門前町(読み)モンゼンマチ

デジタル大辞泉 「門前町」の意味・読み・例文・類語

もんぜん‐まち【門前町】

中世以降、有力な社寺の門前を中心に発達した町。神社の場合は鳥居前町ともいう。善光寺長野伊勢神宮宇治山田など。もんぜんちょう。

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精選版 日本国語大辞典 「門前町」の意味・読み・例文・類語

もんぜん‐まち【門前町】

  1. 〘 名詞 〙 中世末期以来、神社・寺院の門前に形成され、参拝人・遊覧客を対象とする宿屋や商業が発達して、それらを主たる生業とする町をいう。たとえば、善光寺のある長野市、新勝寺のある成田市など。もんぜんちょう。
    1. [初出の実例]「やがて流行神(はやりがみ)の門前町(モンゼンマチ)のやうなカラアがかれの眼に映り出して来た」(出典:一兵卒の銃殺(1917)〈田山花袋〉一六)

もんぜん‐ちょう‥チャウ【門前町】

  1. 〘 名詞 〙もんぜんまち(門前町)
    1. [初出の実例]「門前町(モンゼンテウ)御下屋敷にをかれ折ふしの御通ひ女とはなりぬ」(出典:浮世草子好色一代女(1686)五)

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日本歴史地名大系 「門前町」の解説

門前町
もんぜんまち

面積:一五七・五四平方キロ

鳳至郡の西部、能登半島の北西端に位置し、北は輪島市、東は穴水あなみず町、南は富来とぎ町に接し,西は日本海に面する。中心部をはつヶ川、南部は阿岸あぎし川と仁岸にぎし川がそれぞれ西流し、小平野を形成している。町域の大部分は山地で、南境には高爪たかつめ山、東部には高塚たかつか山、北部にはサビヤ山・番場ばんば山の山地が続き、北西部はさる山が岬を形成して海に迫っている。海岸線は約三〇キロで、最南部に泣砂のことヶ浜がある。国道二四九号が輪島市から中心部の八ヶ川流域・総持寺門前を通り道下とうげから海岸線に沿い南下し富来町に抜ける。


門前町
もんぜんちよう

[現在地名]中区さかえ三丁目・大須おおす二―三丁目・上前津かみまえづ一丁目・たちばな一丁目・門前もんぜん

熱田へ通じる南北道ほん町筋にあり、北は末広すえひろ町、南は橘町に隣接。天道てんどう町から金塚かなづか町までの八丁半、一説には五丁半をさす(尾張志)。ほかに裏門前うらもんぜん町の西側や天道町の大乗だいじよう院の門前などが、支配区域に入組む(門前町誌)。もとは日置ひおき村の地で並木の往還が続き、萱葺の家が点在していた。寛文四年(一六六四)町並に開発され、藩は官材を下付して家屋をつくらせた。担当は町奉行遠山伝十郎と小山市兵衛(金鱗九十九之塵)


門前町
もんぜんまち

[現在地名]能代市かみ

能代町の中央、東に馬口労ばくろう町、西にかん町、南に長根ながね町、北にあら町がある。曹洞宗長慶ちようけい寺の門前町。門前町は町役の負担を免除されていたので、行政町名としては使われず、明治以降も上町の一部として扱われた。

享保一三年(一七二八)能代町絵図(能代市役所蔵)に「長慶寺門前通」とあり、文化年間(一八〇四―一八)の能代町絵図(県立秋田図書館蔵)には「門前町」とある。享保一三年の能代町絵図では、長慶寺門前通の南側と寺町てらまち通の間は、西のわずかの部分に町屋があり、残りは東西五〇間、南北一二間四尺の「長慶寺門前屋舗」。


門前町
もんぜんまち

[現在地名]津市北丸之内きたまるのうち

塔世とうせ町より西に入る釜屋かなや町筋の東端の町人町。釜屋町に含まれて扱われることもあり、伊藤又五郎日記要用抜書(津市史)に「門前町・釜屋町・西ノ口出やしきを通常釜屋町と申候」とある。富田信高時代まで釜屋町の地に西来せいらい寺があり、その門前であったことによる町名という(草蔭冊子)。西来寺の寺記によれば、天正六年(一五七八)阿漕あこぎ浦より西来寺町に移り、さらに釜屋町の地に移ったが、慶長五年(一六〇〇)の津籠城戦で焼失したという(同書)。寛永一二年(一六三五)の津町祭礼関係文書(草蔭冊子)の津町三一町のなかに町名がある。寛文一〇年(一六七〇)釜屋町・門前町兼帯の町名主に弥三右衛門が任命された。


門前町
もんぜんまち

[現在地名]富山市五番町ごばんまち

五番町の東に続く南側のみの片側町。町並北側は五番町、東は黒木くろき町。当町の南にある曹洞宗光厳こうごん寺の門前町で、散地のうち。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理では光厳寺境内とされている。安永八年(一七七九)の本家数一〇・貸家数二二(「町方旧記抜書」前田家文書)。前掲旧事調理では竈数三七、男六一・女七〇。東方南角に出張番所があり、出合普請橋二。


門前町
もんぜんちよう

[現在地名]山崎町門前

山崎城下一一ヵ町の一つ。寛永八年(一六三一)に町がつくられ、初め門前村との境が不明確であったが、同一七年の松井(松平)康映の山崎入封に際して木戸が設置され、区分されるようになったという。城下西端に位置し、佐用さよ町との境をなす八幡神社門前から西の町筋にあたる。貞享五年(一六八八)の惣町中地詰帳(阿波屋文書)によると、通りの南側に一七軒、北側に一八軒の町屋があり、屋敷面積一町余、地子米八石余。享保一五年(一七三〇)・元治元年(一八六四)とも地子米六石余(山崎町史)


門前町
もんぜんちよう

下京区堀川通花屋町下ル

西本願寺のほぼ全域を含む町で、北は花屋町通(旧左女牛小路)、東は堀川通(旧堀川小路)、南は北小路通(旧北小路)、西の一部が大宮通(旧大宮大路)に囲まれる。

平安京の条坊では、左京七条二坊一保二町三町六町七町と四保一〇町西側、一一町西側の地。この地は、平安京の官設市場である東市ひがしのいちのほぼ北部域にあたる(拾芥抄)律令制度の衰退とともに市もさびれ、その後の戦乱でほとんど田野となっていた。

天正一九年(一五九一)豊臣秀吉は朱印状を発し、この地域の「南北二百八十間・東西三百六十間之内、本圀寺屋敷南北五十六間・東西百二十七間相除之」範囲を本願寺に与えた。


門前町
もんぜんちよう

[現在地名]岡崎市門前町

伝馬てんま町のやや東寄りから北裏へ随念ずいねん寺総門前まで南北に通ずる町。町の長さ一町一三間。永禄五年(一五六二)建立の随念寺領門前町で、百姓家が左右に並んでいた。徳川家康の出した慶長八年(一六〇三)の随念寺朱印状に「参河国額田郡菅生之内五十石云々」とある。


門前町
もんぜんちよう

中京区御池通神泉苑町東入

南北に通る神泉苑町しぜんえんちよう(旧櫛笥小路)東側で、北側を押小路おしこうじ(旧押小路)、南側を御池おいけ(旧三条坊門小路)が東西に通る。

平安京の条坊では左京三条一坊四保一五町の地。


門前町
もんぜんまち

2005年3月1日:鳳至郡門前町が統合し鳳珠郡門前町となる
【門前町】石川県:鳳至郡

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改訂新版 世界大百科事典 「門前町」の意味・わかりやすい解説

門前町 (もんぜんまち)

寺社の参詣者を対象として商工業者が店舗を造営し,参詣道路の両側を中心に街村状に形成された集落。神社の場合は鳥居前町ともいう。ほかに,社寺奉仕者や信仰者が門前に集落を形成した寺内(じない)町や社家(しやけ)町および御師(おし)町があり,それらを合わせて広義の門前町といえる。伊勢神宮鳥居前の伊勢(宇治山田)市(山田),善光寺の長野市,成田不動の新勝寺門前の千葉県成田市,東照宮の栃木県日光市,金刀比羅宮(ことひらぐう)のある香川県の琴平,厳島神社の宮島,出雲大社の鎮座する島根県の大社(杵築(きづき)),高野山門前の和歌山県の高野,近代の宗教都市である天理教本山の天理市などが代表的門前町である。社家町は神社に奉仕する社家が形成した集落で,京都市賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂神社)の鳥居前町がその一例である。御師町は山梨県の富士吉田,神奈川県伊勢原市の大山などがその例であり,檀家の参詣者を案内したり,宿所を提供する御師(おし)が中心となって形成した集落である。大きな門前町は地域中心的な機能を備え,現在なお都市として隆盛しているものも多い。
執筆者: 門前町はとりわけ中世では,都市の中で重要な位置を占めた。それは門前町が単に宗教関係の都市ではなく,当時社寺が社会的にも経済的にも力を有していたので,門前に商工業者が集まり,商工業都市としても発達したからである。それ以前,平安期になると大社寺の中には門前に集落を生み出すものもあったが,その後有力寺社の荘園領主化が進み,商品流通の展開ともあいまって,門前に商工業者も居住し市も立つようになった。しかし門前町が繁栄をみせるのは室町期以後とされている。すなわち商品経済が展開し,参詣者の増加をみるとともに,荘園支配の維持できなくなった寺社が市場掌握に経済的活路を求めたため,門前町の発達が促されたという。その後中世末には農村経済の発展に基づき,土居や堀で囲んだ真宗寺院を中心とする寺内町が,畿内とその周辺地域に多数出現した。寺内町は門前町の一種で,中世末の都市発達を示すものであった。

 寺内町は織豊政権によってそれまでもっていた特権を奪われ,在町的門前町として歩むことになるが,他の門前町も近江坂本(現,大津市)のように消滅させられたり,あるいは商工業者を城下町に吸収されるなどして,さびれるものも多かった。結局,近世の門前町は,陸奥塩釜(現,宮城県塩釜市)などのように港町として発展していくものや,旧寺内町や善光寺などのように在町的機能をも併せ発達していくものもみられるが,一般には商業都市としてではなく,信仰や遊楽・観光の町としての性格をもっている。平和の到来と商品経済の発達に伴い,庶民の社寺参詣の熱は時とともに高まり,近世後期には全国各地の寺社への参詣も活発化し,各地に門前町が栄えたが,地域内での信仰圏をもつにすぎぬ寺社でも,その門前に町屋を生み出すものが少なくなかった。近代に入ると,庶民の社寺参詣はいっそう遊楽的傾向を強めつつ盛んに行われ,このため門前町は観光都市的色彩を強めた。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「門前町」の意味・わかりやすい解説

門前町
もんぜんまち

寺社の門前に発達した封建集落(都市)。神社の場合は鳥居前町ということもある。中世初期の寺社は、律令(りつりょう)制の系譜を引く寺田、位田、職田(しきでん)などをもつ荘園(しょうえん)領主であり、その境域内には多くの僧侶(そうりょ)・神官を抱え、僧院や房舎が集まっていた。そしてそれらの消費生活を支えるため、近辺で蔬菜(そさい)その他の食料作物の栽培が行われ、農産加工(油、粕(かす)、飼料、そうめん、麹(こうじ)、菅笠(すげがさ)、簾(すだれ)、菰(こも)など)の手工業的生産も発達しつつあった。また市場も開かれて寺域外との商取引も行われ、「富貴ノ輩(ともがら)多ク止住シ、売買ノ道繁昌(はんじょう)ス」(『峯相記(ほうそうき)』)のようににぎわいつつあった。もともと寺社は神仏を祀(まつ)る神聖な場所で、その前で行われる売買には不正をなさないとする商道の信仰があった。中世領主たちは社寺を信仰し、社寺周辺の治安については、「国質所質(くにしちところしち)之事、喧嘩(けんか)口論之事、押売狼藉(ろうぜき)之事」はすべて禁止され、寺社門前は商取引の安全地区となり、室町末期には「楽市(らくいち)・楽座」として保護されるものもみられた。さらに郷村制の発達にともなって、庶民の寺社参拝が盛んになると、寺社門前には参詣(さんけい)者を目当てとした旅籠(はたご)(宿屋)や商店、手工業者の店が集まるようになった。とくに奈良、宇治山田、天王寺(大坂)には社寺が集中していて有力な門前町とされていた。たとえば中世の奈良では平城京のおもかげは消滅して、東大寺、春日(かすが)大社、興福寺などの大寺社の門前町として発達し、ことに興福寺は僧侶3000といわれて奈良の中核となった。中世中ごろには奈良北隅に北市、猿沢池(さるさわのいけ)の南西に南市、さらに1414年(応永21)には両市の中間に中市(今市)が開かれて、交互に毎日開市した。奈良はこれらを中心にした門前町から商業集落へと変化しつつあった。近世に入って社会が安定し、庶民の巡礼や講参りが盛んになると、門前町は遊楽観光地的性格を強めていった。宇治山田(伊勢(いせ)神宮)、杵築(きづき)(出雲(いずも)大社)、宮島(厳島(いつくしま)神社)、琴平(ことひら)(金刀比羅宮(ことひらぐう))、長野(善光寺)、成田(新勝寺)、高野山(こうやさん)(金剛峯(こんごうぶ)寺)などが知られる。それらには社寺奉仕者が集住する社家(しゃけ)町、御師(おし)町などもみられる。

[浅香幸雄]

『浅香幸雄著『中世の集落』(『新地理学講座 第七巻』所収・1953・朝倉書店)』『平沼淑郎著『近世寺院門前町の研究』(1957・早稲田大学出版部)』『藤本利治著『門前町』(1970・古今書院)』

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百科事典マイペディア 「門前町」の意味・わかりやすい解説

門前町【もんぜんまち】

中世以後,社寺の門前に発達した都市。神社の場合は鳥居前(とりいまえ)町とも呼ぶ。社寺の門前は,営業上の安全性,神官・僧侶等の消費者の集住,参詣客の往来等の理由から,市が立ち,商人の店舗や宿屋もでき,早くから都市化した。宇治,山田,大津,坂本,西大寺(備前),宮島,太宰府(だざいふ),琴平(ことひら),身延(みのぶ),善光寺などが有名。近世では成田,近代では天理など。
→関連項目観音寺外京坂本寺内町都市平野郷府中山田奉行八幡[市]八幡惣町

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「門前町」の解説

門前町
もんぜんまち

寺社の門前に発達した都市的集落・町。古代以来,大寺社の周辺には神官や僧侶が集住し,参詣者が多数往来するため人口が集中したが,中世になると,房舎や屋敷,宿泊施設,商工業者の店舗などから構成される町が発達する。神社の場合,鳥居前町ともいい,神官らが集住する社家町(京都上賀茂神社など)や御師(おし)町(現,山梨県富士吉田市など)も含まれる。中世末に発達する本願寺境内ないし門前の寺内町(じないまち)も広義の門前町だが,別に分類されることが多い。伊勢神宮の宇治山田市,多くの社寺を擁する複合的門前町としての京都・奈良・鎌倉市などがある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「門前町」の解説

門前町
もんぜんまち

主として中世以降,社寺の門前に発達した商工業町
大きな寺社には年貢の集積,神官・僧侶の需要物資も多く,かつ隷属民は農耕にしばられず社寺を本所として商人化したので,門前に市が開かれた。宗教の民衆化と参拝人の増加,宿屋・店の出現でしだいに都市化した。宇治山田・奈良・坂本・長野などがその例で,江戸時代には遊山と結び発達したものもある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「門前町」の意味・わかりやすい解説

門前町
もんぜんまち

神社,寺院の参道沿いに発達した町。社寺の祭礼,法会などで設けられた祭礼市が常設化し,それに飲食施設などが加わってできた経済集落である。奈良市,伊勢市,長野市などが好例。特に神社の場合には鳥居前町といって区別することもある。宗教都市の一つで,寺院,宿泊所,みやげ物店などが並んでいる。

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世界大百科事典(旧版)内の門前町の言及

【寺内町】より

…もちろん本願寺所在地の大坂天満,京六条には寺内町があり,ほかにも寺内町は存続したが,内容は異なっている。【脇田 修】
[形態の変遷]
 社寺の門前に,なお境内の外部へ向かって参詣者を対象にして店舗や旅宿が発達して形成された門前町とは異なり,寺内町とは,基本的には寺院を中核にして僧侶や門徒衆の居所を計画的な方格状街区に配し,その周囲を濠と土塁で囲繞し,防御的配慮の形態が施行されている都市的集落である。 寺内町の時代相と形態を粗笨的に分類すると,3形態に分かれる。…

※「門前町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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