戦国時代の武将。天文(てんぶん)2年2月9日生まれ。父は島津貴久(たかひさ)。初め忠良(ただよし)、のち将軍足利義輝(あしかがよしてる)より義の字を得て義辰(よしたつ)、さらに義久と改める。父貴久と薩摩(さつま)、大隅(おおすみ)の領国化を進め、1566年(永禄9)家督を相続した。1572年(元亀3)日向(ひゅうが)木崎原(きざきばる)で伊東(いとう)氏を大破し、1577年(天正5)伊東氏を追い出し薩隅日3か国の本貫地を戦国所領とした。続いて九州を領国にするため1578年高城(たかじょう)合戦で大友氏を討ち、1581年水俣(みなまた)城で相良(さがら)氏を破り、1584年島原合戦で龍造寺(りゅうぞうじ)氏を倒した。1586年岩屋(いわや)城で高橋氏を従わせ、九州をほぼ制圧したが、翌年豊臣(とよとみ)秀吉に降(くだ)り、剃髪(ていはつ)し、薩摩一国を安堵(あんど)された。1599年、家久(いえひさ)に家督を譲ったが引き続き家久を補佐した。戦国大名、豊臣政権下の大名の当主として諸領主を統治し、近世大名化への土台をつくった。慶長(けいちょう)16年1月21日没。79歳。墓は鹿児島市の福昌寺(ふくしょうじ)墓地にある。
[三木 靖]
『山本正誼編『島津国史』(1972・鹿児島県地方史学会)』
戦国時代の武将。戦国大名島津貴久の長男。幼名虎寿丸。三郎左衛門尉,修理大夫。法名貫明,竜伯。1566年(永禄9)家督を受けつぎ戦国大名として領国の拡大に活躍。初陣は1555年(弘治1)大隅帖佐攻め。69年北薩の雄菱刈氏を倒し,72年(元亀3)木崎原合戦で日向伊東氏を破り,74年(天正2)大隅の最大の領主肝付(きもつき)氏を降伏させ,また同年北薩の入来院(いりきいん)氏に所領を返上させ,薩摩,大隅,日向という守護大名以来の根本所領を回復した。その後九州を領国化すべく78年耳川の戦で大友氏を下し,84年島原合戦で竜造寺氏を下し,86年筑前を従えたが豊臣秀吉に敗れ87年川内泰平寺で秀吉に降伏,薩摩国などを安堵された。《島津国史》は以後弟の義弘に家督を譲ったとしている。95年(文禄4)大隅富隈城のち国分舞鶴城に引退。古今伝授を受けるなどの素養もあった。
執筆者:三木 靖
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(福島金治)
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1533.2.9~1611.1.21
織豊期~江戸初期の武将。島津家16代当主。薩摩国生れ。島津貴久の嫡男。初名又三郎忠良,のち義辰。修理大夫。1578年(天正6)薩摩・大隅・日向3カ国を平定し,ひき続き九州統一を進めたが,87年5月8日,豊臣秀吉に降伏。89年9月琉球国王尚寧(しょうねい)の使僧天竜寺桃庵を京都に同行。92年(文禄元)1月19日,秀吉から琉球を軍役負担の与力としてつけられた。
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…島津氏は1578年大友氏を下して以降,その勢力を肥後,肥前,筑後に及ぼし九州を手中にする勢力に拡大した。その報を聞き,全国統一を画していた秀吉は,85年10月,勅を奉じて島津義久を諭し,大友氏と和を図らせる停戦令を出したが,島津氏は〈秀吉は由来なき仁,返書は笑止〉として応諾しなかったばかりか,島津氏の行動を正当とし,対決姿勢を示した。秀吉は翌86年3月,九州国分(くにわけ)策として肥後半国と筑後を大友氏に,肥前1国を毛利氏に,筑前は京都より知行,それ以外は島津氏領国にすると提案するとともに,大友氏の島津氏征服の強い要請により,毛利氏に軍事動員を指示して,島津氏からの返書を待った。…
…旧国名。薩州。鹿児島県西半部。
【古代】
西海道に属する中国(《延喜式》)。大隅国と同じく日向国より分出し,合わせて南九州の三国,奥三州などと呼ばれた。《日本書紀》白雉4年(653)7月条に〈薩麻之曲竹島之間〉とみえ,《続日本紀》大宝2年(702)8月条に薩摩・多褹(たね)を征討し,戸を校(かんが)え吏を置く,10月条に唱更(はやひと)国司の言上で国内の要害に柵を建て兵を置くとあり,その説明に唱更国とは今の薩摩国府なりとあることから,このころ薩摩国は日向国より分出設置されたと思われる。…
…鎌倉時代から江戸時代まで南九州を領有した有力な大名。惟宗姓。のち藤原姓から源姓を名のるに至る。系図では初代忠久を源頼朝庶子,惟宗広言養子とするが,近衛家家司惟宗氏の出で京都から鎌倉に移り頼朝より厚遇をうけたものであろう。1185年(文治1)島津荘下司となり,翌年地頭に補任され,97年(建久8)には薩摩・大隅両国の家人奉行人(守護)に任命された。日向国についても同様であったらしい。1203年(建仁3)比企氏の乱で三国の守護・地頭職を失ったが,薩摩分のみはまもなく回復した。…
※「島津義久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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