中野島村
なかのしまむら
[現在地名]和歌山市中之島
名草郡に属し、和歌山城下東北部にある。北は紀ノ川、南は大門川を越えて字向芝を含み吉田村と接し、西は北新川(現真田堀川)、東は有本村。村の北部を紀ノ川南岸沿いに大和街道(大坂街道)が通り、また城下内町の本町より甫斉橋または教仙橋を経て北新町に入り、当村内を北上して有本村地蔵辻で大和街道に合する街道が発達し、両街道に沿って町屋がしだいに拡大した。
古くは、紀ノ川は当地付近で流れを二分し、一方はほぼ南行して和歌浦湾に流入、一方は西南に流れて紀伊水道に注いでいた。そのため当地は「中嶋」または「中之嶋」と称されてきた。「続日本後紀」承和一一年(八四四)一一月三日条にみえる志磨神社が村域北西部にあり、この中洲の鎮守としてあがめられてきた。
明徳三年(一三九二)八月五日付の廊ノ三郎近秀旦那売券(潮崎稜威主文書)に「サイカノ庄之内ナカシマ」とみえ、さらに長禄六年(一四六二)二月一四日付快什旦那譲状(米良文書)には「中之嶋」とある。
中野島村
なかのしまむら
[現在地名]多摩区中野島
多摩郡府中領に属する。北を多摩川が流れ、東は橘樹郡登戸村、西は同郡菅村に接する。「風土記稿」によればもと多東郡布田のうち、国領宿(現東京都調布市)の枝郷で、戦国末期に開発され、文禄三年(一五九四)・寛永一二年(一六三五)の二度の検地により中野島新田となり、その後も多摩川の寄洲などへ開墾が進められたという。田園簿には「中島新田」、元禄郷帳に「中野嶋村」とみえる。
近世を通じ幕府直轄領。南境を流れる二ヶ領用水の取入口が字大川原にあり新田の用水に、大丸用水を本田用水に利用した。秣場はなく上下の菅生村の付野を入会地とした。延享四年(一七四七)の稲毛川崎用水通田反別堰々諸色人足一件(横浜市添田文書)によれば田一九町七反余、高外見取場一町三反余。
中野島村
なかのしまむら
[現在地名]浜北市上島・中瀬
豊田郡に所属。蝋燭島村の北、天竜川の中洲に位置する。中ノ島村とも記される。江戸時代の支配領主の変遷は中条村に同じ。松平忠頼領郷村帳に村名がみえ、高三一石余、畑三町八反余、うち一九石余は川成。正保郷帳では畑方三一石余。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では同高、家数七、うち役家五。元禄郷帳でも同高。享保四年(一七一九)の国領組諸色覚帳(岡部家文書)によれば高三六石余、家数一〇(うち水呑二)・人数一一二、馬二。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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