日本歴史地名大系 「南陽市」の解説 南陽市なんようし 面積:一六〇・一二平方キロ米沢盆地北東部を占め、北端の白鷹(しらたか)山(九九四メートル)から南端は吉野(よしの)川・屋代(やしろ)川合流地点の大橋(おおはし)まで、東端は小岩沢(こいわさわ)、南西部は最上川に限られた範囲で洋梨状の形状を呈する。旧置賜(おきたま)郡の北東端にあり、北は東村山郡山辺(やまのべ)町、北東は上山(かみのやま)市、南東は東置賜郡高畠(たかはた)町、南西は同郡川西(かわにし)町、西は長井市、北西は西置賜郡白鷹町に接する。市域のほぼ中央を吉野川が南流し、屋代川を合せて最上川に入り、西部を織機(おりはた)川が南西に向かい砂塚(すなづか)の西で最上川に合流する。吉野川は宮内(みやうち)を扇頂とする比高五〇メートルの扇状地を形成し、古来幾度か流路を変えた。旧沖郷(おきごう)地区に一列に並ぶ堤は天正年間(一五七三―九二)の流路と思われる。織機川も狭い扇状地をつくり縫合線にあたる宮内と池黒(いけぐろ)の境界は飲用水にも事欠く地域であった。両扇状地の扇央部の旧沖郷地区は乏水地のため溜池を築き、明暦二年(一六五六)には白鷹山麓小滝(こたき)の水林(みずばやし)に水源涵養林を設け、厨川(くりやがわ)堤や黒井(くろい)堰からの引水などに努めたが、常に灌漑用水確保に困難が伴い、大正八年(一九一九)の淞郷(しようごう)堰完成でようやく解決している。市東部の白竜(はくりゆう)湖を中心とする約一〇〇〇ヘクタールの地域は、湖盆の名残で大谷地(おおやち)と称され山麓を縫う道路のほかは舟が交通の手段だった。寛永年間(一六二四―四四)北条郷代官安部右馬之助の尽力で周辺部が開拓され、赤湯(あかゆ)の北(きた)町付近は中山(なかやま)城(現上山市)城代横田利信が開拓、南部は深沼(ふかぬま)(現高畠町)の結城治部の手で開かれてきた。大谷地の東部・北部の山地は吉野川上流の旧吉野村・金山(かねやま)村とともに金・銀・銅・鉛等の鉱山として繁栄し、とくに寛永一九年までがその全盛時代だった。明治末以降ブドウ園に代わり、置賜地方最大の産地になっている。急斜面栽培地として珍しい所であるが、独特の甘味は大谷地が作り出す特有な気象条件によるともいわれる。気候は盆地特有の大陸性気候で、夏暑く、冬寒い。豪雨による吉野川の洪水は頻繁で、土砂崩れなどの自然災害も多かった。〔原始・古代〕中石器時代の松沢(まつざわ)遺跡や長岡山(ながおかやま)遺跡をはじめ、数多い縄文時代遺跡がある。これらの遺跡は、東部から北部にかけての丘陵上から山麓にかけて、および吉野川と織機川の河岸段丘や自然堤防上に集中し、縄文時代早期の大野平(おおのだいら)遺跡は織機川上流の標高五〇〇メートルの須刈田(すがりだ)に立地する。弥生時代の萩生田(はぎゆうだ)遺跡では石包丁が発見され、県内では六遺跡のうちの一つの数少ない例である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南陽市」の意味・わかりやすい解説 南陽〔市〕なんよう 山形県南部,米沢盆地の北部にある市。東は上山市,南西は長井市に接する。 1967年宮内町 (1955年吉野村,金山村,漆山村と合体) ,和郷村 (55年梨郷村,沖郷村が合体し成立) と赤湯町 (55年中川村と合体) が合体し市制施行。地名は中国の古語「南陽の菊水」にちなみ,「北に丘陵,南に沃野で住みよい地」を意図してつけられた。南部の中心市街地赤湯は温泉町として発達した。東部は白竜湖とそれを取巻く湿田地帯で,その周辺の山地斜面ではブドウが栽培される。西部の宮内,漆山地区は県の機械製糸業の発祥地で製糸業が栄えた。赤湯・沖郷地区の米作を中心に,野菜や果樹栽培,畜産が行われる。白竜湖は県南県立自然公園に含まれる。赤湯の二色根 (にいろね) 薬師寺は,古い寺で付近には古墳が多い。長岡の前方後円墳,稲荷森古墳は史跡に指定されている。赤湯で JR奥羽本線・山形新幹線から山形鉄道フラワー長井線が分岐。国道 13,113号線,小滝街道が通る。面積 160.52km2。人口 3万420(2020)。 南陽〔市〕なんよう 「ナンヤン(南陽)市」のページをご覧ください。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by