日本歴史地名大系 「甚目寺村」の解説
甚目寺村
じもくじむら
東は
「徇行記」によれば、概高一千五六三石余は犬山の成瀬隼人正の一千石ほか八人の給知。明治の廃藩置県の際も犬山県に属した。そのほかに領高外として高三〇〇石余が甚目寺領。田四八町三反三畝余、畑五四町三反六畝余の大村。「寛文覚書」に戸数一四〇、人数六二五とある。「徇行記」に「此村落ハ津島街道通リニアリ、農屋甚目寺ノ東南ノ方ニ建ナラヘリ、東入口ヲ南町、北町トイヒコヽニハ商屋・旅舎入交レリ、南ノ方小路ヘ付テハ皆農屋ナリ、観音楼門ノ南大門サキ広陌ナリ、其サキニ門アリ、南門ト云、コノアタリニモ農屋アリ、又東南ノ方ニ支邑アリ、市場ト云、此村ハ名古屋ヨリ濃州又ハ津島ヘノ置郵ノ地ナリ、是ヨリサキハ勝幡村ニテ継ナリ、又伊勢路ヨリ佐屋ヘカヽリ中山道ヘ出ル旅客、佐屋路秋竹村ヨリ西条村ヲ経テ甚目寺村ヘカヽリ、ソレヨリ清洲駅ヘ至レリ、此村高ニ準シテハ戸口多クシテ佃力足レリ、村立ハヨキ所ナリ」とあり、門前町の豊かさがうかがわれる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報