出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
寺社の参詣者を対象として商工業者が店舗を造営し,参詣道路の両側を中心に街村状に形成された集落。神社の場合は鳥居前町ともいう。ほかに,社寺奉仕者や信仰者が門前に集落を形成した寺内(じない)町や社家(しやけ)町および御師(おし)町があり,それらを合わせて広義の門前町といえる。伊勢神宮鳥居前の伊勢(宇治山田)市(山田),善光寺の長野市,成田不動の新勝寺門前の千葉県成田市,東照宮の栃木県日光市,金刀比羅宮(ことひらぐう)のある香川県の琴平,厳島神社の宮島,出雲大社の鎮座する島根県の大社(杵築(きづき)),高野山門前の和歌山県の高野,近代の宗教都市である天理教本山の天理市などが代表的門前町である。社家町は神社に奉仕する社家が形成した集落で,京都市賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂神社)の鳥居前町がその一例である。御師町は山梨県の富士吉田,神奈川県伊勢原市の大山などがその例であり,檀家の参詣者を案内したり,宿所を提供する御師(おし)が中心となって形成した集落である。大きな門前町は地域中心的な機能を備え,現在なお都市として隆盛しているものも多い。
執筆者:山田 安彦 門前町はとりわけ中世では,都市の中で重要な位置を占めた。それは門前町が単に宗教関係の都市ではなく,当時社寺が社会的にも経済的にも力を有していたので,門前に商工業者が集まり,商工業都市としても発達したからである。それ以前,平安期になると大社寺の中には門前に集落を生み出すものもあったが,その後有力寺社の荘園領主化が進み,商品流通の展開ともあいまって,門前に商工業者も居住し市も立つようになった。しかし門前町が繁栄をみせるのは室町期以後とされている。すなわち商品経済が展開し,参詣者の増加をみるとともに,荘園支配の維持できなくなった寺社が市場掌握に経済的活路を求めたため,門前町の発達が促されたという。その後中世末には農村経済の発展に基づき,土居や堀で囲んだ真宗寺院を中心とする寺内町が,畿内とその周辺地域に多数出現した。寺内町は門前町の一種で,中世末の都市発達を示すものであった。
寺内町は織豊政権によってそれまでもっていた特権を奪われ,在町的門前町として歩むことになるが,他の門前町も近江坂本(現,大津市)のように消滅させられたり,あるいは商工業者を城下町に吸収されるなどして,さびれるものも多かった。結局,近世の門前町は,陸奥塩釜(現,宮城県塩釜市)などのように港町として発展していくものや,旧寺内町や善光寺などのように在町的機能をも併せ発達していくものもみられるが,一般には商業都市としてではなく,信仰や遊楽・観光の町としての性格をもっている。平和の到来と商品経済の発達に伴い,庶民の社寺参詣の熱は時とともに高まり,近世後期には全国各地の寺社への参詣も活発化し,各地に門前町が栄えたが,地域内での信仰圏をもつにすぎぬ寺社でも,その門前に町屋を生み出すものが少なくなかった。近代に入ると,庶民の社寺参詣はいっそう遊楽的傾向を強めつつ盛んに行われ,このため門前町は観光都市的色彩を強めた。
執筆者:深井 甚三
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寺社の門前に発達した封建集落(都市)。神社の場合は鳥居前町ということもある。中世初期の寺社は、律令(りつりょう)制の系譜を引く寺田、位田、職田(しきでん)などをもつ荘園(しょうえん)領主であり、その境域内には多くの僧侶(そうりょ)・神官を抱え、僧院や房舎が集まっていた。そしてそれらの消費生活を支えるため、近辺で蔬菜(そさい)その他の食料作物の栽培が行われ、農産加工(油、粕(かす)、飼料、そうめん、麹(こうじ)、菅笠(すげがさ)、簾(すだれ)、菰(こも)など)の手工業的生産も発達しつつあった。また市場も開かれて寺域外との商取引も行われ、「富貴ノ輩(ともがら)多ク止住シ、売買ノ道繁昌(はんじょう)ス」(『峯相記(ほうそうき)』)のようににぎわいつつあった。もともと寺社は神仏を祀(まつ)る神聖な場所で、その前で行われる売買には不正をなさないとする商道の信仰があった。中世領主たちは社寺を信仰し、社寺周辺の治安については、「国質所質(くにしちところしち)之事、喧嘩(けんか)口論之事、押売狼藉(ろうぜき)之事」はすべて禁止され、寺社門前は商取引の安全地区となり、室町末期には「楽市(らくいち)・楽座」として保護されるものもみられた。さらに郷村制の発達にともなって、庶民の寺社参拝が盛んになると、寺社門前には参詣(さんけい)者を目当てとした旅籠(はたご)(宿屋)や商店、手工業者の店が集まるようになった。とくに奈良、宇治山田、天王寺(大坂)には社寺が集中していて有力な門前町とされていた。たとえば中世の奈良では平城京のおもかげは消滅して、東大寺、春日(かすが)大社、興福寺などの大寺社の門前町として発達し、ことに興福寺は僧侶3000といわれて奈良の中核となった。中世中ごろには奈良北隅に北市、猿沢池(さるさわのいけ)の南西に南市、さらに1414年(応永21)には両市の中間に中市(今市)が開かれて、交互に毎日開市した。奈良はこれらを中心にした門前町から商業集落へと変化しつつあった。近世に入って社会が安定し、庶民の巡礼や講参りが盛んになると、門前町は遊楽観光地的性格を強めていった。宇治山田(伊勢(いせ)神宮)、杵築(きづき)(出雲(いずも)大社)、宮島(厳島(いつくしま)神社)、琴平(ことひら)(金刀比羅宮(ことひらぐう))、長野(善光寺)、成田(新勝寺)、高野山(こうやさん)(金剛峯(こんごうぶ)寺)などが知られる。それらには社寺奉仕者が集住する社家(しゃけ)町、御師(おし)町などもみられる。
[浅香幸雄]
『浅香幸雄著『中世の集落』(『新地理学講座 第七巻』所収・1953・朝倉書店)』▽『平沼淑郎著『近世寺院門前町の研究』(1957・早稲田大学出版部)』▽『藤本利治著『門前町』(1970・古今書院)』
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寺社の門前に発達した都市的集落・町。古代以来,大寺社の周辺には神官や僧侶が集住し,参詣者が多数往来するため人口が集中したが,中世になると,房舎や屋敷,宿泊施設,商工業者の店舗などから構成される町が発達する。神社の場合,鳥居前町ともいい,神官らが集住する社家町(京都上賀茂神社など)や御師(おし)町(現,山梨県富士吉田市など)も含まれる。中世末に発達する本願寺境内ないし門前の寺内町(じないまち)も広義の門前町だが,別に分類されることが多い。伊勢神宮の宇治山田市,多くの社寺を擁する複合的門前町としての京都・奈良・鎌倉市などがある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…もちろん本願寺所在地の大坂天満,京六条には寺内町があり,ほかにも寺内町は存続したが,内容は異なっている。【脇田 修】
[形態の変遷]
社寺の門前に,なお境内の外部へ向かって参詣者を対象にして店舗や旅宿が発達して形成された門前町とは異なり,寺内町とは,基本的には寺院を中核にして僧侶や門徒衆の居所を計画的な方格状街区に配し,その周囲を濠と土塁で囲繞し,防御的配慮の形態が施行されている都市的集落である。 寺内町の時代相と形態を粗笨的に分類すると,3形態に分かれる。…
※「門前町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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