日本歴史地名大系 「法隆寺跡」の解説 法隆寺跡ほうりゆうじあと 和歌山県:和歌山市河南地区中野島村法隆寺跡[現在地名]和歌山市中之島金剛山医王院と号し、真言宗古義で京都勧修(かじゆう)寺(現京都市山科区)末であったが、現存しない。「続風土記」はもとは東方有本(ありもと)にあったが、正徳年間(一七一一―一六)当地に移転したと記す。同書によると当初は興福山報恩(ほうおん)寺と号し、紀三井(きみい)寺(現和歌山市)にあった報恩寺(のち正眼寺)に対して上報恩寺とよばれていた。文保年間(一三一七―一九)に落雷のため焼亡し、建武年間(一三三四―三八)大灯国師妙超が中興したという。その後、天正一三年(一五八五)の羽柴秀吉の紀州攻めで破壊されたが、日前国懸(ひのくまくにかかす)宮(現同上)神主家の紀国造忠雄の弟が出家して花岳と号して居住。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by