日本歴史地名大系 「海部郡」の解説
海部郡
あまべぐん
- 大分県:豊後国
- 海部郡
かつての豊後国の南東端を占め、北は別府湾・東は豊後水道に面し、同沿岸部ではリアス海岸が発達する。西はおおむね分水嶺を境に大分郡・大野郡と接し、南は日向国であった。郡域は現在の北海部郡・
〔原始〕
臼杵川上流の臼杵市
海部郡一帯が大きな発展をみせるのは古墳時代になってからである。現大分市東部の
海部郡
かいふぐん
県南部に位置する。南東部は太平洋に臨み、ほぼ中央に牟岐町があり、東部に日和佐町・由岐町、西部に海部町・海南町・宍喰町がある。北部は
旧海部郡域は南東部は海に臨み、東部から北部にかけては那賀郡、北西部は
〔原始・古代〕
郡域で確認されている遺跡は海部川や宍喰川によって形成された海浜部の平地に多く、そのうち最古の遺物は海南町
海部郡
あまぐん
県の西南部、木曾川下流の東岸に位置し、南は伊勢湾に臨む低湿平野地帯である。慶長一三年(一六〇八)に始まる木曾川本流一本化の大築堤以前は
「和名抄」によれば海部は「阿末」と訓む。大宝令で国郡里制に改正される以前の国評里制の行政名として、藤原宮出土木簡に「海評三宅里」の記載がみられる。「海部郡」の初見は天平二年(七三〇)の尾張国正税帳(正倉院文書)である。
東の郡界は庄内川を挟んで愛知郡に接している。流路の移動で郡界も移動したであろうから、愛知郡の
海部郡
あまぐん
- 島根県:隠岐国
- 海部郡
〔古代〕
藤原宮跡出土木簡に海評とあるほかは、平城宮跡出土木簡・平城京二条大路跡出土木簡・長屋王家木簡、天平四年度の隠伎国正税帳(正倉院文書)および古代の諸記録ではいずれも海部郡とする。「和名抄」は
海部郡
あまぐん
- 和歌山県:紀伊国
- 海部郡
紀伊国北西部の海岸地域に位置し、浦浜と山地によって構成される。現和歌山市西部と海草郡
「和名抄」刊本郡部は「阿末」と訓じ、「拾芥抄」は「アマ・アマヘ」と読む。また「仲文集」は「紀の国の郡どもよめる、いと、なか、なくさ、あまり、ありた、ひたか、むろ」として、
と詠むが、一般的にはアマと読んだと思われる。郡名は、その立地環境からして、古代の漁民集団である海部の部民が多く居住したことによる。海部郡の起源を「日本書紀」欽明一七年一〇月に設置された海部屯倉に求める説(大日本地名辞書など)もあるが、その設定地ともに不明である。また郡名の初見は「続日本紀」神亀元年(七二四)一〇月八日条で、聖武天皇の紀伊国行幸に際して「至海部郡玉津嶋頓宮」とある。なお同書大宝三年(七〇三)五月九日条に「令紀伊国奈我・名草二郡、停布調献糸、但阿提・飯高・牟漏三郡献銀也」とあるが、海部郡がみえないことから、この頃まだ郡は成立していなかったとして、神亀元年以前の奈良時代初めに名草郡より分立したとする考えもある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報