甘利上条(読み)あまりかみじよう

日本歴史地名大系 「甘利上条」の解説

甘利上条
あまりかみじよう

戦国期にみえ地名で、かつての甘利庄の北西部一帯をさすものと考えられ、これに対して南東部は甘利下条とよばれている。近世には上条北割かみじようきたのわり村・同中割村・同南割村・同東割村の四ヵ村に分立した。天正一〇年(一五八二)八月一一日の徳川家印判状写(御庫本古文書纂)に「甘利上条内拾五貫文(脱アルカ)拾七貫文・同所見出拾貫文」とみえ、天正壬午の戦を前にして当地のうちの一五貫文などが、本領であることを理由に山木弥右衛門尉忠房に与えられている。同一一年四月一八日には「甘利上条之内四貫八百五拾文」などが甘利南宮なんぐう(現南宮大神社)(「徳川家康印判状写」社記)、「甘利上条内七百六拾六文・同所弐貫八十五文」などが甘利八幡(現八幡神社)に与えられており(「徳川家康印判状写」社記)、以下同月一九日には甘利上条のうち五貫文が苗敷なえしき(現穂見神社)(「徳川家康印判状写」寺記)、同月二〇日には甘利上条のうち五貫三五〇文が大公だいこう寺にそれぞれ安堵されている(「徳川家康印判状写」寺記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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