江戸初期の大名。家康の第10子。母は上総(かずさ)(千葉県)の土豪正木邦時(まさきくにとき)の娘のお万の方(養珠院)。御三家の一つ紀伊(きい)家の祖。慶長(けいちょう)7年3月7日伏見(ふしみ)に生まれる。幼名は長福丸。1603年(慶長8)水戸20万石を与えられる。翌年5万石加増。1606年元服して頼将(よりまさ)と名のる。1610年駿河(するが)・遠江(とおとうみ)(静岡県)と東三河(愛知県)で50万石に加増。大坂冬・夏の陣に参加し、1616年(元和2)家康の死後、駿府(すんぷ)城(静岡市)を与えられ、翌年加藤清正(きよまさ)の娘と結婚。1619年和歌山55万石余の城主となる。このころ頼信と改名し、さらに頼宣と改めた。1626年(寛永3)従(じゅ)二位権大納言(ごんだいなごん)に叙任。寛文(かんぶん)11年1月10日和歌山で没。諡(おくりな)は南龍院殿。慶安(けいあん)事件で由比正雪(ゆいしょうせつ)の後ろ盾という噂(うわさ)があったことはよく知られている。墓は長保寺(ちょうほうじ)(和歌山県海南市下津町)。
[高木昭作]
『中村孝也著『家康の族葉』(1965・講談社)』
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(上野秀治)
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1602.3.7~71.1.10
江戸前期の大名。御三家の一つ紀伊徳川家の祖。徳川家康の十男。母は側室養珠院(お万の方)。1603年(慶長8)2歳で常陸国水戸20万石に入封。09年駿河国府中50万石をへて,19年(元和5)紀伊国和歌山55万5000石に転封。安藤直次・水野重央ら付家老(つけがろう)の補佐をうけ,21年に和歌山城の大改修をはじめ職制の整備,諸法令の発布,家臣団の編成など,難治といわれた和歌山藩の藩政の確立に努めた。26年(寛永3)従二位権大納言に叙任。
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…江戸前期の武将。徳川頼宣の付家老で紀州田辺領主。3万8000石余を領す。…
…親藩となる前は1600年(慶長5)に浅野幸長(よしなが)が37万6500石で入国し,19年(元和5)弟の浅野長晟(ながあきら)が安芸国に転封するまで浅野氏の支配下にあった。同年に徳川家康の子で,駿府城で50万石を領有していた徳川頼宣が伊勢・大和の一部を合わせ55万5000石で入国して以来,三家として重きをなした。頼宣は数え年18歳で入国したが,家康はすでになく,秀忠がその遺命を実行した。…
…国宝に指定されている本堂,多宝塔,大門はこのころの建築である。当初は天台宗であったが,のち真言宗にかわり,さらに1666年(寛文6)徳川頼宣(よりのぶ)が伽藍を整備し,寺領500石を与えて菩提所と定めて以来,天台宗に復した。頼宣をはじめ歴代紀州藩主の墓がある。…
※「徳川頼宣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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