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徳川頼宣 とくがわ よりのぶ

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美術人名辞典の解説

徳川頼宣

江戸前期の大名。紀州徳川家の祖。幼名は長福、のち頼信、院号を南龍院。家康の十男。権大納言に至る。寛文11年(1671)歿、70才。

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デジタル大辞泉の解説

とくがわ‐よりのぶ〔トクがは‐〕【徳川頼宣】

[1602~1671]江戸初期の紀州藩主。家康の一〇男。紀伊徳川家の祖。紀州55万石の領主となり、殖産興業法典編纂に努めた。南竜公。→紀州家

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳川頼宣 とくがわ-よりのぶ

1602-1671 江戸時代前期の大名。
慶長7年3月7日生まれ。徳川家康の10男。母はお万の方(養珠院)。元和(げんな)5年紀伊(きい)和歌山藩主徳川家初代。55万5000石。従二位,大納言和歌山城城下町の改修整備,諸法令の編集・発布,和歌浦東照宮の造営などを実施。浪人を多数めしかかえ,地士(郷士)制度を採用した。寛文11年1月10日死去。70歳。幼名は長福丸。初名は頼将(よりのぶ),頼信。法号は南竜院。

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳川頼宣

没年:寛文11.1.10(1671.2.19)
生年:慶長7.3.7(1602.4.28)
江戸初期,御三家の紀州(和歌山)藩祖。徳川家康の10男,母はお万(養珠院)。伏見(京都)に生まれ,慶長8(1603)年常陸水戸20万石を与えられ,翌年5万石加増,14年駿河,遠江50万石に移され遠江横須賀城を居城とした。元和2(1616)年駿府城へ移ったが,5年紀伊和歌山55万5000石へ移された。寛永3(1626)年権大納言に進んだ。和歌山城を大修築し,城下町の整備をし,また旧勢力の在地武士たちを地士として懐柔するなど,領内統治の基礎を固めた。豪気な性格で,由比正雪の乱に関与したとの噂も流れたほどであった。寛文7(1667)年隠居した。

(上野秀治)

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世界大百科事典 第2版の解説

とくがわよりのぶ【徳川頼宣】

1602‐71(慶長7‐寛文11)
近世初期の大名。紀州徳川家の初代。徳川家康の十男。幼名長福丸,初名頼将,のち頼信,諡(おくりな)は南竜公。伏見城で誕生。生母は養珠院(お万の方),妻は加藤清正の娘瑶林院。家康から水戸ついで駿河,遠江等を与えられ,1619年(元和5)紀州藩主となり,55万5000石を領した。権大納言。和歌山城や城下町を整備し,和歌浦に東照宮を建立,武道を奨励,地士制度をつくり,法令を整備して藩政を確立した。【安藤 精一】

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大辞林 第三版の解説

とくがわよりのぶ【徳川頼宣】

1602~1671) 江戸初期の大名。紀州徳川家の祖。家康の一〇男。幼名長福。通称南竜公。知略にすぐれ、詩歌もよくした。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徳川頼宣
とくがわよりのぶ

[生]慶長7(1602).3.7. 伏見
[没]寛文11(1671).1.10. 和歌山
江戸時代前期,初代紀州藩 (→和歌山藩 ) 主。家康の 10男。母は於万の方。諡は南龍公。元和5 (1619) 年紀州に受封 (55万 5000石) された。御三家の一つである南紀徳川家の祖で,格式も高く,また多数の牢人 (浪人) を召しかかえたので,藩は初代から財政難であったが,殖産興業,法典の編纂に努め,藩体制を確立した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

徳川頼宣
とくがわよりのぶ
(1602―1671)

江戸初期の大名。家康の第10子。母は上総(かずさ)(千葉県)の土豪正木邦時(まさきくにとき)の娘のお万の方(養珠院)。御三家の一つ紀伊(きい)家の祖。慶長(けいちょう)7年3月7日伏見(ふしみ)に生まれる。幼名は長福丸。1603年(慶長8)水戸20万石を与えられる。翌年5万石加増。1606年元服して頼将(よりまさ)と名のる。1610年駿河(するが)・遠江(とおとうみ)(静岡県)と東三河(愛知県)で50万石に加増。大坂冬・夏の陣に参加し、1616年(元和2)家康の死後、駿府(すんぷ)城(静岡市)を与えられ、翌年加藤清正(きよまさ)の娘と結婚。1619年和歌山55万石余の城主となる。このころ頼信と改名し、さらに頼宣と改めた。1626年(寛永3)従(じゅ)二位権大納言(ごんだいなごん)に叙任。寛文(かんぶん)11年1月10日和歌山で没。諡(おくりな)は南龍院殿。慶安(けいあん)事件で由比正雪(ゆいしょうせつ)の後ろ盾という噂(うわさ)があったことはよく知られている。墓は長保寺(ちょうほうじ)(和歌山県海南市下津町)。[高木昭作]
『中村孝也著『家康の族葉』(1965・講談社)』

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世界大百科事典内の徳川頼宣の言及

【安藤直次】より

…江戸前期の武将。徳川頼宣の付家老で紀州田辺領主。3万8000石余を領す。…

【紀州藩】より

…親藩となる前は1600年(慶長5)に浅野幸長(よしなが)が37万6500石で入国し,19年(元和5)弟の浅野長晟(ながあきら)が安芸国に転封するまで浅野氏の支配下にあった。同年に徳川家康の子で,駿府城で50万石を領有していた徳川頼宣が伊勢・大和の一部を合わせ55万5000石で入国して以来,三家として重きをなした。頼宣は数え年18歳で入国したが,家康はすでになく,秀忠がその遺命を実行した。…

【長保寺】より

…国宝に指定されている本堂,多宝塔,大門はこのころの建築である。当初は天台宗であったが,のち真言宗にかわり,さらに1666年(寛文6)徳川頼宣(よりのぶ)が伽藍を整備し,寺領500石を与えて菩提所と定めて以来,天台宗に復した。頼宣をはじめ歴代紀州藩主の墓がある。…

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