玉之浦村(読み)たまのうらむら

日本歴史地名大系 「玉之浦村」の解説

玉之浦村
たまのうらむら

[現在地名]玉之浦町玉之浦郷たまのうらごう

現町域の西部に位置する。東は玉之浦の内海が広がり、北に島山しまやま島、南に井持いもち浦などが続く。古くは「たまんな」と称されていた。江戸時代は福江藩領で、玉之浦掛の代官所が置かれた。慶長国絵図に「玉ノ浦」とみえ、高三七石余。万治二年(一六五九)惣高積之帳に玉之浦領として正保国絵図の高五〇三石余、今高八八〇石余、また「玉之浦地下」は正保国絵図の高三〇石余、今高三六石余。万治年間とされる五島一円惣高帳にも玉之浦地下とあり、高三六石余、うち蔵入地一四石余・寺社領二一石余。寛文四年(一六六四)の五島盛勝領知目録(寛文朱印留)に「玉浦村」、同年の福江領高辻帳では玉之浦村として高三〇石余。新田畑改高は明暦元年(一六五五)の高七石余のほか、安永元年(一七七二)・享和三年(一八〇三)・文化三年(一八〇六)などにもあった(天保五年福江領高辻郷村帳)。文化一〇年七月、伊能忠敬一行は玉ノ浦枝の小川おがわ村・中須なかす村・丹奈たんな村・荒川あらかわ村・大宝だいほう村などを測量、井持浦・白崎しろさき越首こしくび深浦ふかうらの四ヵ所で家数一一二(伊能忠敬測量日記)。文政四年(一八二一)の上下五島郷侍帳(泊家文書)では郷侍数二八軒。弘化三年(一八四六)の家数並人数書では家数五八三のうち寺四・社一〇、人数二千六二三、牛六四一(うち牝牛三九一)・馬三五一(うち牡馬五)

玉之浦掛に置かれた代官所は玉之浦村・大宝村・小川村(中須村を含む)小川幾山おがわいつくやま村・荒川村・島山村を管轄した。安永六年代官・下代のほか丹奈村・荒川村の船見・竈司、荒川村の船解などが改められている(「福江領諸支配役等控」五島編年史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android