央組織(ナショナル・センター)に成長した。

 社会主義運動も「冬の時代」から脱出して新しい発展を開始した。まず1912年10月に、アナルコ・サンジカリズム(革命的労働組合主義)派の大杉栄(さかえ)・荒畑寒村(あらはたかんそん)らが『近代思想』誌を発行して再生の声をあげた。続いて堺利彦らがマルクス主義的な立場から1915年9月に『新社会』誌を発刊した。

 米騒動の年1918年には107を数えるにすぎなかった労働組合が、その後、急テンポで増大した。1920年に第1回メーデーが東京・上野公園で催された。1890年に始まった国際的メーデーに遅れること30年であるが、日本の労働運動の発展を象徴するできごとであった。

 1920年3月、戦後恐慌がおこった。第一次世界大戦を通じて経済が急膨張したことへの反動であった。首切りと賃下げの資本攻勢が労働者を襲った。困難な抵抗闘争のなかで、アナルコ・サンジカリズムが労働者の戦闘的分子の間に影響力を広げた。争議は長期化し、しばしば暴力化した。さらには労働組合そのものを否認する傾向も現れた。しかし、大衆的な団結を軽視する少数者の先鋭な闘争が有効でないことが、運動の経験を通じて確かめられていった。基幹産業の巨大工場でも争議が続発した。1920年2月に、わが国最大の工場である八幡(やはた)製鉄所で1万3000人の労働者が立ち上がり、溶鉱炉の火を消した(八幡製鉄所罷業)。1921年には、神戸の川崎・三菱(みつびし)両造船所の労働者は3万人の争議団を形成して1か月にわたって闘い続け、警官隊・軍隊と衝突した(川崎・三菱造船所争議)。これは第二次世界大戦前最大規模のストライキ闘争であった。

 1920年12月、各派の社会主義的傾向の団体が合同して、日本社会主義同盟を結成した。やがてマルクス主義派(当時の呼び方でボリシェビキ派)とアナキスト(無政府主義者)のアナ・ボル論争が表面化し始めた。同盟そのものもまもなく結社禁止された。

 1922年7月15日、日本共産党が結成された。非公然の秘密結社であり、コミンテルン日本支部として位置づけられた。科学的社会主義(マルクス主義)を指導原理とする革命運動の司令部が成立し、今日まで一貫して運動を続けてきた。しかし、その歩みは波瀾(はらん)に満ちている。まず1923年6月に共産党に対する一斉検挙が行われた(第一次共産党事件)。その後まもなく1924年3月には解党決議が行われ、改めて再組織を目ざすことになった。

[塩田庄兵衛]

労働運動の分裂

1923年9月1日に関東大震災が起こった。その混乱のなかで、支配階級の手による人民の虐殺事件(白色テロル)が起こされた。在日朝鮮人虐殺、戦闘的労働運動家を軍隊が虐殺した亀戸(かめいど)事件、アナルコ・サンジカリズム運動の指導者大杉栄夫妻の憲兵隊での扼殺(やくさつ)事件がそれである。この時期から、労働運動における革命的・戦闘的潮流と改良主義的・労資協調主義的潮流との分化がはっきりし始め、左右の対立が激化するようになった。当時もっとも有名なナショナル・センターであった総同盟(当時の組合員約3万人)の内部で、右派の社会民主主義者と左派の共産主義者との対立が激しくなり、1925年5月に分裂して、左派は日本労働組合評議会(評議会)を結成した。このできごとは、容共か反共かをめぐって運動団体が分裂するモデルとなった。評議会は日本共産党の指導を受ける左翼労働組合として戦闘的潮流を代表し、東京の共同印刷争議や浜松の日本楽器争議などの大争議を指導した。

 1925年の議会で男子普通選挙法と治安維持法とが抱き合わせで制定された。すなわち、無産者に政治参加の機会を拡大する民主主義的譲歩と同時に、主権在民と資本主義変革を目ざす革命運動には徹底的弾圧を加える「あめとむち」の政策であった。治安維持法を実施する部隊として特高(とっこう)警察(特別高等警察とよばれる政治的秘密警察)の網が張り巡らされ、共産主義運動を徹底的に弾圧したばかりでなく、やがて社会民主主義者、自由主義者、宗教家へと弾圧の対象は拡大され、1945年(昭和20)の敗戦によって廃止されるまでの20年間に、治安維持法によって逮捕された者は数十万人、送検された者は7万5000人以上、獄死ないし虐殺された者も多数に上った。

 一方、選挙権が拡大したことによって合法無産政党に活動の道が開かれた。1925年12月、農民労働党が結成された。しかし、背後に共産党の影があることを理由に、結党3時間後に禁止された。改めて1926年3月、労働農民党(労農党)が結成された。しかし、同党が出発後、左派に門戸を開放して戦闘化の傾向をみせ始めると、たちまち分裂がおこった。同年12月に右派は社会民衆党(社民党)を結成し、総同盟を支持基盤とし、反共主義の立場を明らかにした。中間派は日本労農党(日労党)を結成し、総同盟を分裂させた日本労働組合同盟を支持基盤とした。このほかに農民運動家の平野力三(りきぞう)は10月に日本農民党を結成した。このように、合法無産政党は思想潮流ごとに分立した。

[塩田庄兵衛]

恐慌下の「合理化」反対闘争

1927年(昭和2)に始まった金融恐慌、1929年秋アメリカから始まった世界大恐慌に息つくひまなく襲われて、日本資本主義は深刻な危機を迎えた。失業者は250万人といわれた。「産業合理化」の掛け声のもとで賃下げと首切りが労働者を襲った。大企業は経済界への支配力を強め、国家権力と癒着して国家独占資本主義の体制を固めていった。この時期に、日本軍部の中国侵略が開始された。1927年5月、中国革命の進展を妨害する目的で山東半島への出兵が強行された。これに反対して「対支非干渉」を主張する反帝国主義・反戦・平和擁護の統一行動が展開された。

 1926年12月、日本共産党は非公然の第3回大会を開いて再建した。翌27年、正式に採択した最初の綱領的文書として「日本問題に関する決議」(二七年テーゼ)を決定した。二七年テーゼは、日本の革命はブルジョア民主主義革命から社会主義革命に急速に転化する見通しをもっていると規定した。そして1928年2月1日に中央委員会機関紙『赤旗』(当時は「せっき」と読んだ)を秘密出版物として創刊した。これに対して、日本の革命は直接に社会主義革命を目ざすと主張するグループは1927年12月、雑誌『労農』に結集した。日本共産党と労農派との間に、革命の戦略をめぐる論争が展開された。

 1928年2月に第1回普通選挙が行われ、無産政党議員が初めて議会に進出した。その直後、治安維持法が発動されて、全国で約1600人の共産党員やその支持者が検挙された(三・一五事件)。そして労農党、評議会、無産青年同盟の左翼3団体は4月10日に結社を禁止された。さらに翌1929年、約1000人が治安維持法によって検挙されて共産党は甚大な打撃を受けた(四・一六事件)。戦闘的な合法無産政党としての労農党の再建運動は難航を重ね、1929年に結成されたいわゆる新労農党(正式名称は労農党)も発展することができず、やがて1931年7月、合法無産政党の合同体である全国労農大衆党のなかに右派の社会民衆党の一部および中間派の全国大衆党とともに解消していった。評議会禁止後の左翼労働組合として、1928年12月、日本労働組合全国協議会(全協)が組織された。全協はプロフィンテルンに加盟して国際連帯の強化を図ったが、事実上、非合法状態を余儀なくされ、1934年ごろ消滅状態に陥った。

 昭和大恐慌下の「合理化」反対闘争は長期・激烈なものとなった。長野県岡谷(おかや)市の山一林組(やまいちはやしぐみ)製糸工場、千葉県野田市の野田醤油(しょうゆ)、鐘淵(かねがふち)紡績会社の京阪神を中心とする各工場、東洋モスリン(洋モス)亀戸工場、川崎市の富士紡績工場の「煙突男」、東京の芝浦製作所、東京市電その他に次々と賃下げや解雇に反対する争議が起こったが、資本の壁を突破することは困難であった。

[塩田庄兵衛]

十五年戦争と労働運動

1931年9月に始まった満州事変から、1937年7月に始まった日中戦争、1941年12月に始まった太平洋戦争を経て、1945年8月の敗戦に至る十五年戦争の拡大に反比例して労働運動は衰退し、やがて一時的消滅状態に陥った。日本の支配層は恐慌の打撃を侵略戦争によって解消することを図り、ドイツ、イタリアのファシズム権力と軍事同盟を結んで第二次世界大戦を起こしたのであった。経済の軍事化に伴って軽工業中心から重化学工業中心への産業構造の転換が推進され、景気は一時的に刺激された。1938年の国家総動員法は、すべての物的・人的資源を戦争目的に動員する権限を政府に与えたが、それには労働力の強制的徴集や労働争議禁止の権限も含まれていた。労働時間の延長、実質賃金の低下が押し付けられた。1936年以来敗戦後までの10年間、メーデーは禁止された。当時の労働組合の組織状況は、組織人員42万人(1936)、組織率7.9%(1931)が最高記録であった。

 満州事変が始まると、労働運動の右傾化が進んだ。右派幹部は「現実主義」を唱え、「争議最少化」の方針をとって闘争を抑えた。1932年9月には、労働戦線の右翼的再編成を実現して日本労働組合会議が結成された。社会民衆党は戦争協力の立場をとり、1932年1月に「反ファシズム、反共産主義、反資本主義」を唱え、反共産主義に焦点をあわせた「三反綱領」を採択した。中間派の全国労農大衆党は、戦争反対を唱えはしたが、反共産主義を強調した。そして両党は1932年7月に合同して社会大衆党となり、軍部支持、戦争協力の情勢追随の政策をとり続けた。

 共産党は反戦闘争に全力をあげ、軍隊内にも組織をつくって活動した。1932年5月、先の二七年テーゼを発展させて「日本の情勢と日本共産党の任務に関する方針書(テーゼ)」(三二年テーゼ)を作成した。これは、天皇制の性格についての分析を深めて、その打倒を中心課題とし、日本革命の性質を社会主義革命への強行的転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命と規定した。このような判断と同じ立場にたつ理論家と労農派との間で、日本資本主義の特質をめぐる論争が活発に展開された。しかし弾圧の強化によって1933年以降は「転向」者が続出する時期に陥った。1935年3月には共産党中央委員会は破壊され、以後敗戦までの10年間、統一的な全国的活動は不可能になった。

 コミンテルン第7回大会(1935)で打ち出された人民戦線運動の方針を日本で具体化することを目ざして、1936年2月、モスクワにいた野坂参三・山本懸蔵(けんぞう)は連名で「日本の共産主義者への手紙」を発表し、天皇制軍部ファシスト反対の人民戦線結成を呼びかけた。しかし運動は弾圧によって次々に押しつぶされた。1937年12月には人民戦線事件の検挙によってとどめが刺された。

 日中戦争が始まると、社会大衆党は「日本民族の聖戦を支持する」立場を表明し、総同盟は「事変中のストライキ絶滅」を宣言して、積極的な戦争協力の姿勢を示した。しかし1940年には社会大衆党も総同盟も情勢の圧力に屈して、自発的解散を遂げて組織を解体した。これにかわって産業報国会(産報)の運動が発展した。1938年7月「労資一体、事業一家」を唱える産業報国連盟が結成され、至る所の事業所に天下りで産業報国会の組織がつくられ、1940年11月に大日本産業報国会の結成大会が開かれた。産報は最盛時には580万人の大組織に広がったが、労働者の自主的運動体ではない戦争協力機構であった。こうして敗戦までの5年間、労働運動はほとんど空白のまま「暗い谷間」に閉じ込められた。

[塩田庄兵衛]

第二次世界大戦後の日本の労働運動

占領下の民主主義運動

1945年(昭和20)8月15日、天皇制軍国主義はポツダム宣言を無条件受諾して降伏した。アメリカ軍の占領下で戦後の「民主化」が進められた。治安警察法、治安維持法などの弾圧法規は撤廃され、特高(とっこう)警察は解体され、政治犯として獄中に捕らえられていた労働運動家は釈放された。日本共産党が初めて合法化し、戦前の無産政党各派も合流して日本社会党を結成した。荒れ果てた国土のうえで労働者は、賃金引上げ、首切り反対、職場民主化を要求して闘いに立ち上がった。産業報国会は解散され、かわって労働組合の結成が急テンポで進んだ。敗戦時にゼロであった労働組合は、1945年12月には509組合、38万人を数え、1946年6月には1万2000組合、368万人、組織率39.5%に上った。1945年12月に制定(1946年3月施行)された労働組合法が、その傾向を促進した。やがて1946年11月に制定され、1947年5月に施行された新憲法(日本国憲法)はその第28条で、労働者の団結権、団体交渉権、ストライキ権の基本的三権を保障することを規定した。

 第二次世界大戦後の労働組合は企業別に組織されることを原則としたが、それらを産業別に、さらに全国中央組織(ナショナル・センター)に統一することが図られた。しかし戦前以来の対立が根深く、ナショナル・センターは1946年8月、右派の日本労働組合総同盟(総同盟)と左派の全日本産業別労働組合会議(産別会議)とに分立した。総同盟は85万人を結集し、日本社会党支持の立場をとった。産別会議は156万人を結集し、「政党支持の自由」の原則を唱えたが、日本共産党の強い影響を受けた。

 1946年前半は、民主人民戦線運動、幣原(しではら)内閣打倒人民大会、11年ぶりの第17回メーデー(東京で50万人、全国で200万人が参加)、食糧メーデー(25万人)など労働者階級を中心とする大衆的政治闘争も高揚した。労働組合が生産の主導権を握る生産管理闘争も続発し、資本家は「経営権の危機」を叫んだ。同年夏、国鉄・海員の大量首切り計画をストライキ闘争で撤回させたのち、産別会議の主導で賃上げ・権利保障要求を中心に10月闘争が展開され、「闘う産別会議」の権威が確立した。続いて官公労働者が賃上げ統一闘争を組織し、民間産業労働組合と共同して、この経済闘争は吉田内閣打倒、社・共両党を中心とする民主人民政府樹立を目ざす450万労働者の政治闘争に発展した。1947年2月1日のゼネスト突入直前、マッカーサー連合国軍最高司令官はストライキ禁止を命令した。一方、この二・一スト闘争を通じて労働戦線統一が各産業部門で進み、3月には全国労働組合連絡協議会(全労連)が結成されて、産別会議、総同盟を含む446万人、組織労働者の84%を傘下に収めた。

 しかし、1947年春以降、二つの世界の「冷たい戦争」が表面化するに伴って、アメリカ占領軍の反共政策が露骨になり、戦闘的労働運動への弾圧が強められ、労働組合の内部にも民主化同盟(民同)と名のる反共運動が組織され、勢力を伸ばした。おりから社会党は、共産党を排除して保守政党と連立内閣をつくった。この状況のもとで共産党の呼びかけで民主主義擁護同盟がつくられ、約1000万人を傘下に収める民主主義擁護と民族独立を唱える統一戦線運動を、1948年から1950年にかけて展開した。

[塩田庄兵衛]

ドッジ・ラインと朝鮮戦争

1948年7月、マッカーサー司令官の指示に基づいて政令二〇一号が公布され、官公労働者からストライキ権、団体交渉権が剥奪(はくだつ)された。これに抗議する国鉄・全逓(ぜんてい)(全逓信労働組合)の職場放棄闘争は、結果的に戦闘的活動家の孤立化を招いた。それ以来、官公労働者のスト権回復が労働運動の課題となり、1975年秋には国鉄の8日間連続のスト権回復を目ざすストライキ(スト権スト)が打たれたが、成果をあげることはできなかった。

 1948年12月、アメリカ政府からマッカーサー司令官を通じて吉田内閣に伝達された経済安定九原則実施の指令は、1949年にドッジ・ライン(またはドッジ・プラン)とよばれる大合理化計画として強行され、国家公務員の「行政整理」、民間産業の「企業整備」で100万人といわれる失業者がつくりだされた。焦点となった国鉄9万5000人の首切りをめぐって、7月から8月にかけて、下山(しもやま)事件、三鷹(みたか)事件、松川事件などの「謀略」を伴う弾圧事件が続発した。1949年夏を境に左派は運動の指導権を失い、労働組合運動そのものが衰退した。1948年12月の3万6000組合、671万人の組織勢力は、1950年6月には2万9000組合、577万人、組織率46.2%へと一挙に後退した(なお、1949年6月は3万5000組合、665万人で、その組織率55.8%は戦後の最高記録である)。産別会議の組織勢力は急速に減退し、のち1958年2月に解散するに至った。1949年12月には産別会議脱退派が集まって全国産業別労働組合連合(新産別)という新しいナショナル・センターを結成した。この年11月にロンドンで国際自由労連(世界労連から分裂した組織)が結成されたとき、5名の反共民同派幹部は占領軍当局者に付き添われて参加した。

 1950年6月、朝鮮戦争が始まって、日本はアメリカ軍の前線基地として利用されたが、その前後、左翼勢力に対する強烈な弾圧が加えられた。6月6日、共産党中央委員会全員が追放され、開戦の翌日6月26日から機関紙『アカハタ』(現『赤旗(あかはた)』)は発行禁止処分を受け、共産党は半非合法状態に置かれた。すでに総同盟が脱退して、事実上、産別会議を中心とする左派労働組合の全国結集体となっていた全労連は8月に解散させられ、幹部は追放された。先に1949年秋から1950年春にかけて全国で千数百人の学校教職員がレッド・パージ(赤追放)されたが、1950年夏には1万2000人以上の労働者が思想・信条だけを理由に官公庁、民間の職場からレッド・パージされた。労働戦線の右翼的再編成の具体化として、1950年7月、日本労働組合総評議会(総評)が377万人を集めて結成された。

 この時期日本共産党は、コミンフォルム機関紙からアメリカ帝国主義との闘争を避ける右翼日和見(ひよりみ)主義であるとの批判を受けたことがきっかけで、内部の路線対立が激化し、やがて組織分裂にまで発展する「50年問題」の混乱に落ち込んだ。分裂した一方の側は、ソ連・中国の党の干渉を受けて極左冒険主義戦術の採用にまで逸脱した。

 1951年秋、サンフランシスコで対日講和条約と日米安全保障条約とが締結され、1952年4月28日に発効して、日本は名目上独立国となったが、アメリカ軍の駐留が続くという体制のもとに置かれた。この両条約に対する態度をめぐって日本社会党は左右両派に分裂した。労働組合運動の内部でも意見の対立があったが、1951年3月の総評第2回大会は、全面講和要求、中立堅持、軍事基地提供反対、再軍備反対の「平和四原則」を採択するとともに、国際自由労連に一括加盟の提案を否決した。総評は「ニワトリからアヒルへ」変身したと評された。民同派は左右に分裂し、左派が指導権を握った。講和条約発効後の治安体制確立を名目に、1952年春国会に上程された破壊活動防止法(破防法)に反対して、総評は五次にわたるストライキ(参加者1000万人)を含む大規模な統一行動を組織した。この時期、「血のメーデー事件」をはじめ各地に騒擾(そうじょう)事件が続発して、体制再編成期の緊張した情勢を反映した。1952年秋、総評傘下の電産(日本電気産業労働組合)、炭労(日本炭鉱労働組合)が長期ストを行った。

[塩田庄兵衛]

高度成長と労働運動

1953年には日産自動車、三井鉱山、1954年には尼崎(あまがさき)製鋼、日本製鋼室蘭(むろらん)製作所など産業再編成のための首切り「合理化」をめぐって総評傘下に長期の激烈な争議が起こり、また近江(おうみ)絹糸では106日間の人権争議が闘われるなど、労働組合運動の範囲が拡大した。一方、1953年の石川県内灘(うちなだ)、1955~1956年の東京都下砂川など基地反対闘争が高揚するなかで労働組合が積極的役割を演じた。高野実(たかのみのる)事務局長を中心とする総評指導部は、国民統一戦線的発想に基づく「ぐるみ闘争」に力を入れ、さらに平和経済プランに基づく運動の展開を図った。この運動路線に反対する全繊同盟(現、ゼンセン同盟)、海員組合などは総評から脱退して、1954年4月、全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、国際自由労連一括加盟を決定した。全労会議は1962年4月、総同盟と合流して全日本労働総同盟組合会議(同盟会議)となり、さらに1964年11月、組織を整備して全日本労働総同盟(同盟)となり、右派路線のナショナル・センターとして勢力を拡大した。

 1955年を画期に日本資本主義は高度経済成長の軌道にのり、重化学工業を中心とする高度の産業構造と巨大な生産力をもつ経済大国への道を驀進(ばくしん)し始めた。政界も保守合同によって自由民主党の単独安定政権が確立し、左右両派の社会党は再合同した。日本共産党も六全協(第6回全国協議会)を開いて、セクト主義・極左冒険主義を自己批判し、統一の基礎をつくった。総評を中心とする「春闘(しゅんとう)」とよばれる賃上げ要求を軸とする統一行動もこの年から始まり、その後の労働運動のなかに定着するようになった。

[塩田庄兵衛]

安保闘争と三池争議

労働組合を中心とする統一戦線的な運動が発展し始めた。1958年には勤評(勤務評定)反対闘争が高揚し、警職法(警察官職務執行法)反対闘争は改正法案を廃案にさせる成果を収めた。前者は、教育への国家統制の強化に反対し、民主教育・平和教育を守ろうという運動であった。第二次世界大戦前の治安警察法の復活に反対しようと呼びかけた警職法反対闘争では、警職法改悪反対国民会議が結成され、全国に1000を超す共同闘争委員会が組織され、450万人が統一行動に参加した。

 続いて1960年5~6月をクライマックスとする安保(あんぽ)闘争が展開された。安保改定阻止国民会議に社・共両党、総評など134(のち138)団体が結集(1959)し、全国に約2000の共闘組織がつくられ、1年半以上にわたって23回の統一行動が組織された。6月には三次にわたって数百万人の労働組合員が参加する抗議ストが打たれた。結局、安保条約の批准そのものは阻止できなかったが、岸信介(のぶすけ)内閣を総辞職に追い込み、アメリカのアイゼンハワー大統領の訪日を中止させるという打撃を支配層に与えて、統一戦線運動の力を示した。この闘争に反対する社会党内の右派は分裂して民主社会党を結成した。

 安保闘争と並行し、相互に影響しあいながら1960年1~10月、三池(みいけ)炭鉱の人員整理反対闘争が展開された。石炭から石油へのエネルギー革命を唱えて1200人余が指名解雇されたなかに、約300人の労働組合活動家が含まれていた政治的攻撃であった。ストライキは282日間続けられ、戦後最大規模の争議となったが、第二組合がつくられ、激しい弾圧が加えられ、ついに組合側は敗北に追い込まれた。

 1960年代に入ると高度経済成長が本格化し、日本はGNP資本主義世界第2位の経済大国になった。1960年の国勢調査で、有業人口の50%以上が賃金労働者となったという階級構成の新しい配置も確かめられた。国民の90%が中流意識をもつに至ったといわれるなかで、公害の激化や都市問題など矛盾が噴出し、勤労国民は新しい型の貧困問題にさらされるようになった。

 日本共産党は1961年に新しい綱領を採択した。それは、高度に発達した資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に従属している日本の現状を打開するためには、「独立・民主・平和・中立・生活向上を目ざす人民の要求と闘争を発展させて、反帝反独占の民族民主統一戦線をつくりあげ、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打破する人民の民主主義革命の達成を通じて、社会主義日本への道を開く」ことが課題であるとして、「二つの敵」との対決を労働者階級と勤労国民に呼びかけた。


[塩田庄兵衛]

労働戦線再編の動向

1970年代なかばに高度経済成長期を終了した日本経済が、円高不況から脱出し、バブル経済の「繁栄期」を経過し、そしてのちに深刻な不況期へと動揺を重ねるなかで、労働運動は低迷の度を加えてきた。その間、賃金労働者数は増大を続け、有業人口の75%を占めるに至ったが、コンピュータ技術者に代表されるホワイトカラー労働者が大幅に増加し、労働組合の組織率は逆に低下し続けた。1983年(昭和58)に29.7%と30%を割った組織率は、1995年(平成7)6月には23.8%、2002年6月現在20.2%と戦後最低を更新している。ストライキ件数の激減とも関連して、春闘の賃上げ要求獲得率は低調を続け、「管理春闘」という評価が定着した。

 経営者側優位のもとで1980年代とともに進行した労働戦線再編成の動きは、1989年11月にこれまで労働組合運動の主役を演じてきた日本労働組合総評議会(総評)の解散のあとに、日本労働組合総連合会(連合)と全国労働組合総連合(全労連)とのいわゆる右派と左派の二つのナショナル・センターの結成で新しい局面に入った。そして、その中間に全国労働組合連絡協議会(全労協)が国鉄労働組合(国労)を含んで約30万の勢力で位置していた。1987年4月、日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化に伴って日本旅客・貨物鉄道株式会社(JR)各社への雇用から排除された1047名の労働者を支援する運動は、全労協ばかりでなく全労連などによっても続けられ、この時期の注目される運動となった。また社会問題化した看護婦不足問題を軸に、全労連傘下の医療労働者のストライキ闘争などが目だった運動である。

 連合は伝統的な「春闘」の呼び名を「春季総合生活改善闘争」と呼びかえ、経済大国にふさわしい生活内容の充実をスローガンに掲げたが、みるべき成果をあげてこなかったことは否定できない。国際的批判を浴びている長時間労働、過労死などの深刻な問題への労働組合の取組みの弱さ、とりわけ大企業中心の連合の積極性の不足がたびたび指摘され、日本の労働問題の矛盾として、自らの運動によってではなく、外圧によって処理が図られるのは奇妙だという批判がある。

 日本を取り巻く国際労働運動は世界的な激動のもとで動揺し続けている。資本主義諸国の運動に共通しているのは、不況に伴う失業の増大、賃金抑制政策の圧力のもとでの組織力の低下である。旧ソ連、東ヨーロッパ諸国を中心に運営されてきた世界労働組合連盟(世界労連)は崩壊状態に陥った。また東アジアでは、経済の躍進とその後の通貨不安に伴って労働運動の動向が注目されているが前途は未知数である。

[塩田庄兵衛]

『塩田庄兵衛著『現代労働組合運動論』(1969・労働旬報社)』『堀江正規編『労働組合運動の理論』全7巻(1969~1970・大月書店)』『『大河内一男集』全8巻(1980~1981・労働旬報社)』『塩田庄兵衛編『改訂 労働問題講義』(1981・青林書院新社)』『坂本秀行著『マルクス・エンゲルスの労働組合論』(1988・労働大学)』『大沢正道ほか編『大杉栄全集』全14巻(1995・日本図書センター)』『W・Z・フォスター著、塩田庄兵衛ほか訳『世界労働組合運動史』上下(1957・大月書店)』『中林賢二郎著『世界労働運動の歴史』上下(1965・労働旬報社)』『労働運動史研究会編『国際労働運動の歴史と現状』(1975・労働旬報社)』『西巻敏雄著『国際労働組合運動史1864年~1980年』(1981・現代教育研究出版)』『ソ連科学アカデミー「国際労働運動史」総編集委員会編、国際関係研究所訳『国際労働運動史』全6巻(1983~1987・協同産業出版部)』『安川悦子著『イギリス労働運動と社会主義――「社会主義の復活」とその時代の思想史的研究』(1993・御茶の水書房)』『小沢弘明著『労働者文化と労働運動――ヨーロッパの歴史的経験』(1995・木鐸社)』『佐藤香著『フランスの労働運動――暁闇のとき』(1995・新青出版)』『齊藤隆夫著『戦後イタリア労働組合史論』(1999・御茶の水書房)』『グレゴリー・マンツィオス編、戸塚秀夫監訳『新世紀の労働運動――アメリカの実験』(2001・緑風出版)』『横山隆作著『イタリア労働運動の生成1892年~1911年』(2001・学文社)』『堀田芳朗編著『世界の労働組合 歴史と組織』新版(2002・日本労働研究機構)』『小森良夫著『「ルールなき資本主義」との闘争――世界労働運動の軌跡と課題』(2003・新日本出版社)』『G・マルチネ著、熊田亨訳『七つの国の労働運動』上下(岩波新書)』『山本潔著『戦後労働運動史論』全3巻(1977~1983・御茶の水書房)』『歴史科学協議会編『歴史科学大系25 労働運動史』(1981・校倉書房)』『塩田庄兵衛著『日本社会運動史』(1982・岩波書店)』『清水慎三編『戦後労働組合運動史論』(1982・日本評論社)』『塩田庄兵衛著『戦後日本の社会運動――労働組合運動を中心に』(1986・労働旬報社)』『小林端五著『日本労働組合運動史――労働戦線統一問題を中心として』(1986・青木書店)』『事典・日本労働組合運動史編集委員会編『事典 日本労働組合運動史』(1987・大月書店)』『小野道浩・中野隆宣・大塚知行・河上進・沢田茂ほか著『総評解散――どうなる労働組合運動』(1989・労働教育センター)』『猿橋真著『全労連と「連合」――激動する内外情勢と労働組合運動』(1990・学習の友社)』『木畑公一著『戦後国際労働運動の軌跡――国際自由労連と日本』(1991・日本生産性本部)』『竹田誠著『労働運動通史――戦後日本1945~89年』(1996・多賀出版)』『『「労働世界」と片山潜 日本初の労働運動機関紙・実物大「復刻版」抄』(1997・日本機関紙出版センター)』『ものがたり戦後労働運動史刊行委員会編『ものがたり戦後労働運動史』全10巻(1997~2000・教育文化協会)』『平井陽一著『三池争議――戦後労働運動の分水嶺』(2000・ミネルヴァ書房)』『猿橋真著『日本労働運動史――積極的・戦闘的伝統を学ぶ』(2001・学習の友社)』『赤松克麿著、安部磯雄・山川均・堺利彦編『社会問題叢書 第3巻 日本労働運動発達史』(2002・日本図書センター)』『塩田庄兵衛ほか著『戦後労働組合運動の歴史』(新日本出版社・新日本新書)』『塩田庄兵衛編『日本社会運動人名辞典』(1979・青木書店)』『大原社会問題研究所編『社会・労働運動史大年表』全4巻(1986~1987・労働旬報社)』『日本労働協会編・刊『労働運動白書』各年版』『大原社会問題研究所編『日本労働年鑑』各年版(労働旬報社)』『厚生労働省編『労働運動史』各年版(労務行政研究所)』『厚生労働省労使関係担当参事官室監修、日本労働研究機構編・刊『労働運動白書』各年版』

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改訂新版 世界大百科事典 「労働運動」の意味・わかりやすい解説

労働運動 (ろうどううんどう)

資本主義社会において,労働者階級が労働条件や生活条件の改善を通じてその経済的・政治的・社会的地位の向上を目ざす運動の総称。

 労働運動は,資本主義の発展に照応して変化しつつ発展する。資本主義の発展がそもそも国によって不均等であり,階級構成や権力構造も異なるので,各国における労働運動の発展も一様ではない。イギリスでは資本主義がいち早く成立し,農民層の分解が徹底して行われたので,労使の関係も早くから明確な対立関係という形をとった。また議会制民主主義も早期に確立をみた。このような条件のなかったヨーロッパ大陸諸国の場合には,労働運動の類型も異なる。イギリスでは,他国にさきがけて労働者階級の団結が放任され,労働組合が早期にかつ自生的に形成をみたので,労働運動におけるボランタリズム(自発性,任意主義)の傾向が強い。封建遺制がなく,フロンティアが存在したため,労働者の自立性が強かったアメリカの場合もイギリスに比較的似ている。それに反して大陸では団結の自由が容易に認められず,容認後もさまざまな形の厳しい制限が存続した。こうした条件のもとでは労働組合の発展が遅れ,労働運動は資本主義の変革を目ざす社会主義思想の影響を強く受けることになった。一般に大陸型の労働組合運動は労働者政党のイニシアティブにより結成され,両者は有機的関連をもちながら発展してきた。もっとも同じく大陸型といっても,徹底した市民革命を経たフランスとそうでない国(たとえばドイツや東欧諸国)とでは,当然,労働運動のあり方は異なる。フランスの労働組合は,政党や国家機関のいっさいの役割を否定するサンディカリスムやアナルコ・サンディカリスムの影響が強く,いまでもこのような伝統は完全になくなったわけではない(同様の傾向はスペインなどラテン系の諸国でも認められる)。現在でもナショナル・センターは,フランス労働総同盟(CGT(セージエーテー)),フランス民主労働同盟(CFDT(セーエフデーテー)),労働総同盟・労働者の力(CGT-FO(セージエーテーエフオー))のように政治路線の違いにより,分裂している。それに対しドイツでは当初,生産協同組合を重視するラッサール主義が,のちにはマルクス主義に立脚する社会民主主義が労働運動の支配的な指導理論とされてきた。このように資本主義の成立期の条件が各国の労働運動の性格に大きな影響を与えたが,むろんそれは固定的なものではなく,その後の事態の変化に応じて発展する。以下ではこの発展過程をまずイギリスについて述べ,ついでそれとの対比でそれ以外の諸国をとり上げることにしよう。

資本主義の生成とともに創出されたプロレタリアートは,産業革命の開始によって,よりいっそう劣悪で不安定な生活,非人間的状態へ追いやられた。彼らは久しく団結することを禁止されており,このような措置はフランス革命の影響を恐れる支配階級によって,かえって強化された(イギリスの1799年,1800年団結禁止法やフランスの1791年ル・シャプリエ法の制定など)。19世紀前半のイギリスは〈革命の時代〉といわれるように,初期の労働運動はドラスティックな社会変革を目ざす急進的性格を多かれ少なかれ帯びており,労働者以外の指導者(知識人や政治家)に依存することが多く,暴動や蜂起など激しい闘争形態がとられることもまれではなかった。弾圧が強いためもあり,恒常的な組織を欠くこともこの時期の特徴である。ラッダイト運動はその好例であり,R.オーエンに指導された全国労働組合大連合(1834)も単に労働時間の短縮だけでなく,新しい秩序を目ざす運動であった。チャーチスト運動は労働者階級による最初の大規模な政治的運動であった。議会への請願が否決され,敗北に終わったが,北部工業諸都市でのゼネストは騒擾(そうじよう)状態になり,軍隊の派遣により鎮圧された。チャーチスト運動の敗北後,労働運動の潮流は政治改革運動から日常的な労働条件の改善運動へと転換し,労働組合がその中心的担い手となる。1824-25年に団結禁止法が撤廃され,71年には最初の労働組合法が制定された。こうして労働組合は長い運動の結果ようやく認知され,しだいに安定した組織として定着した。当時の組合の大部分は職業別組合(クラフト・ユニオン)であり,熟練労働者のみで構成された。政治活動やストライキを禁欲し,徒弟制度や共済基金をてことして,もっぱら労働市場への供給制限を通じて間接的に労働条件の維持・改善を図ることに,この組合の特徴がある。

だが19世紀末の〈大不況〉を契機とする失業の増大,第2次産業革命といわれる生産方法の変化,ニュー・ユニオニズム(新組合主義)の台頭は,労働組合運動に転機をもたらした。すなわち一般組合産業別組合が結成され,不熟練・半熟練労働者の組織化が促進されるとともに職業別組合の体質改善も徐々に行われた。こうして20世紀の初頭には団体交渉による労働諸条件の決定が基本的方式として確立し,他方それを補足する形で立法による労働条件の規制や権利の拡大要求も主張されるようになる。ストライキの損害賠償を認めたタフ・ベール判決(1901)は組合の活動を根本的に脅かした。これを廃棄するため議会へ労働者代表を選出する必要が叫ばれ,労働党が結成された(1906)。こうして労働党は本質的に労働組合により,その必要のために創設されたのであって,その逆ではない。組合は団体として一括して労働党に加入しており(スカンジナビア諸国の若干の国でも社会民主党への組合の一括加入方式がみられる),労働組合の党に対する強い発言力はその後弱まったとはいえ,長期にわたり存続した。

 上述したイギリスの場合に比べると,その他の諸国の労働運動は著しく立ち遅れていた。だがこうしたギャップを急速に縮小させ,部分的にそれを凌駕(りようが)させたのは,第1次大戦とその後の労働運動の高揚である。ロシアではボリシェビキによる革命が成功して,社会主義政権が誕生した。団体交渉と協約制度はドイツ,フランスなどでも普及し,労働者階級は完全な普通選挙制を獲得した。ヨーロッパの労働者政党はしばしば連立内閣の一翼として政権の座につくほどまでに伸長した。労働者階級はもはや資本主義社会のアウトサイダーではなく,その構成分子となったのである。だが1930年代の大恐慌は労働運動にも著しい影響を与えた。ドイツやイタリアではファシズムが権力を掌握し,労働運動を抑圧・破砕した。これと対照的にアメリカではニューディール政策がとられ,ワグナー法の制定(1935)にみられるように国家が労働組合の組織化を促進し,購買力の増大を図る一方,財政・金融政策を通じて不況から脱出することが試みられた。こうしてアメリカでは組織化が飛躍的に進展するとともに,職業別組合の強いAFL(アメリカ労働総同盟)からCIO(産業別組合会議)が分裂し,AFLと並ぶ勢力となった。CIOは石炭産業を中心にこれまで未組織であった分野や黒人労働者の組織化を進め,産業別組合主義を確立した(ただし第2次大戦後,アメリカが自由主義陣営の盟主となり,CIOの急進性が弱まって両者の路線の差異が意義を減じると,両者は1955年に合同しAFL-CIOとなる)。

第2次大戦後,労働組合の勢力と権利とはよりいっそう拡大した。団体交渉制と社会保障が拡充されたばかりでなく,重要産業の公有化や労働者の経営参加などの新しい試みも実施された。戦後危機の克服後,西欧先進工業国では経済成長が長期にわたって持続する。完全雇用状態が続くなかで労働組合の交渉力は強大となり,賃金上昇が加速された。このためこれらの諸国には周辺諸国から外国人労働者が大量に移入され,運動の国際化とともに新たな問題が発生した。〈豊かな社会〉において〈労働(生活)の質〉が問われ,〈労働の人間化〉が重要な課題として掲げられた。同時にこれまでとは違った型の新しい運動やイデオロギー(たとえば労働者(自主)管理,分権型社会主義を目ざす運動およびエコロジー運動や反核運動のような市民運動,婦人解放運動など)が台頭し,既存の組織に問題を投げかけた。

 1973年の石油危機を境に労働運動をとりまく状況は大きく転換する。低成長と合理化の進展は失業の増大,労働内容や就業構造の変化をもたらし,雇用の確保,職場の維持が再び重要な課題となってきた。多くの国で組合組織率は低下傾向にある。サッチャー(イギリス,1979),レーガン(アメリカ,1980)政権の登場に象徴される政治の保守化は,福祉国家の危機,対労働組合強硬政策の実施をもたらし,若干の例外(たとえば,フランス,ギリシア,スペインにおける社会主義的政権の出現)はあるものの,総じて労働運動は1970年代末以降,守勢を余儀なくされている。

〈万国の労働者よ,団結せよ〉(マルクス,エンゲルス《共産党宣言》)のスローガンにもかかわらず,労働運動の国際的統一は容易ではなく,各国の利害やイデオロギーの相違のため,国際労働運動は協調と分裂・対立とを繰り返してきたといってよい。

 最初の国際的な組織としては国際労働者協会(第一インターナショナル。1864創立)があり,これにはマルクスもとりわけ理論面で指導的な役割を演じた。同協会は各国のストライキ支援など国際的連帯活動に寄与したが,パリ・コミューンの崩壊後,内部対立から活動を停止し,76年には解散した。ついで第二インターナショナルが89年に結成された。これはヨーロッパの主要各国の労働者政党が加盟する緩やかな連合体であった。要求として8時間労働制の実現などを掲げるとともに,しばしば帝国主義の植民地政策や戦争に反対の決議を行った。だが第1次大戦が勃発すると,ドイツ社会民主党をはじめおもな加盟国の政党は自国の戦争政策の支持に回り,第二インターナショナルは事実上崩壊した(ただし戦後に再建される。〈インターナショナル〉の項を参照)。なお同インターの影響のもとに各国の労働組合中央組織を結集する国際労働組合連盟(アムステルダム・インターナショナル)が組織された。ロシア革命の成功後,レーニンは社会民主主義の系譜とは別個の,共産主義インターナショナル(第三インターナショナル,コミンテルン)を結成した(1919)。これは各国の共産党を支部とし,モスクワの本部に指導権を集中する中央集権的な組織であり,その後の国際的革命運動によかれあしかれ絶大な影響を及ぼした。コミンテルンの影響下に赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)が1921年に組織されている。

 こうして国際労働運動は社会民主主義系と共産主義系の二つの組織に分裂し,この対立は今日まで尾をひいている。すなわち第2次大戦後,すべての国の労働組合を結集して世界労働組合連盟(世界労連,WFTU)が結成されたが(1945),マーシャル・プランに対する態度をめぐって対立が激化し,分裂した。世界労連から脱退した組合(西欧諸国の大部分およびAFL,CIO-この両者は1955年合併してAFL-CIOになる)は国際自由労働組合連盟(国際自由労連,ICFTU)を結成し(1949),反共主義,反世界労連の立場に立って世界労連と鋭く対抗した。だが,その後国際的な緊張緩和が進むと,反共を第一義的原則とするAFL-CIOと西欧諸国労働組合との間の対立が生じ,69年,AFL-CIOは国際自由労連を脱退した(ただし1982年には復帰)。国際自由労連は70年に世界労連加盟組合との2国間接触禁止を解除した。ヨーロッパ諸国の労働組合はもはやかつてのように反共一点張りではなく,両組織間の交流が独自に進められてきている。こうした動きの背景には反核運動や環境保全運動の高まりにみられるように,欧州諸国民の,とりわけ青年層の間に平和や産業社会に対する不安感や反発が増大してきたという事情がある。
執筆者:

第2次大戦以前の日本の労働運動は,戦後と比べ,また外国に比し,若干の特徴がある。戦後と比べての特徴は,(1)労働組合が法的に認められず,治安対策の対象として,しばしば警察の厳しい取締りを受けた,(2)経営者は一貫して組合を敵視し,また労働者の解雇を規制する法律はなかったから,活動家が企業内にとどまることは著しく困難であった,(3)労働運動は筋肉労働者主体の運動で,教員など一,二の例外はあるが,ホワイトカラーの組合はない。ただ指導者には知識人が少なくない,(4)組合は労働者のごく一部を組織しただけで,組合員数の最高は42万人(1936),組織率は7.9%(1931。ただし戦後基準で算出すれば4.5%)であったこと。また,外国と比べると,(1)クラフト・ギルドの伝統が弱く,労働者が自律的に労働条件を規制する慣行はほとんどない。このため企業の枠を越えて労働条件を規制する職業別組合が育たなかった,(2)労働組合は〈労働力の売手の組織〉というより,筋肉労働者が〈人並みの待遇〉を要求する組織という性格が強かったことである。労働組合の政治色の強さもこれとかかわっている。

 戦前の労働運動は第1次大戦を境に大きく二分しうる。第1次大戦前は散発的な争議と地域的,産業的に限られた短命な労働組合であるのに対し,大戦後は労働組合がまがりなりにも全国組織となり,第2次大戦の戦時下に解散に追い込まれるまで継続的に組織を維持した。

(1)開国と明治維新を機に日本資本主義は急速な発展を開始し,同時に労使の対立も始まった。目だったのは開港による市場の急激な拡大に応じ,短期間に多数の男子労働者を集めた炭坑,鉱山の争議である。労働者支配の暴力性を反映し,高島炭坑のように暴動化したものが多い。一方,伝統的な熟練職種である大工,石工,木挽(こびき)などの太子講や金属鉱山坑夫の友子同盟など同業組合的性格をあわせもつ労働者組織が存在した。なかには親方とは別に職人組合を組織したものもある。これらの団体で,元請業者や親方組合と賃金などにつき交渉するものもあり,ときにはストライキさえ行った。これらの組織を近代的労働組合に再編する企てもあったが成功しなかった。この点,欧米の労働運動の初期に大工など伝統的熟練職種の組合が運動の有力な担い手であったのとは,大きな違いがある。また新たな産業分野でも,機械工,印刷工,靴工などが組織化を企てた。失敗には終わったが注目されるのは1889年に石川島造船所や東京砲兵工厰の機械工によってつくられた同盟進工組で,組合員の職業紹介,争議調停などを目的とし,職業訓練のための共同工場の設立さえ目ざしていた。

(2)労働問題が大きな社会問題となり,近代的労働組合の組織化が始まったのは,日清戦争後の1897年である。中心人物はアメリカで苦学しつつ労働運動を研究し,AFL(アメリカ労働総同盟)の日本オルグとして帰国した高野房太郎である。高野は同じくアメリカ帰りの片山潜らと協力して,同年7月労働組合期成会を,同年12月には日本最初の近代的労働組合である鉄工組合を創立した。97年,98年には日清戦争を機とした産業発展に伴う労働力不足と物価騰貴を背景に,多くのストライキが起こった。なかでも98年の日鉄機関方ストライキは,高度に組織的な闘争でその要求を貫徹し,その後に日本鉄道矯正会という強力な組合を残した点で,第1次大戦前の例外的な存在である。また98年には印刷工も活版工組合を結成した。印刷工は職業がら知的水準が高いうえに,熟練の割には労働条件が悪いこともあって,同組合消滅後も誠友会や欧友会,さらには信友会など,断続的に組織化の企てがなされている。鉄工組合などこの期の組合は,一般に職業別組合であるとされてきた。しかし欧米のクラフト・ユニオンのように労働力の供給制限により賃金水準の維持を図ることはなく,主として共済活動によって労働者を結集し,教育・啓蒙によってその社会的地位の向上を目ざしていた。鉄工組合は公称42支部,5400人にも達したが,組合費の納入率が低いうえに共済給付の負担増による財政難に苦しみ,加えて1900年の治安警察法の制定に示される官憲の弾圧,経営者側の攻撃によって数年で消滅した。日本鉄道矯正会も01年,警察の圧迫により解散した。

(3)1906-07年は労働争議の年であった。07年だけで150件余(政府統計では60件)のストライキが発生し,第1次大戦前の最高を記録した。その多くは賃上げを要求するもので,背景には日露戦争中の財政赤字に起因するインフレがあった。特徴は軍工厰,造船所,鉱山などの大経営に争議が多発したことで,なかでも足尾,別子などの鉱山争議は暴動化し,鎮圧に軍隊が出動した。これら大経営争議に共通するのは,急速に経営規模を拡大し,新技術を導入する過程で,従来の親方労働者による間接管理から,直接的な労務管理に移行しつつあったことで,労働者と現場管理者との深刻な対立をはらんでいた。

(4)1910年の大逆事件を頂点とする社会主義運動に対する弾圧は労働運動にも影響し,社会運動は〈冬の時代〉を迎えた。しかし,ここで運動は死に絶えたわけではなく,新たな運動の芽生えがみられた。12年8月,鈴木文治によって創立された友愛会がそれである。友愛会は労働者が相互に助け合い,修業を積み,腕を磨くことで,その社会的地位の向上を目ざしていた。この主張は鉄工組合とほとんど同じであるが,知識人や一部経営者の支持を得て,また1910年代の産業発展にも支えられて急速に成長し,6,7年の間に労働組合の全国組織に発展した。

(1)第1次大戦中に日本の労働運動は質的な飛躍を遂げた。大戦前は年間のストライキ件数は最高でも60件,参加人員は1907年を除き1000人台にすぎなかった。しかし17年には一挙に398件,5万7309人に達し,翌18年417件,19年497件と増加を続けた。大戦前との違いはストライキと労働組合の結合で,争議を機に組合が生まれ,あるいは組合結成直後にストライキに入るものが相次いだ。とくにILOが創設され,労働代表の派遣が問題となった19年には,大経営を中心に多数の労働組合が組織された。主要なものに東京砲兵工厰の小石川労働会,東京市電の日本交通労働組合,足尾銅山ほかの全国坑夫組合と大日本鉱山労働同盟会,八幡製鉄所の日本労友会,大阪砲兵工厰の向上会,新聞印刷工の革進会とその後身,正進会などがある。

 このような労働運動の急展開の背景には,第1次大戦を機とした日本資本主義の発展,より具体的にいえば熟練・半熟練職種の男子労働者を中心とする労働者階級の数的・質的成長があった。また18年の米騒動をひき起こした物価の急騰の一方で,労働力需要の急増が労働運動に有利な条件をもたらしていた。さらにロシア革命など国際的な社会運動の高揚,ILO問題をめぐる労働組合公認への動きも労働運動の発展を刺激した。生まれたばかりの組合は,友愛会,さらにはその後身の総同盟(日本労働総同盟)を中心に,他組合とも共同して治安警察法17条の撤廃やILO労働代表の公選を政府に要求した。また経営者に対しては団体交渉権の承認を要求して,組織の安定した発展を図った。その闘争のピークが21年の川崎・三菱神戸造船所争議である。だが,1920年の反動恐慌は労働組合の主力が存在した金属機械産業,鉱業などをも直撃し,組合は守勢に立たされた。多くの大経営から自主的な労働組合は閉め出され,工場委員会など労使の意思疎通機関にとって代わられた。ただ第1次大戦前とは違い,労働組合運動が全体として消滅させられることはなかった。

(2)鉄工組合や友愛会が労働者自身の修養で社会的地位の向上を目ざしたのに対し,大正デモクラシー期の組合は,社会に対し労働者の人格尊重,平等を要求した。さらに,反動恐慌後,資本攻勢に対抗する方針を模索するなかで,組合は急速に社会主義に接近した。初めに運動をとらえたのはサンディカリスム,ついでボルシェビズムであった。しかし,1923年の山本権兵衛内閣の普通選挙実施声明,24年のILO労働代表を官選から労働組合の互選に改めるとの政府の政策転換を機に,組合内に路線をめぐる対立が激化し,ついに総同盟は25年,26年と2度にわたって分裂した。右派が総同盟,中間派は組合同盟,左派は評議会である。各派はそれぞれ特定の支持政党をもち,これと密接に提携して運動を展開した。

(3)1928年3月,第1回の普通選挙による総選挙直後,先に普通選挙法と同時に制定された治安維持法による共産党員と同調者の大検挙があり,評議会は解散を命ぜられた。以後,共産党の影響下の左派組合は大衆運動を展開する場を奪われ,労働組合運動の主導権は総同盟,海員組合,官業労働総同盟などの右派組合が握った。これらの組合は,28年に労働立法促進委員会,31年には日本労働俱楽部(クラブ),32年には日本労働組合会議を設立し,反共主義に立って,左派組合の追放に果たした自己の役割を強調し,同時に労働組合法の制定を要求して組合の公認を求めた。これに批判的な合法左派組合は独自の活動を展開し,34年に全評を結成した。共産党の指導下の全協もほとんど非合法状態で活動を続けたが,その勢力は限られ,相次ぐ検挙で34年には壊滅した。

(4)1931年の満州事変,さらには37年の日中戦争の勃発は労働運動に深刻な影響を及ぼした。戦時インフレに抗して急増していたストライキも日中戦争開始とともに激減した。超国家主義的な日本主義労働運動が台頭したばかりか,組合会議内部にも労働組合を解散して産業報国運動に参加する動きが強まった。〈健全なる組合主義〉を主張し,反ファッショを標榜(ひようぼう)していた総同盟主流は,スト絶滅を宣言し戦争に協力することで組織の維持を図った。しかし戦争の進展はそうした組合の存在さえ許さず,40年には総同盟をはじめすべての組合が解散に追い込まれた。
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特徴と時期区分

第2次大戦における敗北を契機として始まった戦後の労働運動は,戦前からの伝統を引き継ぎながらも,次のようないくつかの新しい特徴を帯びることとなった。(1)アメリカ占領軍による〈非軍事化・民主化〉政策の推進のもとで,労働組合法が制定されることとなったため,労働組合を団体交渉の主体として位置づける制度的な枠組みが定着していった。(2)戦後新たに組織された労働組合は,ごく一部のものを除き,事業所や企業を単位としたいわゆる企業別組合であった。この企業別組合は,戦前と異なって職員をも組合員とする工職混合組合という形をとっているが,組合員となりうるものは臨時工・社外工などを除いた正規の従業員に限定されている。企業別組合は上部団体として産業別の連合組織をつくっているが,労働組合の基本組織が企業別につくられているという形は,外国にはあまりみられない日本的な特徴として注目を集めてきた。(3)敗戦後占領下で始まった組織化運動は急激に進展し,1949年には55.8%という組織率を示すにいたったが,50年代中ごろまでに急激に低下し,以後35%前後の組織率で推移してきた。だが,近年再び低下しはじめ,90年代はじめにはついに25%を切るにいたった。

 戦後の労働運動は,敗戦から今日にいたるまで企業別組合をベースにして展開してきたにもかかわらず,時代によって運動の様相は転変してきた。やや大きな区切り方をすれば,(第1期)急激な組織化をてことする〈経営民主化〉運動の進展をみたのち,二・一ストの挫折を契機として運動の分裂・後退をみるにいたった時期(1945-50),(第2期)サンフランシスコ体制の形成のもとで労働組合が再生しはじめ,春闘体制の形成をみた時期(1951-60),(第3期)春闘体制の全面化にもかかわらず,民間大企業における能力主義管理のもとで,職場の労働運動が活力を失っていった時期(1961-74),(第4期)石油危機のもとで〈管理春闘〉化が進展するなかで,民間大企業労働組合を軸とする戦線統一運動の進展をみるようになった時期(1975-89),(第5期)新しいナショナルセンターとしての連合の成立をみ,〈総合生活闘争〉が進められるようになった時期(1989- ),およそ以上五つの時期に分けることができよう。

(1)日本は1945年8月,敗戦によってアメリカの占領下におかれることになったが,占領軍によって〈非軍事化・民主化〉政策が推進され,その一環として同年12月には労働者の団結権を日本の歴史上はじめて公然と認めた労働組合法が制定されるという状況のもとで,45年の秋以降,労働組合の結成が急激に進展し,争議も頻発するようになった。労働組合の数は46年前半までに早くも1万2000を超え,組織率は40%に達するにいたった。これらの労働組合の多くは,事業所や企業ごとに組織された工職混合の企業別組合であった。このような形で労働組合の組織化が進んだのは,日本ではもともと職業をきずなとして企業を越えて連帯するという伝統が弱かったうえに,戦争と敗戦にともなう生活の悪化が職員・工員の別なく進展したばかりでなく,〈民主化〉ムードのなかで職員も工員も同じ従業員という意識が浸透していったから,同じ企業・事業所でいっしょに働いている者どうしで連帯するというのが最も近道だったからである。これらの企業別組合は,産業別に連合を組むとともに,46年8月には産別会議(共産党系),総同盟(社会党系)という二つのナショナル・センターにそれぞれ結集していったが,産別会議がこの時期の運動のヘゲモニーを握った。

 敗戦直後の運動は,戦争と敗戦による生産の荒廃と悪性インフレの進展のもとで,企業に生産再開を促しつつ,大幅な賃金引上げを図っていくことに重点が置かれていた。この場合注目すべきことは,資本が先行きの見通しを欠いて〈生産サボ〉に陥っている状況のもとで,労働組合は生産管理闘争をストライキに代わる争議戦術として広範に用いていったことである。このような闘争のなかで,労働組合は,〈経営民主化〉を闘争目標の一つに掲げて,経営への組合参加,会社機構の民主化,職員・工員の差別待遇撤廃などを要求するとともに,その現実化の手段として経営協議会の設置を要求していった。このような運動の結果として,多くの企業に経営協議会が設置されていったが,経営権への介入を排除した協議機関たらしめようとする企業の志向にもかかわらず,経営協議会は事実上団体交渉の場と化し,労働条件を越えて企業運営にかかわる領域,とりわけ人事権に対する組合規制が進展していった。さらにまた,賃金闘争においても,46年秋の産別十月闘争のなかで生まれた電産型賃金体系を先駆として,年齢・勤続年数などを基準とした生活給化を追求し,企業の査定権を封じ込めていった。こうした労働運動の高揚は47年,最低賃金制の確立,越年資金の支給などを求める全官公庁共闘の二・一ゼネスト計画,吉田茂内閣打倒・民主政府の樹立を掲げた産別会議・総同盟などによる全闘の結成と二・一ゼネストへの連帯によってピークに達したが,二・一ゼネスト計画は占領軍の中止命令によって頓挫することとなった。

(2)二・一ゼネスト計画の挫折は,労働運動のなかに分裂を生み出し,運動の後退をもたらしていった。すなわち,産別会議のなかに生まれた民主化同盟が総同盟勢力と連合して〈民同〉を構成し(民同運動),占領軍の支援のもとに産別会議に対抗しながら勢力を拡大し,新しいナショナル・センターの結成へと向かっていった。しかも,この間,冷戦体制の形成に即応する占領政策の転換にともなって,1948年7月マッカーサー書簡に基づく政令201号によって官公労働者の争議権が剝奪(はくだつ)されたのに続いて,翌49年6月には〈自主的民主的労働組合〉〈民主的労働関係〉の育成をうたい文句として新たな労働組合法が制定され,敗戦直後の運動の高揚過程で労働組合が築いた組合規制を切り崩していく橋頭堡がつくられていった。

 このような制度的改変をてことして,48年の暮れ以降ドッジ・ラインに基づく行政整理,企業整備を通じて日本経済の資本主義的再建が急ピッチで推し進められていったが,労働組合はこの合理化政策に対して有効な抵抗を組みえなかった。実際,大企業では〈経営権確保〉を旗印とする日経連の唱道のもとに労働組合法の改訂を機に労働協約の改変が企てられ,経営協議会の諮問機関への編成替えが進められていった。これに対して産別会議は,共産党の極左的な運動による威信の失墜に加えて,朝鮮戦争の勃発を機とするレッドパージによって企業のなかの活動家を失ったこともあって影響力を喪失し,またこれに対抗する勢力としての民同は,〈経営民主化〉をうたいながらも事実上はそれを棚上げした生産復興闘争に矮小(わいしよう)化していったため,有効な反撃を組織しえないまま企業組合主義のなかに埋没していった。こうして,50年7月民同勢力の結集体として総評が成立したころは,企業秩序の再編が進展するなかで労働組合が活力を失い,労働者の不満が鬱積(うつせき)していった時期であった。

(1)占領軍のバックアップのもとに成立した総評は,51年3月の第2回大会を機に民同勢力の左右への分解をはらみながら〈ニワトリからアヒルへ〉と変貌を遂げていった。当時,対日講和会議を前にして,全面講和か単独講和かをめぐって国論が二つに分かれていたが,総評はこの大会で右派の主張を抑えて平和四原則(全面講和,中立堅持,軍事基地反対,再軍備反対)を採択することによって,朝鮮における〈国連軍の警察行動〉支持という結成当初の姿勢から転換し,高野実を新しい事務局長に選出した。この転換は,朝鮮戦争とそれにともなう日本の軍事基地化・再軍備の進展のなかで,日本が戦争に巻き込まれるのではないかという不安が大衆的に広まっていったことを背景とするものであった。政治的課題への取組みを契機として始まった総評の変貌は,労働組合固有の運動領域においても始まった。その一つは,産業別統一闘争の強化によってドッジ・ラインのもとで陥った企業組合主義を克服しようとする動きであり,いま一つは職場要求を大衆行動を背景とした職場管理者との交渉を通じて解決しようとする職場闘争の推進であった。

 だが,労働組合としての活性化は,きわめて険しい道であった。協約闘争のなかで〈明職(明るく働きやすい職場をつくる)運動〉を展開した北陸鉄道労組や企業整備反対闘争を契機として(合意事項を覚書にする)メモ化闘争を推進した三井三池労組など,いくつかの職場闘争の先進的なケースを生み出していったとはいえ,52年の電産・炭労スト,53年の日産争議の敗北などにみられるごとく,産業別統一闘争は組合側の足並みの乱れによって瓦解を重ねた。このようななかで,総評は職場闘争をベースにすえて家族ぐるみ,町ぐるみの地域闘争で闘うという〈ぐるみ闘争〉路線を提起していったが,この方式も54年の尼崎製鋼争議,日鋼室蘭争議の敗北によって実を結ぶことなく終わった。しかも,54年には,総評第2回大会を契機として分裂した民同の右派勢力がヘゲモニーをもつ全繊同盟など3組合が総評から脱退し,総同盟とともに別個のナショナル・センターとして全労会議を結成するにいたった。

(2)1955年,総評運動は高野事務局長に代わり太田薫(1912-98)議長(合化労連出身),岩井章(1922-97)事務局長(国労出身)が指導部の座につくに及んで転換を遂げることとなった。それを象徴するのが春闘の形成である。春闘は,貿易立国を目ざして資本が定期昇給制度の確立によって賃上げを抑え込んでいこうという攻勢をかけてくるなかで,労働者の生活に密着した賃金闘争を基軸にすえて産業別共闘を組み,巻返しを図ろうとするものであった。55年8単産共闘をもって始まった春闘は,全労会議から反発を受けながらも,中立労連の参加を得て拡大していった。春闘は,産業別統一闘争をふまえてナショナル・ワイドの賃上げ共闘を組織しようとするもので,単産ごとに賃上げ要求額の統一を図り,参加単産の闘争時期をそろえて春季にいわゆるスケジュール闘争を組み,産業別統一ストの力でもって要求の貫徹を図ろうとするものであった。

 太田・岩井ラインの登場は,〈ぐるみ闘争〉から〈産業別統一闘争〉への転換を図ったという意味では,明らかに総評運動の路線転換を示すものであったが,その運動の性格には高野総評との連続面も強くみられた。実際,総評は,軍事基地反対闘争,勤評闘争,警職法反対闘争,さらには安保改定阻止闘争など,サンフランシスコ体制の強化に抗して〈平和と民主主義〉を旗印とする国民運動を組織していった。また,産業別統一闘争の推進は職制の圧迫をはね返して闘いうる力を個々の企業別組合のなかに養うことなしには望みえないという認識に基づいて,高野時代に芽生えた職場闘争方式を引き継いで〈幹部闘争から大衆闘争へ〉の転換を図ろうとする運動が組織された。

 だが,こうした試みにもかかわらず,総評運動は厚い壁にぶつかって苦闘を強いられた。春闘は,57年,拠点単産と目された国労において,春闘処分に抗する国鉄新潟闘争を通じて第2組合の発生をみるという苦い経験や,59年この年はじめて春闘に参加した鉄鋼労連が数次に及ぶ波状ストにもかかわらず八幡労組の脱落によって〈一発回答〉に屈するという苦闘を重ねなければならなかった。また,企業別組合の足腰を鍛える運動として期待された職場闘争も,いくつかの単産で春闘にはずみをつけるための前段闘争として活用されたとはいえ,60年,安保闘争とともに闘われた人員整理に抗する三池争議において,職場闘争のとりでと目されてきた三井三池労組が孤立のうちに敗北を遂げたことによって暗礁に乗り上げた。

(1)三池争議における三井三池労組の敗北は,職場闘争をベースにすえた組合づくりの影響力を急低下させ,労働運動の転換をひき起こしていくこととなった。1960年秋の社会党による構造改革路線の提唱や炭労の政策転換闘争の提起を契機として,局地での抵抗闘争でもって合理化に抗しようとしても限界があるから,独占の政策そのものの変更を求めて産業レベルで統一闘争を組む必要があるという主張が総評運動のなかに浸透していった。このようななかで,総評は,抵抗闘争をふまえた政策転換闘争の必要を説くとともに,〈ヨーロッパ並みの賃金〉を目ざす重化学単産を軸とした春闘の拡大を通じて産業別統一闘争を推進しようと図った。この結果,総評,中立労連で構成する春闘共闘委員会のもとで春闘に加わった組合員の数は,60年の409万人から64年の520万人へと飛躍的に増加した。しかも,この間,春闘方式に批判的な態度をとってきた全労会議系の組合のなかにも春季に賃金闘争を構えるものが増え,事実上春闘の一翼を構成することとなったため,春闘は賃上闘渉の日本的な形式として定着していった。

 春闘の拡大にともなって,同じ産業のなかでの賃上額の平準化が進み,それが産業を越えて連動する動きを強めていったため,いわゆる〈春闘相場〉が形成されるようになった。しかも,春闘相場の年々10%を超える大幅な上昇によって実質賃金もかなり上がっていった。こうした春闘相場の形成とその上昇は,労働組合の統一行動の成果であることは疑いないが,1950年代末以来本格化した高度経済成長にともなう労働力不足の激化と協調的寡占の進展に助けられた面が強いことも否定しがたい。さらに,64年春闘での池田・太田会談を通じて,公共企業体の賃上げは民間に準拠して行うという政府・労働組合の合意が成立した結果,民間重工業の基軸企業群での賃上額→中央労働委員会(私鉄)・公共企業体等労働委員会の仲裁裁定→人事院勧告というチャンネルを通じて春闘相場が社会的に波及していく機構が定着していった。

(2)1960年代半ばには,春闘の拡大にもかかわらず総評の地盤沈下が進み,民間大企業を基盤とした新しい潮流が台頭してきた。開放経済体制への移行を迎えて企業の大型合併・系列化を内容とする産業再編成が進展するなかで,鉄鋼,造船,電機,自動車など民間大企業労組の間でナショナル・センターの違いを越えた大産別共闘結成の動きが進み,64年IMF-JC(国際金属労連日本協議会)の成立をみた。また,1954年総評に対抗して結成された全労会議は,傘下の組織の競合を解消するために産業別再整理を進め,64年同盟として新発足することとなったが,企業成長にともなう単組の膨張や企業合併にともなう組織再編の結果,1960年代半ばには民間部門における組織人員において同盟は総評を凌駕するにいたった。IMF-JC,同盟に結集した民間大企業労働組合は,労使協議を通じて合理化の労働者に対するしわ寄せを排除するとしながらも,賃上げや時間短縮などの形での合理化の成果還元に運動の力点を置く傾向を強めていったために,おりから民間大企業で推進されていた能力主義管理に基づく競争主義的な企業社会づくりに対して有効な抵抗を組みえなかった。こうした勢力の台頭にともなって,春闘においても67年には〈JC春闘〉という呼声が聞かれるようになり,ストなしで妥結する鉄の〈一発回答〉によって春闘相場が領導される傾向がみえはじめた。

 これに対して,総評運動のなかでは,1960年代半ば以降,国労,動労,全逓など公労協傘下の単産を中心として,職場に根をすえた運動づくりによって戦闘力の回復が進められていった。国労では,〈職場に労働運動を〉というスローガンのもとに職場交渉権の獲得を目ざす運動が進められていった結果,60年代末には事実上団体交渉の場としての性格をもつ現場協議制が成立するにいたった。これをてこにして職制支配に抗する力を養った国労・動労は,70年代初頭,国鉄当局による〈マル生運動〉に対しても頑強に闘い,勝利するにいたった(〈マル生反対闘争〉の項参照)。このような公労協単産における戦闘力の増大は,国鉄・私鉄を結ぶ交運共闘と相まって春闘にもはね返り,春闘相場の底上げにも一定の役割を果たした。さらに,73年10月の石油危機をきっかけとする〈狂乱インフレ〉のなかで,総評は物価,税制,社会保障など国民の共通した要求である政策的課題をも獲得目標に掲げた〈国民春闘〉を提唱し,春闘の新しい展開を図った。この運動は,74年春闘での大幅賃上げのばねとはなったものの,すぐ反転が始まった。

(1)狂乱インフレのなかで30%を超える賃上げがなされた1974年春闘の直後,日経連はいまやコストプッシュ・インフレの時代に入ったとして,国民経済全体としての生産性の伸びの範囲内に賃上げを抑えると同時に,相場至上主義から脱却して産業・企業の収益力に見合った賃金決定を進めるべきだと提唱した。これに対し,労働組合の側では,春闘の主役としての地位を高めてきたJC傘下の単産やそれをバックアップする同盟のなかから,インフレ抑制のためには国民経済との整合性を考慮した賃金闘争を組むべきだとする〈経済整合性〉論が台頭してきた結果,賃上げ自粛のムードが広がっていった。しかも,この間,私鉄とともに国民春闘の主力部隊を構成する公労協は,国労,動労の反マル生闘争の勝利をばねとしてスト権奪還闘争を推し進め,75年11月下旬,8日間に及ぶ〈スト権スト〉を構えたが,国民世論をバックとした政府・自民党の頑強な抵抗によって挫折した結果,公労協は交運共闘をてことして春闘相場の底上げを図る力を失っていった。このため,75年春闘以来,相場設定者としてのJC単産の地位が高まり,JC春闘という呼称が定着したばかりでなく,春闘相場も74年春闘直後日経連が掲げたガイド・ゾーンの範囲内に収まっていった。こうして春闘は管理春闘化し,政府の直接的な所得規制を待つまでもなく賃上げを抑制しうる日本型所得政策の機構と化していった。

 また,石油危機を契機とする不況のなかで,パートタイマーの整理や一時帰休,出向,希望退職などの形をとった〈減量合理化〉が進むとともに,中小企業のなかには企業倒産の危機に見舞われるものが続出した。このようななかで,大企業では,労働組合が雇用調整やME(マイクロエレクトロニクス)機器の導入に関する事前協議の強化という面で,ある程度の前進を示したとはいえ,雇用調整を受け入れていった結果,政府による受皿的離職対策の推進を支えとして労使紛争の激発をみることなく減量合理化が遂行されていった。だが,企業倒産の危機に見舞われた中小企業では,働く場所を確保するために,労働組合の管理のもとに自主生産を遂行し企業の再開を求めていくという倒産反対争議が現出した。しかも,そこでは,倒産をひき起こした元凶としての背景資本や通産行政の責任を追及する動きが現れた。

(2)石油危機を契機とする低成長のもとで賃上げが難しくなってくるにつれて,物価,税制,労働時間短縮,社会保障など制度政策要求の推進によって生活の向上を図ることが必要であり,そのためには,労働戦線の統一によって労働組合の力量を強めていかなければならないという気運が強まってきた。政策・制度要求の実現を図るために,民間16単産によって76年に結成された政策推進労組会議の活動の後を受けて,統一推進会の呼びかけに基づき,82年12月民間労組の〈ゆるやかな協議体〉として全民労協の結成をみた。全民労協は,85年には〈連合体〉への移行を目ざして連合(全日本民間労働組合連合会)に組織替えするとともに,官公労組を含む労働界全体の統一へ向かうことを決めた。総評傘下の単産のなかには,石油危機後の労働組合のあり方を是とする労働戦線統一運動の姿勢に疑念を表明したり反対を唱える単産もあったが,臨調行革によって国鉄の分割・民営化が進められるなかで,これに抗しようとした国労が組織分裂に追い込まれたこともあって,官公労のなかにも統一に向かう気運が醸成されていった。

 これに対し,この労働戦線統一運動は反共主義,労使協調路線に立つ右翼的再編であるとする共産党系の統一労組懇は,〈たたかうナショナルセンター〉を目ざして全労連の結成に向かい,また総評運動の再生を目ざす労研センターは,反連合・非統一労組懇の共闘組織としての全労協の結成へと向かった。

1989年11月,1970年代末から進められてきた労戦統一運動はようやく終着点を迎え,民間労組からなる連合と総評系官公労,同盟系全官公傘下の単産との統一体として,74単産800万人を擁する新しいナショナルセンター,連合が結成され,国際自由労連(ICFTU)に一括加盟することとなった。かつて総評は,その発足にあたって,労働者階級の解放のために平和的民主的手段によって社会主義社会を実現することを究極目標に掲げたが,連合が発足大会で決定した〈連合の進路〉は,〈活力ある福祉社会〉,すなわち〈自由,平等,公正で平和な社会〉の実現に目標を置き換えた。

 連合は,発足以来,〈生活の質〉を問い直し〈ゆとりある生活〉を実現するために,賃金闘争,時短闘争,政策・制度闘争の3本柱からなる総合生活改善闘争を進めようとしてきたが,全民労協以来の運動スタイルを引きつぎ,労働条件の維持・向上という課題については,産別組織の自力・自決,連合の調整を基本とし,連合としては政策制度課題の取組みに責任をとっていくという構えをとっている。だが,連合の運動姿勢には,石油危機当時に提起された〈経済整合性〉論がミクロの企業論理に寄り添った賃上げ抑制,時短抑制の姿勢を生み,内需の停滞と貿易摩擦の激化をもたらしたことに対する反省を踏まえて,経済成長のあり方を産業優先から生活重視へ変えていくために,生活者の視点に立って経済社会の仕組みそのものの転換を図っていこうとする意図がこめられている。

 連合は,こういう姿勢を具体化するために,賃上げ闘争にあたっては,率要求から額要求への切り替え,平均賃上げ要求から個別賃金要求への転換をはかり,賃金格差の是正を進めようとしている。また,連合傘下の単産のなかには,〈世界・消費者・従業員と共生する自動車産業へ〉という課題を掲げて産業政策活動を進めようとした自動車総連のように,時間短縮をもとめて産業・企業のあり方を見直そうとする試みも生まれた。だが,こうした試みも,バブル崩壊にともなう不況と国際競争の激化のなかで,ミクロの企業論理に抑えこまれ壁にぶつかっている。

 このようななかで連合は,1997年10月第5回大会で決定した運動方針において,いま日本にとって行財政改革が必須の課題となっていることは疑いないにしても,競争・効率を重視し市場にすべてをゆだねる〈市場原理主義〉は社会的弱者をつくり格差を拡大するがゆえに誤りだとし,〈公正・公平・平等・参加〉を基本理念にすえ,〈市場の失敗〉を常に補完・修正しうる社会的枠組みづくりに取り組む必要があると謳うにいたった。そしてまた,連合は,細川政権の成立による〈55年体制〉の崩壊以来の方針を引きつぎつつ,連合と支持・協力関係にある政党が四分五裂に陥っている現状を早急に克服し,〈自民党に代わる,政権を担いうる新しい政治勢力の結集〉を進めるべきだと謳っている。こうしていま,連合は,かの〈経済整合性〉論から脱却しうるか否かを問われているというべきであろう。
労働組合
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「労働運動」の意味・わかりやすい解説

労働運動
ろうどううんどう
labour movement

労働者が団結してみずからの経済的,社会的な地位の安定,向上を確保するために行う運動。労働運動は当初イギリスのラッダイト運動のように自然発生的な性格をもっていた。こうした労働運動は労働組合などの労働者の団結となって使用者と対立するようになり,各国政府はきびしい弾圧を加えてきた。しかし現在では各国とも労働者の団結権とそれに基づく団体交渉権,争議権を認めるようになっている。現実には資本家階級と労働者階級の利害は基本的に対立しているとして労働運動を政治運動の一つとみなし,プロレタリアート革命を目指す立場と,労働組合主義といわれる経済的闘争こそ労働運動の目的であるとする立場を両極として,さまざまな運動形態がある。日本における労働運動は 1880年代後半鉄工 (鉄工組合) と印刷工 (活版工組合) によって始められたが,97年の労働組合期成会の結成によって初めて本格化した。しかし治安警察法や治安維持法などの制定によって労働運動は弾圧され続けた。第2次世界大戦後は法的整備もあって組合組織率は大きく上昇し,労働運動も活発となったが,高度成長期以降組合組織率は低下してきている。中央組織としては日本労働組合総評議会 (総評) ,全日本労働総同盟 (同盟) を二大主流としていたが,1987年全日本民間労働組合連合会 (旧連合) が結成され,89年にはさらに日本労働組合総連合 (連合) に拡大,労働運動は新たな段階を迎えている。

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