徳川綱重(読み)トクガワツナシゲ

デジタル大辞泉 「徳川綱重」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐つなしげ〔トクがは‐〕【徳川綱重】

[1644~1678]江戸初期の甲府藩主。家光三男。第6代将軍家宣の父。第5代将軍に擁立の動きがあったが実現しなかった。

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精選版 日本国語大辞典 「徳川綱重」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐つなしげ【徳川綱重】

  1. 江戸初期の大名。甲府徳川家の祖。甲府城主。家光の次男。六代将軍家宣の父。幼名長松家綱養子として迎えられようとしたが、老中酒井忠清の反対にあい実現しなかった。正保元~延宝六年(一六四四‐七八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川綱重」の意味・わかりやすい解説

徳川綱重
とくがわつなしげ
(1644―1678)

江戸前期、3代将軍家光(いえみつ)の第3子。6代将軍家宣(いえのぶ)の父。母は側室藤枝(ふじえだ)氏お夏。幼時から家光の姉天樹院(千姫(せんひめ))に引き取られ養育された。家光病没直前の1651年(慶安4)4月、甲斐(かい)(山梨県)などで15万石が与えられ、江戸・桜田の屋敷に住した。61年(寛文1)には10万石の加増を受け、つごう25万石を領するに至った。官位も従四位(じゅしい)下、左馬頭(さまのかみ)、左近衛権中将(さこんえごんのちゅうじょう)から、正三位(しょうさんみ)、参議に進んだ。このような将軍家連枝(れんし)としての扱いは2歳下の弟綱吉(つなよし)と同格であり、御三家に准ずるものであった。兄4代将軍家綱(いえつな)には世嗣(せいし)がなく、綱重を擁立して将軍家の相続者としようとする運動があり、これに失敗して綱重は自殺した、とする説もあるが、事実とは思えない。

[林 亮勝]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳川綱重」の解説

徳川綱重 とくがわ-つなしげ

1644-1678 江戸時代前期の大名。
寛永21年5月24日生まれ。徳川家光(いえみつ)の3男。徳川家宣(いえのぶ)の父。寛文元年甲斐(かい)(山梨県)府中藩主徳川家初代となる。25万石。甲府宰相とよばれた。兄の4代将軍徳川家綱(いえつな)の後継者候補とされたが,大老酒井忠清(ただきよ)の反対で実現しなかったという。延宝6年9月14日死去。35歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳川綱重」の意味・わかりやすい解説

徳川綱重
とくがわつなしげ

[生]正保1(1644).5.24. 江戸
[没]延宝6(1678).9.14. 甲府
江戸時代前期の甲府藩主。甲府殿ともいう。家光の3男。母は藤枝氏。幼名は長松。寛文1 (1661) 年甲斐国 25万石を襲封。5代将軍継嗣の動きもあったが,大老酒井忠清の反対にあって実現しなかった。

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367日誕生日大事典 「徳川綱重」の解説

徳川綱重 (とくがわつなしげ)

生年月日:1644年5月24日
江戸時代前期の大名
1678年没

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世界大百科事典(旧版)内の徳川綱重の言及

【甲斐国】より

…07年幕領となって武川筋,逸見筋在住の諸士による城番制がとられたあと,16年(元和2)徳川忠長が甲府城主となったが,32年(寛永9)除封されると再び甲府城番の交代制が行われた。61年(寛文1)徳川綱重が領知高14万4000石を笛吹川以西の山梨郡と巨摩郡にあたえられると(河西領),その地の給人は他へ移され,笛吹川以東の河東は幕府直轄領と旗本給地が入り組んだ。綱重から子綱豊(のちの家宣)が将軍綱吉の養嗣子として江戸城西丸に入るまで甲府家は43年間続いた。…

※「徳川綱重」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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