津田 静一
ツダ セイイチ
明治期の政客,植民政策家
- 生年
- 嘉永5年(1852年)
- 没年
- 明治42(1909)年11月28日
- 出身地
- 肥後国熊本坪井(熊本県)
- 別名
- 通称=亀太郎,号=海渓,図南
- 学歴〔年〕
- エール大学〔明治2年〕入学
- 経歴
- 明治8年北京公使館一等書記官見習、次いで大蔵省紙幣局学場幹事兼教員となった。辞任後熊本に帰り、紫溟学会を設け、自由民権を排し、国権論を唱えた。「紫溟雑誌」、「九州日日新聞」を創刊。18〜20年ロンドンに留学、その後再び文学館を興し、植民事業を説き県民に南米移民を勧め、県民数百人を連れて台湾の蕃地開発を実践、成功した。晩年旧主細川家の家令を務めた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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津田静一 つだ-せいいち
1852-1909 明治時代の実業家。
嘉永(かえい)5年4月生まれ。もと肥後熊本藩士。明治14年熊本で国権論の紫溟(しめい)会設立にくわわる。機関紙「紫溟雑誌」「紫溟新報」を発行,自由民権論に対抗した。南米移住など植民事業を説き,台湾拓殖公社を創設。明治42年12月28日死去。58歳。通称は亀太郎。号は楳渓,図南。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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