日本歴史地名大系 「百次村」の解説 百次村ももつぎむら 鹿児島県:川内市百次村[現在地名]川内市百次町・宮崎町(みやざきちよう)山田(やまだ)郷山田村の南西にあり、南は日置郡上名(かみみよう)村(現串木野市)。西流したのち北西流する百次川流域を占める。薩摩国建久図田帳には薩摩郡のうちに火同丸(けどうまる)一四町がみえる。島津庄寄郡で、島津御庄方弁済使の支配下にあった。この火同丸は後に勧童丸・勧同丸とも書かれ、百次の地に比定される(永利郷土史)。正平一三年(一三五八)八月一二日、勧童(けどう)・永利(ながとし)両名地頭職が島津道鑑(貞久)から永利又太郎友秀に永代を限り去渡された(「島津道鑑・師久連署避状案」入来院文書)。だがその後友秀(入道祖性)は敵方につき、友秀旧領の半分が島津師久から渋谷美濃五郎左衛門尉に渡された(年未詳二月一九日「島津師久去状」同文書)。寛正三年(一四六二)三月二四日には島津立久から入来院重豊に島津庄薩摩方火同・永利・山田城が宛行われた(「島津立久知行充行状」同文書)。大永六年(一五二六)薩州家の島津実久が百次・山田を攻略し、山崎成知を百次城に入れた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by