淞郷堰
しようごうぜき
現南陽市の吉野川・織機川扇状地一帯は江戸時代から灌漑用水に恵まれず、旱魃に苦しんだ。とくに旧沖郷村は古くから用水路があったが水量不足であった。厨川堰は、天正六年(一五七八)吉野川が大洪水で流路を変えたため、従来の水路を用水堰としたという。また長瀞村・法師柳村の織機川堰は天正年中の工事と伝える。寛政七年(一七九五)米沢藩士黒井半四郎により黒井堰が完成すると、鍋田村に通じた堰を旧赤湯方面と旧沖郷・梨郷方面の東西に分けて補水した。しかし南に傾斜する扇状地を逆に送水する計画には無理があり、天保四年(一八三三)通水は中止された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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