朝日日本歴史人物事典 「畠山義英」の解説
畠山義英
生年:生年不詳
戦国時代の武将。基家の子。義就の孫。上総介。明応8(1499)年1月,父基家が畠山尚順に敗れて自害すると,家督を継いで河内守護となる。永正1(1504)年12月,尚順と和睦し北河内を支配するが,3年ほどで和睦は破れ堺へ脱出。翌年,足利義材(義尹,義稙)が将軍に復帰し細川高国政権が成立すると,対する細川澄元と結んで尚順に対抗した。同17年,尚順の子稙長の高屋城を攻め落とすが,澄元軍の敗北とともに吉野に落ちた。大永1(1521)年,稙長により紀伊を追われた尚順と和睦し,前将軍義稙に呼応して高屋城に稙長を攻めたが失敗。同3(1523)年には,子の義尭があとを継いでいる。
(石田晴男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報