甲府城下
こうふじようか
荒川の支流相川の中下流左岸に位置し、北東に愛宕山を背景とする。甲府城を取囲んで形成された城下町で、近世甲斐国の政治・経済の中心を占める。地名は府中と甲府が併用される。
〔城下の形成と武家地〕
近世甲府城下町の形成は、文禄二年(一五九三)から慶長五年(一六〇〇)に至る浅野長政・幸長父子在城時期、寛文元年(一六六一)から宝永元年(一七〇四)までの甲府家(徳川綱重・綱豊)領有期、宝永元年から享保九年(一七二四)までの甲府藩(柳沢吉保・吉里)の時期を画期としたと考えられる。浅野氏の時期には城下の基本的な構造が整えられたが、後世に示される内郭の小路(武家町)、郭外の町人地全体の成立は江戸時代初期と推定される。徳川家康の甲斐国再領後まもない慶長六―七年に代官頭大久保長安が実施した慶長検地で示されるように、甲府城下は戦国期武田氏が営んだ躑躅が崎館(武田氏館)の南方に建設されていた旧城下の一部を組込み、北端の武田氏館跡と周辺を山梨郡北山筋の古府中村として城下から離し、古柳町(のち元柳町)を北限としたが、新城下の南端は同郡中郡筋の蔵田村・東青沼村・遠光寺村と接するまでに拡大された。
南に端門(追手)、北に後門(山手)、西に柳門を配した城郭を北・西・南に囲繞する内郭(二ノ堀内)は南北に分れ、規模は南郭が東西二〇〇間・南北三〇〇間、北郭が東西三五〇間・南北五〇〇間であった(甲斐国志)。内郭の武家地から外郭の町人地へ一五ヵ所の見付をもって通ずる。追手門の正南に設けられた片羽口から西側へ穴切・新青沼・相川町・横沢町・元三日町、北に竪町・元連雀町・元城屋町、北東に愛宕町、東面は近習町・山田町・八日町・三日町・連雀町の一五口で(同書)、郭内一五口御門ともよんだ。内郭を取巻くように形成された町人地は、城郭の南東に三ノ堀で囲まれたいわゆる郭内町(土居内町)を中心に東・南・西方に建設された新城下を新府中(下府中)とし、現在のJR中央本線甲府駅のほぼ北にあたる旧城下を古府中(上府中)とよんで一体化したものであった。浅野氏による城下の造営が進められていた過程で、上水として西方を南流する荒川の水を山宮大口から湯川を通して引入れ、東方の城下へ用水堰をもって通水する普請が行われているが、これは飲用を第一としたほか防火上の必要性に基づいたものであった。
現存する最古の甲府町絵図は甲府家領有期の元禄三年(一六九〇)作成のものであるが(宝暦四年写、坂田家文書)、町人地と異なり、内郭は倉廩と厩舎などと推定される場所と外郭へ通ずる見付が示されるほかは小路の区画のみで名は記されていない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の甲府城下の言及
【甲府[市]】より
…信玄の隠し湯として知られる湯村温泉(純食塩泉,42~52℃),積翠寺(せきすいじ)温泉(酸性緑バン泉,15~18℃)のほか,市街地にも数ヵ所温泉がある。【横田 忠夫】
[甲府城下]
甲斐国の城下町。甲府は甲斐府中の略称で,そのおこりは1519年武田信虎が石和(いさわ)から館を現在の甲府市の北辺にあたる躑躅ヶ崎に移したことにあり,以後信玄,勝頼まで3代の領国経営の本拠となった。…
※「甲府城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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