畠山尚順(読み)はたけやま・ひさのぶ

朝日日本歴史人物事典 「畠山尚順」の解説

畠山尚順

没年:大永2.7.17(1522.8.8)
生年:文明7(1475)
戦国時代の武将。父は政長。初名尚慶。尾張守。文明18(1486)年元服,室町幕府将軍足利義尚より諱の1字をもらう。明応2(1493)年の細川政元のクーデタで父政長が河内の正覚寺に自刃し,紀伊に逃れた。のち,同じとき畠山領国の越中に逃れた前将軍足利義材(義尹,義稙)と計り河内に進出,同8年1月には畠山義就の子基家を敗死させたが,12月政元・義英(基家の子)軍に敗れ,再び紀伊に逃れた。永正1(1504)年,義英と和睦するが,同4年の政元暗殺後は和が破れ,細川高国と協力して細川澄元方の義英と戦う。翌年義材が周防より入京し再度将軍に返り咲くと,正式に家督となり越中・紀伊・河内守護となった。同12年,河内守護職を子稙長に譲り紀伊の広城に移ったが,同17年に稙長を擁立した内衆・国人らに追われ,大永1(1521)年10月には,淡路島に出奔していた将軍義稙と共に高国政権下の稙長と戦う。敗れて淡路で死去。

(石田晴男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「畠山尚順」の解説

畠山尚順 はたけやま-ひさのぶ

1475-1522 戦国時代の武将。
文明7年生まれ。畠山政長の子。足利義稙(よしたね)に呼応して畠山義豊を討つが,義豊の子義英と細川政元に敗れる。義稙が将軍に復帰すると,河内(かわち)・紀伊(きい)・越中守護となった。永正(えいしょう)17年(1520)家臣にそむかれ堺,淡路(あわじ)へのがれた。大永(たいえい)2年7月17日死去。48歳。初名は尚慶。法名は卜山。法号は勝仙院竜源。名は「なおのぶ」ともよむ。

畠山尚順 はたけやま-なおのぶ

はたけやま-ひさのぶ

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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