朝日日本歴史人物事典 「畠山尚順」の解説
畠山尚順
生年:文明7(1475)
戦国時代の武将。父は政長。初名尚慶。尾張守。文明18(1486)年元服,室町幕府将軍足利義尚より諱の1字をもらう。明応2(1493)年の細川政元のクーデタで父政長が河内の正覚寺に自刃し,紀伊に逃れた。のち,同じとき畠山領国の越中に逃れた前将軍足利義材(義尹,義稙)と計り河内に進出,同8年1月には畠山義就の子基家を敗死させたが,12月政元・義英(基家の子)軍に敗れ,再び紀伊に逃れた。永正1(1504)年,義英と和睦するが,同4年の政元暗殺後は和が破れ,細川高国と協力して細川澄元方の義英と戦う。翌年義材が周防より入京し再度将軍に返り咲くと,正式に家督となり越中・紀伊・河内守護となった。同12年,河内守護職を子稙長に譲り紀伊の広城に移ったが,同17年に稙長を擁立した内衆・国人らに追われ,大永1(1521)年10月には,淡路島に出奔していた将軍義稙と共に高国政権下の稙長と戦う。敗れて淡路で死去。
(石田晴男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報