江戸前期、3代将軍家光(いえみつ)の第3子。6代将軍家宣(いえのぶ)の父。母は側室藤枝(ふじえだ)氏お夏。幼時から家光の姉天樹院(千姫(せんひめ))に引き取られ養育された。家光病没直前の1651年(慶安4)4月、甲斐(かい)(山梨県)などで15万石が与えられ、江戸・桜田の屋敷に住した。61年(寛文1)には10万石の加増を受け、つごう25万石を領するに至った。官位も従四位(じゅしい)下、左馬頭(さまのかみ)、左近衛権中将(さこんえごんのちゅうじょう)から、正三位(しょうさんみ)、参議に進んだ。このような将軍家連枝(れんし)としての扱いは2歳下の弟綱吉(つなよし)と同格であり、御三家に准ずるものであった。兄4代将軍家綱(いえつな)には世嗣(せいし)がなく、綱重を擁立して将軍家の相続者としようとする運動があり、これに失敗して綱重は自殺した、とする説もあるが、事実とは思えない。
[林 亮勝]
(根岸茂夫)
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…07年幕領となって武川筋,逸見筋在住の諸士による城番制がとられたあと,16年(元和2)徳川忠長が甲府城主となったが,32年(寛永9)除封されると再び甲府城番の交代制が行われた。61年(寛文1)徳川綱重が領知高14万4000石を笛吹川以西の山梨郡と巨摩郡にあたえられると(河西領),その地の給人は他へ移され,笛吹川以東の河東は幕府直轄領と旗本給地が入り組んだ。綱重から子綱豊(のちの家宣)が将軍綱吉の養嗣子として江戸城西丸に入るまで甲府家は43年間続いた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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