報恩寺(読み)ホウオンジ

デジタル大辞泉 「報恩寺」の意味・読み・例文・類語

ほうおん‐じ【報恩寺】

青森県弘前市にある天台宗の寺。山号は一輪山。開創は明暦2年(1656)。開山は本好。開基は津軽信政。歴代津軽藩主の菩提寺。
岩手県盛岡市にある曹洞宗の寺。山号は瑞鳩峰山。室町前期、通山長徹を開山として柏崎で開創。開基は南部守行。慶長4年(1599)現在地に移転。江戸時代には南部領内の寺院を統轄。

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日本歴史地名大系 「報恩寺」の解説

報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]弘前市新寺町

新寺しんてら町寺院街にあり、袋宮たいぐう寺の南西、県立弘前高校の西に位置。一輪山桂光院と号し、天台宗。本尊は釈迦如来。もと寛永かんえい(現東京都台東区)末寺。開山は本好。開基は三代藩主津軽信義。寺禄は三〇〇石。旧津軽家菩提寺。旧天台宗僧録所。

天台宗諸寺院縁起志(市立弘前図書館蔵)によれば、明暦元年(一六五五)一一月二五日江戸において亡くなった信義の菩提を弔うため、四代藩主津軽信政が翌二年に創建した。開山の本好が、津軽家の江戸の菩提寺天台宗津梁しんりよう(現東京都台東区)より分骨を報恩寺に持参した。同年寺領二九〇石を与えられたが、うち九〇石は塔頭寺院である観明かんみよう院・光前こうぜん院・正善しようぜん院・一乗いちじよう院・了智りようち院・理教りきよう(現在すべて廃寺)の六院に各一五石ずつ与えられた。このため六院の衆僧は報恩寺の供僧として朝暮の勤行・供奉・灯明・焼香・掃除などを勤めた。明暦三年九月一日輪王寺宮一品法親王より一輪山桂光院報恩寺の三号を授けられ、寛永寺の末寺に加えられ、この時点が開基と考えられる。

伽藍建立状況は明暦二年冬に玄関・使者の間・客殿・大書院・小書院・対面所・御装束の間、同三年夏に信義の石塔・殉死者四名の石塔・廟前石灯籠二基・瑞籬・廟惣廻塀・廟前の門を建立し、寛文一〇年(一六七〇)春に仏殿・玄関・使者の間・客殿の葺替え、元禄一三年(一七〇〇)に中の橋の架替えをし、居間廊下・学問所・湯殿・雪隠・眠蔵・台所・火消蔵・井戸二ヵ所・中門・中の橋・表門・門番所・表門橋・裏門橋・裏門・表通柵・表門前塀・外表通塀・護摩堂が建立されている。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]高岡市戸出町二丁目

高龍山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。親鸞直弟の横曾根性信開基の坂東報恩寺(現東京都台東区)八代蓮崇が文明七年(一四七五)越中に遊化して、礪波郡落合おちあい村に一宇を建立、報恩寺と称した。しかし本願寺九代実如の時、坂東報恩寺と同名のため勝福しようふく寺に改称した。慶長七年(一六〇二)の本願寺東西分派の折、坂東報恩寺が東方にくみしたので、西本願寺一四代寂如の時に再び報恩寺と称し、また坂東報恩寺の隠居所と称されたという(「万治四年由緒書上」寺蔵文書)


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]台東区東上野六丁目

東上野ひがしうえの六丁目の東部中央にある。真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。開基は親鸞二十四輩第一番の性信。建保二年(一二一四)下総国岡田おかだ横曾根よこぞね(現茨城県水海道市)において、当時無住であった真言宗大楽寺を再興して真宗念仏の道場とし、このとき「真成報仏恩」の語にちなんで「報恩寺」と名付け、真宗初の寺院として報恩寺が開創された。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]加古川市平荘町山角

平荘町山角へいそうちようやまかどの中央部にあり、印南山と号し、高野山真言宗。本尊十一面観音。和銅六年(七一三)に慈心を開基として創建され、建治元年(一二七五)には後宇多天皇の勅により当寺の証賢が天下安全の祈祷を修したと伝える(播磨鑑)。正和五年(一三一六)四月八日の寺領寄進のための後伏見上皇院宣(報恩寺文書)、文保元年(一三一七)二月七日の殺生禁断を定めた後伏見上皇院宣案(同文書)が残るが、この二通は検討の余地がある。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]長南町報恩寺

埴生はぶ川の北岸にある。雲上山金剛院報恩寺と号し、真言宗豊山派。もと山城醍醐寺三宝さんぼう院末で、明治二九年(一八九六)長谷はせ(現奈良県桜井市)末となる。上総檀林八ヵ寺の一つで、中元寺常法檀林所。本尊は阿弥陀如来。寺伝では長徳二年(九九六)僧源暹の開創というが、「長南町史」は「関東往還記」裏書に心月坊尭円総州報恩寺開山と記されていることから、尭円を開山としている。文永一〇年(一二七三)頃に鎌倉東栄とうえい寺の開山顕律坊源俊が報恩寺の道場で伝法灌頂を行い(同書)、本尊の阿弥陀如来像台座に正応三年(一二九〇)四月銘があることなどから、報恩寺は鎌倉時代中期には伽藍が存在していたとされる。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]香北町五百蔵

集落の中央東寄り、県道から北方へ坂道を少し登った右手の旧小学校敷地が旧境内地であるが、現在はその北西の一隅、銀杏樹の下に阿弥陀堂が残る。金蔵山と号し、もと禅宗瑞応ずいおう(現高知市)の末。明治四年(一八七一)廃寺となり、以後長岡郡比江ひえ永源えいげん(現南国市)の管理となっていたが、現在曹洞宗報恩結社として独立。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]盛岡市名須川町

龍谷りゆうこく寺の北北東に位置する。鳩峰山と号し、曹洞宗。本尊は丈六盧遮那仏。盛岡五山の一寺で、寺領二〇〇石、盛岡藩領二〇八ヵ寺の総録を務めた(盛岡砂子)。寺伝によると、貞治年間(一三六二―六八)陸奥三戸に建立、開山は越後香積こうじやく(現新潟県柏崎市)六世通山長徹、開基は南部守行。南部氏累代の菩提所で、盛岡築城に際し慶長六年(一六〇一)現在地に移る。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]上京区射場町

尭天山と号し、本尊阿弥陀如来像は安阿弥作と伝える。浄土宗。寺伝では前身を葉室山浄住じようじゆう寺といい、貞観八年(八六六)円仁の創建で、中興開山を叡尊とする。「雍州府志」によると、この頃の寺地は後の有栖川殿邸地の内裏の北東に接した辺りで、報恩寺文書には「一条之報恩寺」とあり、天台浄土宗で法園寺と号したとする。寺伝や「雍州府志」、また牙舎利縁起によれば応仁の乱で焼失し、室町女院より賜った仏牙の舎利は浄住寺(現京都市西京区)に移るなど宝物類が散逸したが、文亀元年(一五〇一)後柏原天皇の勅で慶誉が再建して浄土宗報恩寺となったという。「蓮門精舎旧詞」は明応三年(一四九四)の開創とし、「雍州府志」は土御門院のとき玄誉が再興したという。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]熊本市坪井三丁目

藤崎八旛宮大鳥居前を通り北の浄行じようぎよう寺前交差点に至る国道三号(千反畑広丁)のほぼ中央西側、安養あんよう院の北隣、浄行寺の南に位置する。千体仏があることから俗称千代仏せんたいぶつとも称する。徳輝山と号し、曹洞宗、本尊十一面観音。「国誌」は「川尻大慈寺ノ末寺、宇土郡古保里村ニアリ、文永年中古保里領主ノ息女素妙尼建立ト云伝フ、開山ハ大慈寺寒巌ノ高弟仁叟浄熙和尚大慈寺四世也、永正年中熊本ヘ引移ス、慶長ノ比住僧間断ニ及ヒ大慈七十世瑩谷珠和尚再興之中興ト称ス、其後焼失亦造立ス」と記す。境内の東北隅には坪井つぼい(壺井)の地名の起源となった壺形の井戸があり、雷封じの井戸とも称される。昭和四年(一九二九)には壺井の碑が建てられた。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]水海道市豊岡町

横曾根よこぞね台地西麓に所在。高竜山と号し真宗大谷派。本尊阿弥陀如来立像。二十四輩第一番の性信が開山。性信は鹿島神宮の神官中臣宗基の嫡子で、法然・親鸞の教えを受け、親鸞の越後配流・関東布教に常随した高弟。初め横曾根村の念仏道場を中心に横曾根門徒とよばれる教団を形成していたが、「二十四輩順拝図会」に

<資料は省略されています>

とあるように、貞永元年(一二三二)に当寺を造営した。天正五年(一五七七)には小田原北条氏と下妻城主多賀谷氏の合戦によって寺は焼失し(東国闘戦見聞私記)、慶長年間(一五九六―一六一五)に塔頭の聞光もんこう寺を残して江戸へ移った。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]武蔵町麻田

金剛山と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝では養老年中(七一七―七二四)仁聞の開基という。「豊鐘善鳴録」によると、養老初年国東六郷に開かれた霊場二八ヵ所の一。織豊期以降の成立と思われる六郷二十八山本寺目録(太宰管内志)では末山分末寺の一にあげられる。また中世末の成立と思われる六郷山定額院主目録(同書)には「麻田山報恩寺号金剛山、院主大嶽任之人、徒六箇所」とみえる。建武四年(一三三七)六月一日の六郷山本中末寺次第并四至等注文案(永弘文書)によると、寺領の四至は「限東当寺 限西丸小野 限南美尾 限北美尾」であった。江戸時代麻田あさだ村の庄屋を務めた綾部氏の祖可春は大友氏滅亡後同村の金剛庵に住み当寺を再興した(元禄一二年梵鐘銘)


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]青梅市今寺

常盤平ときわだいらにある。藤橋山と号する。天台宗。本尊は阿弥陀如来。創建年代は未詳ながら元亨二年(一三二二)一二月一三日、大檀那平清綱、施主住持承祐、草賀重光作などと刻す破鐘があったという(宝暦三年什物帳)。三田弾正忠平清綱の開基とも伝える。承祐については、貞和三年(一三四七)二月銘の時正板碑に権僧都隆承がその師承祐逆修のために造立したことが記されている。応永三年(一三九六)一〇月一八日日光輪王りんのう寺が関東の天台寺院に委託した大般若経一日頓写で、地内の報恩寺は巻一五五を担当、そま藤橋ふじはし報恩寺忍蔵坊と奥書している。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]豊後高田市来縄 上来縄

応利おうり山の西半嶺にある。大折山と号し天台宗。本尊は聖観音。養老二年(七一八)仁聞の開基と伝える。織豊期以降の成立と思われる六郷二十八山本寺目録(太宰管内志)に序分本山八ヵ寺の一として大折山報恩寺とみえる。また中世末の成立と思われる六郷山定額院主目録(同書)には「院主利益院、衆徒三十六坊也」とある。安貞二年(一二二八)五月には将軍家に異国降伏、聖朝安穏の祈祷の巻数を進上している(「六郷山諸勤行并諸堂役祭等目録写」長安寺文書)。建武四年(一三三七)六月一日の六郷山本中末寺次第并四至等注文案(永弘文書)によれば、当時寺領の大部分が河野四郎に押領されていた。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]福井市安保町

安保あぼ町南西部の山麓にある。尋栄山と号し、法華宗(真門流)。本尊十界大曼荼羅。もと真言宗であったが、永仁元年(一二九三)暮、日像の北陸巡錫の折、安保村の真言僧頼尋と勝劣問答を数日間行い、ついに頼尋は日像に屈伏して法華宗に改宗、当寺を開いたという。この問答中の同二年元旦、日像を饗応するため出された小豆粥にちなんで、毎年元旦に小豆粥を食するのが安保村の恒例となった。また、日像自ら刻して当寺に残したという日蓮像は霊験著しく、古来、安保神事と称して毎年四月一日より五日(旧暦)に開扉された。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]和歌山市吹上一丁目

白雲山と号し、日蓮宗。本尊は十界大曼陀羅。通称武士ぶし寺という。前身は慶長年間(一五九六―一六一五)要行院日忠が建立した要行ようぎよう寺で、寛文六年(一六六六)和歌山藩主徳川頼宣が夫人瑶林院を同寺に葬った。同一〇年二代光貞は母追善のため諸堂を建立し、日順を開祖として寺号も報恩寺と改めた。「南紀徳川史」所収の寛文一〇年五月二四日の文書によると、一寺特立の一本寺として定められ、寺領二五〇石、田・山林などが寄付されている。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]大垣市綾野

綾野あやの集落のほぼ中央に位置し、曹洞宗に属する。補陀山報恩寺と号し、本尊は行基作と伝えられる十一面観音。永禄元年(一五五八)一元が創建したと伝える。一時中絶したが、明暦三年(一六五七)岩手いわで(現不破郡垂井町)禅幢ぜんどう寺から昌山を迎えて再興したという。当時は七堂伽藍が立並び、雲水の修行道場として栄えたが、火災にあって山門以外をことごとく焼失したといわれる。現在、薬師堂には県指定重要文化財の円空作の木造薬師三尊・十二神将が安置されている。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]大和町落合 報恩寺 上の山

大松沢おおまつざわ丘陵上の地字小屋館こやだて、別名古館ふるだてにある。裏山は天正年中(一五七三―九二)に居住したといわれる篠本善左衛門平貞永の館跡。臨済宗妙心寺派、法宝山と号し、本尊正観音。もとは段丘裾の水田に臨んだ平場の現窟薬師あなやくしにあったが、洪水の危険を避けて後方の現在地に移ったという。「報恩寺村安永風土記」所載の由緒によると、大覚禅師(蘭渓道隆)の法孫という延慶二年(一三〇九)示寂の唐僧、智覚禅師(桑田道海)を開山とし、黒川景氏の開基と伝える。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]野洲町南桜

さくら山北西麓にある。智徳山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。「浄土宗寺院由緒書」によれば安土浄厳あづちじようごん(現滋賀県安土町)末、起立は文明一一年(一四七九)、開山は浄厳院三世宗真とある。江戸時代南桜みなみざくらを領地とした公家広幡家の仏殿であった。寺宝に奈良時代作の像高二八・五センチの銅造観音菩薩立像(国指定重要文化財)がある。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]豊中市春日町二丁目

浄土真宗本願寺派、山号甘露山、本尊阿弥陀仏。寺伝によると行基開創の金銭きんせん寺と称する巨刹が廃絶、その跡地に貞治年中(一三六二―六八)村民が念仏道場を建てたのに始まる。道場は金銭道場とよばれたが天正年中(一五七三―九二)兵火で焼失、文禄三年(一五九四)楠木余左衛門が出家し法名玄可と称し小庵を建立、現寺号に改めたという。元禄五年(一六九二)の吟味之帳(渡辺家文書)によれば、東西八間・南北一〇間の境内に藁葺の惣道場と庫裏があり、寺歴を「道場之初リ百年余ニ御座候得共、代々住持ヲ不存候、於只今看坊持ニ御座候、元禄二年巳ノ正月ニ寺号申請、報恩寺申候」と記す。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]玉湯町湯町

宍道湖を見下ろす高台にある。養龍山と号し、高野山真言宗。本尊は十一面観音。「雲陽誌」によると、弘法大師の開基と伝え、尼子経久から堀尾吉晴・同忠氏・同忠晴まで代々の祈願所であった。また山内には大昌だいしよう寺など七つの末寺があったとされる。とくに堀尾氏の崇敬が厚く、慶長六年(一六〇一)居屋敷、門前二ヵ所の畑、山林竹木を寄進している(「堀尾氏寺領寄進状」報恩寺文書)


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]城川町土居

大雲山と号し、本尊釈迦如来。「宇和旧記」は紀実平の菩提寺として土居どい川津南かわづみなみ両村で寺領一〇〇貫を与えられ、臨済宗であったが寛永年間(一六二四―四四)竜沢りゆうたく寺の末寺として曹洞宗に変わったという。「伊予温故録」は紀実平が応永二二年(一四一五)法燈国師を勧請開山として伽藍を創営して釈無端を住職とし、実平死後荒廃したが、天文二一年(一五五二)留錫中の釈大奇が甲之森かぶとのもり城主長山伯耆守とともに再建、元亀元年(一五七〇)実平の廟を寺内に設けて八幡宮と称し、北之川殿・長山氏没落の際寺も焼滅したが明暦元年(一六五五)釈祖暁が再興したという。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]小野田市大字小野田

目出の松江めでのまつえ八幡宮の東側にあったが、明治三二年(一八九九)小野田新開作の地に移った。浄土真宗本願寺派。望海山と号し、寛文八年(一六六八)高泊開作たかとまりかいさくができるまで瀬戸内海に面してあったことに由来する。本尊は阿弥陀如来。

「寺社由来」によれば開基は春慶。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]吉川町山直海

山直海やまのうみの北部にある。真言宗豊山派、本尊は胎蔵界大日如来。天平宝字二年(七五八)鑑真の開基と伝える。中古再度にわたる火災で伽藍諸堂のすべてを焼失。中興二九世尭泉が寛永年間(一六二四―四四)現在地に移築、元禄一一年(一六九八)四〇世直尊が現在の本堂を建てて再中興した。古くから大神おおかみ社の別当職を兼ねた。


報恩寺
ほうおんじ

[現在地名]宇都宮市西原一丁目

旧日光街道の西方、かつての佐野道口の南にある。松嶺山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。寛永一六年(一六三九)宇都宮藩主奥平家昌室の仏遊院殿松嶺宗鶴大姉の寄進を受け、梁津玄棟が開基、宇都宮城下寺院年頭拝礼順位(弓削正則文書)に、西原報恩寺とある。境内縦七〇間・横二八間、門前家六軒、観音堂・天神宮・稲荷宮がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「報恩寺」の意味・わかりやすい解説

報恩寺
ほうおんじ

岩手県盛岡市名須川(なすかわ)町にある曹洞(そうとう)宗の寺。山号は瑞鳩峰山(ずいきゅうほうざん)。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。貞治(じょうじ)年間(1362~1368)に新潟県柏崎(かしわざき)市香積寺6世通山長徹(つうざんちょうてつ)を開山として創建された。初め越後(えちご)(新潟県)にあったが、1599年(慶長4)現在の地に移され、南部領内208か寺の僧録司(そうろくし)として栄えた。1940年(昭和15)からは専門僧堂となった。本尊釈迦牟尼(むに)仏、脇侍(きょうじ)の文殊(もんじゅ)・普賢(ふげん)像は聖徳太子の作と伝えられる。五百羅漢(らかん)堂内の盧遮那仏(るしゃなぶつ)は大和(やまと)(奈良県)橘(たちばな)寺にあったもの、脇侍の八歳童女・善財(ぜんざい)童子は朝鮮渡来のものといわれ、周りに並ぶ木造五百羅漢像は享保(きょうほう)年中(1716~1736)京都の仏師駒野丹下(こまのたんげ)らの作とされ、市内観光の名所となっている。

[菅沼 晃]


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