1922(大正11)年に誕生した日本の共産主義政党。機関紙は「しんぶん赤旗」。第2次大戦前は天皇制廃止と民主主義革命の方針を掲げ、非合法活動を行った。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の命令で釈放された徳田球一らによって再建された。党の活動資金を支える赤旗の発行部数は80年代には300万部を超えていたが、91年のソ連崩壊などの影響を受けて次第に減少し、約100万部まで落ち込んだ。党員の減少や高齢化により「世代継承」が課題となっている。
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生産手段の社会化による搾取と階級の廃絶、社会主義革命を経ての共産主義社会の実現を、究極の目標とする政党。労働者階級(プロレタリアート)を社会的基盤とし、その利益を代表する「前衛」として活動する。「マルクス・レーニン主義」ないし「科学的社会主義」を理論的指導原理とし、世界観上の統一と「民主集中制」を組織的結合原理として重視する。革命政党、労働者政党、マルクス主義政党という性格を共有するこうした政党(共産主義政党)は、創立当初に厳しい迫害・弾圧を被りながらも世界中に広がり、最高時約100か国に8000万人もの党員を擁した(ただし、うち5000万人近くは中ソ両国共産党が占めた)。国際共産主義運動とよばれたように、国際主義的結合も共産主義政党の重要な特質であった。しかし、1989年の東欧革命と91年ソ連解体によって、20世紀の政治の一方の主役であった共産主義運動・共産党は劇的に崩壊した。
[加藤哲郎]
共産党という名称自体は、マルクス、エンゲルスの指導した共産主義者同盟(1847~52、その綱領が『共産党宣言』)の系譜にあることの証(あかし)であり、より直接的には、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)時の社会民主主義的第二インターナショナルの崩壊と、レーニンの指導したロシア革命の勝利を背景に設立された国際組織、第三インターナショナル(共産主義インターナショナル、略称コミンテルン、1919~43)が、それぞれの国の支部に「○○国共産党(コミンテルン○○支部)」と名のるように義務づけたことに由来する。
共産主義者同盟の綱領『共産党宣言』は、その後の共産主義運動の共通の理論的基礎とされた。同盟は、その前身であった正義者同盟などの秘密結社的性格を脱し、大会―中央委員会―管区―地区―班という集権的組織形態をも規約に採用していたが、全ヨーロッパで500人規模の小党であった。1864年創立の第一インターナショナル(国際労働者協会)は、マルクスらの総評議会の指導で各国労働運動の連帯と社会主義思想の普及に貢献したが、諸国の個人会員および協会加盟労働組合・社会主義諸組織の情報交換機関的性格が強く、マルクス主義からアナキズムに至る諸思想が内部で対立し、パリ・コミューン後の76年に解散した。1889年には、晩年のエンゲルスの指導を受け、第二インターナショナルが設立された。労働運動の大衆化とマルクス主義の普及に大きな役割を果たしたが、ベルンシュタインの修正主義やカウツキーらの改良主義が生まれ、統一的指導部をもたないヨーロッパ規模での連絡組織にとどまり、1914年の第一次大戦勃発時に、ドイツ社会民主党など主力諸党指導部が、それまでの大会決議にも反して自国の帝国主義戦争参戦支持に回ることにより、崩壊した。
[加藤哲郎]
この第二インターナショナルの崩壊とその再建(社会主義労働者インターナショナル。今日の社会民主党・社会党の源流)に対抗して、世界で最初の社会主義革命を勝利させたロシア共産党ボリシェビキ(1898年創立の社会民主労働党が1918年、革命さなかに改称)の提唱により、共産主義者のみによる新しい国際組織、第三インターナショナルが創設され(1919年3月)、今日の共産党の原型をつくった。有名な「加入条件21か条」の第17条は、「労働者階級の旗を裏切った古い公認の『社会民主』党または『社会』党との区別」を明示するために各国支部が共産党と名のらなければならない、と規定した。また、「現在のような激しい内乱の時期には、党がもっとも中央集権的に組織され、党内に軍事的規律に近い鉄の規律」が必要であるとして、コミンテルン執行委員会と各国支部=共産党間の関係にも、各国共産党内部の関係にも、「一枚岩」の「民主集中制」採用を義務づけた。コミンテルン第6回世界大会(1928)で採択された綱領は、共産党を、「党は労働者階級のもっとも優れたもっとも自覚的積極的で勇敢な成員からなるこの階級の前衛である。(略)党はマルクス主義の革命的理論に立脚し、全体としての労働者階級の一般的長期的利益を代表する。(略)党は鉄の規律と民主集中制のもっとも厳格な革命的秩序によって結ばれた革命的組織である」と自己規定した。
[加藤哲郎]
「世界共産党」としてのコミンテルンは、初期の統一戦線戦術の採用や民族・植民地問題の解明など新しい革命路線の形成と共産主義理念の普及、ヨーロッパばかりでなくアジア、アフリカ、南北アメリカに及ぶ共産党の建設と幹部養成など、第二次世界大戦後の共産主義運動の基礎を築いた。同時に、指導者レーニンの死(1924)と資本主義の相対的安定の開始にあたり、「ボリシェビキ化」の名のもとにスターリン的なレーニン解釈(「マルクス・レーニン主義」)が指導理論となり、ソ連の一国社会主義建設路線の受容とソ連型社会主義像(プロレタリアート独裁や共産党一党支配)のモデル化が進み、ロシア・ツァーリの迫害・弾圧下で原型がつくられ革命後の内戦下でより軍隊的にされた職業革命家中心の集権的組織形態(党内の異論や分派を許さぬ「民主集中制」)が各国共産党に波及した。世界恐慌下でファシズムが台頭した1920年代末~30年代初頭、各国共産党が「ソ連邦擁護」スローガンと「社会ファシズム」論を無条件に採用し、ソ連共産党に倣って自党の異論者をトロツキー派、ブハーリン派として追放しつつスターリンに忠実な指導部を形成していったのは、一方で生成期の各国共産党が自国政府の弾圧下で、「社会主義の祖国」ソ連の援助を必要とし、「軍事的規律」を余儀なくされていたためであり、他方でコミンテルンが実質的にソ連共産党の外局的地位に置かれていたことの証左であった。
[加藤哲郎]
1935年のコミンテルン第7回大会は、反ファシズム統一戦線・人民戦線を採用することにより、ソ連型と異なる革命路線の形成に道を開き、モスクワと各国共産党間の自主的関係の端緒となったが、43年のコミンテルン解散と第二次大戦後の多くの共産党の合法化・大衆化のあとも、ソ連共産党を指導党としソ連型社会主義をモデルとして崇(あが)める伝統は、共産主義運動に根強く残された。コミンフォルム(ヨーロッパ共産党・労働者党情報局、1947~56)によるユーゴ共産党の除名、イタリア、フランス、日本などの共産党への干渉、東欧諸国共産党指導者への粛清などは、コミンテルン的伝統復活の現れであった。スターリンの死(1953)と「スターリン批判」(ソ連共産党第20回大会、1956)ののち、各国共産党は、ソ連共産党による指導・干渉、ソ連型モデルの呪縛(じゅばく)からようやく解き放たれ、社会主義への多様な民族的な道、議会を経ての社会主義への平和的移行、社会主義権力下での複数政党制や政権交代可能性、労働組合の自律的役割の承認、極度に集権的な「民主集中制」や一枚岩的「鉄の規律」とは区別される多様な意見の相違を含むより民主的な党組織のあり方、各国共産党間の対等平等で自主的・自律的な交流、非同盟中立など「ソ連邦擁護」「社会主義体制支持」にこだわらない自主的外交政策、などの理念を模索し始めた。1961年に公然化する中ソ対立、68年のチェコスロバキア「プラハの春」、79年の中国・ベトナム武力衝突とソ連のアフガニスタン侵略、ポーランド「連帯」運動とその抑圧(1981)などは、共産主義運動の多様化を決定的にした。
[加藤哲郎]
1985年のソ連共産党ゴルバチョフ書記長の誕生が、国際共産主義運動崩壊、各国共産党解体の端緒となった。ゴルバチョフの「ペレストロイカ(新規まき直し)」は、もともとブレジネフ書記長時代に停滞したソ連経済を改革するために始められたものであったが、チェルノブイリ原発事故をきっかけに「グラスノスチ(情報公開)」に向かい、ついには「新思考」という名で、核兵器や環境生態系危機のような人類的課題が階級的課題より優先すること、東欧諸国を衛星国と考えるのをやめ、それぞれの国民の自主性を認めることを宣言した。これを受けて89年、地下に追いやられていたポーランド「連帯」運動が自由選挙で共産主義党に勝利し、ハンガリーでは共産主義党内改革派が社会民主主義に転換して保守的共産主義指導部を駆逐、ついには東ドイツに飛び火して「ベルリンの壁」の崩壊、チェコスロバキアでの「ビロードの革命」へと連なった。ルーマニアではチャウシェスク大統領の抵抗で流血騒ぎがあったが、ブルガリア、ユーゴスラビアも含めておおむね平和的に東欧諸国のすべての共産党・共産主義政党は政権から追いやられ、解党ないし社会民主主義政党に転換した。現存社会主義の崩壊である。これに伴って、ソ連型社会主義を批判してきたイタリア共産党など西欧諸国共産党も深刻な危機に立った。最大勢力を有したイタリア共産党は、左翼民主党と改名して社会民主主義政党に脱皮、「オリーブの木」の連合政権の中心になった。「モスクワの長女」であったフランス共産党は、「民主集中制」放棄など改革に乗り出したが、党勢は激減し影響力を弱めた。スペイン共産党も「民主集中制」を放棄したが、3派に分裂した。イギリス、オランダ、ベルギーや北欧諸国では、共産党が自主的に解散し、一部は社会民主党、緑の党や市民運動に合流していった。ポルトガルとアイルランドでは共産党が残ったが、影響力は激減した。つまりヨーロッパでは、共産党はほとんど壊滅した。アフリカも同様で、ソ連の資金援助に頼ってきた多くの共産党は、雲散霧消した。アジアでは中国・ベトナム・北朝鮮の共産党が政権党として生き残ったが、中国・ベトナムは市場経済を導入して開発独裁を担う党に変身、北朝鮮では孤立したまま最高権力の父子相続が行われた。キューバ共産党も改革を余儀なくされた。こうして20世紀世界を揺るがした共産党は、世紀末には全面的に崩壊した。インドや日本、ラテンアメリカ諸国などにいくつかの共産党が残されているが、旧来のかたちでは、生き残りが困難になった。
[加藤哲郎]
マルクス主義,レーニン主義を指導理論とし,共産主義の実現を究極的目標とし,階級闘争における労働者階級の前衛を自任して民主集中制の組織原則をとる革命政党。共産党は,マルクス主義的革命政党という点で,世俗的な体制内政党(たとえば保守党)と区別され,その究極目標が共産主義であるという点で,他のイデオロギー政党(たとえばカトリック政党)と区別される。共産党と社会民主主義政党との区別は,第1次大戦の勃発による第二インターナショナルの分裂にその歴史的起源をもつが,前者は後者を社会改良主義政党とみなしてきた。なお,共産党が前衛党(前衛)であるということの意味は,それが労働者階級の先進分子を結集した労働者階級の政治的指導集団であるということであって,M.ウェーバー的意味での大衆政党(党規律の厳格な大量の党員を有する組織政党)の観念と矛盾するわけではない(たとえば,大衆的前衛党という用例)。
共産党の起源をマルクス,エンゲルスが組織した1847年の共産主義者同盟,そして第一インターナショナル(インターナショナル)に求める見方もあるが,より直接的には,第1次大戦の勃発による第二インターナショナルの分裂・崩壊,レーニンらの指導による1917年11月のロシア革命の成功を経て,19年3月に第三インターナショナル(正式には共産主義インターナショナル,略称コミンテルン)という世界単一共産党が創設されたことが,かつて世界に存在した100を超える各国共産党などの政党の真の起源となった。そのことは,コミンテルン支部として組織された各国共産党のイデオロギー,戦略・戦術,行動様式,組織原則などが,その初期においてはコミンテルン創設者レーニンらの,ついでソ連共産党内部でスターリンの覇権が確立されていき,それと並行してコミンテルンのソ連共産党への従属が進行していくにつれて,スターリン主義の,ないしはスターリンが定式化した〈レーニン主義〉の圧倒的に深い影響下にあったことを意味している。とくに後者の影響は,第2次大戦後もかなり長く残ることになった。1953年のスターリンの死後,56年のソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフの秘密報告(スターリン批判),同年のイタリア共産党第8回党大会での国際共産主義におけるポリセントリズムpolycentrism(多中心主義),〈社会主義へのイタリアの道〉の主張,構造的改革路線(構造改革論)などの提起をきっかけとして,ようやく諸共産党関係においては大国共産党とくにモスクワからの〈自主独立〉,戦略・戦術面ではソ連型の暴力革命路線と結びついたプロレタリア独裁(独裁)からの脱却がはかられるようになった。その際,1930年代後半からの反ファシズム統一戦線や第2次大戦下のレジスタンスの経験が大きな意味をもった。
ここでは中期以後(1924年以降)のコミンテルンを例にとって,当時の共産党の政党社会学的特質を列挙しておく。
(1)各国共産党がロシアのボリシェビキ党(ロシア社会民主労働党)をモデルとして再編・強化され,かつ単一の共産主義世界政党としてのコミンテルンへの統合を義務づけられたこと。組織原則としては民主集中制が掲げられたが,それはいかなる分派やグループも許さない〈鉄の軍事的規律〉をもった〈上級機関の決定の下級による無条件の実行〉という趣旨に解釈され,その結果,ソ連共産党指導部→コミンテルン執行委員会→各国支部指導部→各国支部党員という極度に集権的・階層制的組織構造が形成された。共産党の〈一枚岩のような団結〉(スターリン)という観念も大きな影響を与えた。(2)スターリンによるレーニン主義党の規定,すなわち,(a)労働者階級の前衛部隊としての党,(b)労働者階級の組織された部隊としての党,(c)プロレタリアートの階級組織の最高形態としての党,(d)プロレタリア独裁の道具としての党,(e)分派の存在と両立しない,意志の統一体としての党,(f)党は自分を日和見主義分子からきよめることによって強固になる(《レーニン主義の基礎について》1924)--が金科玉条視され,共産党は唯一の科学的共産主義の学説としてのマルクス=レーニン主義を体現する労働者階級の〈最高の組織〉として聖化される(〈全知全能の党〉〈党崇拝〉),と同時に,ソ連における党による国家権力の独占と党と国家との癒着,大衆団体の伝導ベルト論(党の指令・命令を大衆に媒介すること。スターリンの《レーニン主義の諸問題》中の言葉)などが正当化された。(3)革命の戦略も,ソ連の経験や現存するソ連をモデルとするものであり,〈一国社会主義の勝利〉→〈ソビエト社会主義世界連邦〉(第6回大会綱領,1928)として構想されていた。(4)以上を貫通する発想として思想的一枚岩主義monolithism,または中央集権主義centralismがあり,異端にたいする極端な不寛容,理論上の権威主義,便宜主義(政治至上主義,引用主義,教条主義),理論水準の低下(経済主義,基底還元主義,マルクス=レーニン主義の教義問答集化)を,全体として免れえなかった。
以上のような路線面でも組織的にもスターリン・ソ連共産党-コミンテルン(第2次大戦後はコミンフォルム)の一枚岩主義から各国共産党が解放されはじめるのは,1935年のコミンテルン第7回大会を出発点とし,人民戦線,スペイン内乱,レジスタンスの経験をくぐったのち,50年代の半ばからである。一枚岩主義からの脱却という点でいちばん前進したのは,ソ連共産党からの各国共産党の〈自主独立〉という面においてであり,この点では,コミンフォルム除名後のユーゴスラビア共産主義者同盟,60年前後からの〈中ソ論争〉や50年代半ば以降のイタリア共産党,日本共産党などが積極的役割を演じた。路線の面では,第8回大会(1956)以降のイタリア共産党,ついで日本共産党,フランス共産党,スペイン共産党などが,いわゆる先進国革命路線をとり,ユーロコミュニズムの潮流が形成された。その特徴は,(1)統一戦線勢力が国会などにおいて圧倒的多数を占めることを足がかりとして社会主義への平和的移行が展望されていること,(2)それにともなう〈プロレタリア独裁〉概念の放棄ないし訳語の変更,(3)将来の体制における議会制民主主義,複数政党制,基本的人権の尊重の公約などである。最後に党論の分野においては,ユーロコミュニズム諸党のいくつかにおいて,共産党のア・プリオリな前衛性の主張や伝導ベルト論などが放棄され,革命における労働者階級のヘゲモニーは,共産党だけではなく,労働者階級の全組織によって担われるという主張があらわれていたが,党の組織原則(既存社会主義諸国においては編成原則でもある)としての〈民主集中制〉については,ユーロコミュニズム諸党を含めて,全世界の共産党が最近まで堅持してきたのが特徴的である。
しかしながら,1980年代後半以降のソ連のゴルバチョフの〈ペレストロイカ〉路線をきっかけとして,89年半ばから,東欧諸国の共産党政権の動揺と解体が始まり,〈冷戦の終焉〉ともあいまって,91年には8月の保守派クーデタの失敗を契機に,ソ連共産党が解散・解体され,ソ連邦も解体した。東欧諸国でも権力を失った旧共産諸党は社会党・社会民主主義政党に党名を変えたものが多い。他方で西欧における最大の共産党であったイタリア共産党は89年3月その第18回党大会で,西欧社民政党との連携の深化,民主集中制の組織原則の放棄を決め,90年3月の第19回党大会で党名を〈左翼民主党〉に変更した。イギリス共産党は解党した。ただアジアにおける共産主義諸党(中国,北朝鮮,日本)は,少なくとも政治・イデオロギー面,組織原則という点では,従来の路線を維持している。しかし全体として見れば,コミンテルン型共産党の時代は終焉したといってよい。
なお,〈ソビエト連邦共産党〉〈中国共産党〉〈日本共産党〉〈イタリア共産党〉〈フランス共産党〉などの項目も参照されたい。
→共産主義 →社会主義 →マルクス主義 →レーニン主義
執筆者:田口 富久治
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「カンプチア共産党」のページをご覧ください。
「ポルトガル共産党」のページをご覧ください。
「共産主義者同盟[ユーゴスラビア]」のページをご覧ください。
「ルーマニア共産党」のページをご覧ください。
「アルバニア社会党」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1918年ロシアで,19年以来は各国で,革命的マルクス主義政党が名乗った名称。かつては党組織に対する鉄の統制と,コミンテルン指導下の国際的団結を誇ったが,ソ連共産党の終焉後は,一部の国で存続するが独自の道を歩んでいる。
①〔ソ連〕ソ連共産党(KPSS)
②〔ドイツ〕ドイツ共産党(KPD)
③〔フランス〕フランス共産党(PCF)
④〔イタリア〕イタリア共産党
⑤〔スペイン〕スペイン共産党
⑥〔インド〕インド共産党(CPI)
⑦〔インドネシア〕インドネシア共産党(PKI)
⑧〔ベトナム〕インドシナ共産党
⑨〔中国〕中国共産党
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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【歴史】
[創設]
労働運動,労働者政党の国際的組織化をめざす試みはすでに1840年代のヨーロッパにみられたが,その後労働運動の発展と社会主義政党の成長とともに,第一インターナショナル(1864‐76),第二インターナショナル(1889‐1914)が誕生した(インターナショナル)。第二インターナショナルの最左翼を占め,その改良主義的傾向を激しく批判していたレーニンに指導されるロシア社会民主労働党(共産党)は,ロシア革命を成功させると,ただちに新しい国際的革命組織の結成にのりだした。ボリシェビキは第1次世界大戦に伴う各国の政治・経済体制の動揺に革命の絶好の条件を見いだしただけでなく,後進国ロシアの革命は,先進工業国の革命なしには生きのびることはできないと確信していたからであった。…
…1890年の国会開設当初,藩閥政府の超然主義の下で〈民党〉の活動は抑圧されたが,やがて政党の力の伸張を背景にして98年に憲政党を基礎にした第1次大隈重信内閣,1900年に結成された立憲政友会のうえに立つ第4次伊藤博文内閣などが成立,18年には衆議院の多数党としての政友会に基礎をおく〈政党内閣〉としての原敬内閣が誕生し,以後31年成立の犬養毅政友会内閣まで政党内閣が続いた。その後,戦時下の政党政治の塞(ひつそく)期をはさんで,戦争直後の1945年11月に,大正デモクラシー期から昭和初頭にかけて活動した無産政党関係者によって日本社会党が,政友会系の政治家によって日本自由党が,戦時中の大日本政治会のメンバーを中心として日本進歩党が相ついで結成され,1922年に組織されていた日本共産党も活動を公然化し,日本にもようやく政党政治としての民主政治が展開されるようになってきた。 この中で,戦後日本の政党政治が一つの大きな節目の時期を迎えたのは,左右両派社会党の統一によって日本社会党が再出発し,民主党と自由党の〈保守合同〉によって自由民主党が創設された1955年である。…
※「共産党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一粒の種子をまけば万倍になって実るという意味から,種まき,貸付け,仕入れ,投資などを行えば利益が多いとされる日。正月は丑(うし),午(うま)の日,2月は寅(とら),酉(とり)の日というように月によって...
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