玉之浦城跡(読み)たまのうらじようあと

日本歴史地名大系 「玉之浦城跡」の解説

玉之浦城跡
たまのうらじようあと

[現在地名]玉之浦町玉之浦郷 深浦

観音かんのん山に築かれた戦国期玉之浦氏の居城跡。宇久太の子孫という玉之浦十郎(像)が明応年間(一四九二―一五〇一)に築いたとされる(五島近古年代記)。玉之浦像は宇久氏惣領の宇久囲の妹を妻として入れているが、永正四年(一五〇七)二月、像の子の納は石田監物・吉田外記・西常陸らを味方として囲に対して乱を起こし(公譜別録拾遺)深江ふかえ島のたつくち(現福江市)にいる囲を攻め、くろ(現富江町)まで追撃して自刃させている(「異本五島家系図巻」五島編年史など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

選挙公職を争うとき,政党や候補者が,当選後実現すべき政策について有権者に向けて表明する約束。当選者が選挙公約に拘束され,実現の努力を行うことは責任政治の重要な構成要素である。...

公約の用語解説を読む