島津義久(読み)シマヅヨシヒサ

デジタル大辞泉 「島津義久」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐よしひさ【島津義久】

[1533~1611]安土桃山時代の武将。薩摩さつまの人。貴久の子。法号、竜伯。薩摩・大隅おおすみ日向ひゅうがの3国を領し、さらに諸大名を破ってほとんど九州全土を統一支配。豊臣秀吉九州征伐で降伏。

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精選版 日本国語大辞典 「島津義久」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐よしひさ【島津義久】

  1. 安土桃山・江戸初期の武将。貴久(たかひさ)の長男。号は龍伯。相良、秋月、有馬らの諸氏を倒して九州全域をほとんどその勢力下においたが、のち秀吉に降伏し、以後、薩摩・大隅などを領した。天文二~慶長一六年(一五三三‐一六一一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島津義久」の意味・わかりやすい解説

島津義久
しまづよしひさ
(1533―1611)

戦国時代の武将。天文(てんぶん)2年2月9日生まれ。父は島津貴久(たかひさ)。初め忠良(ただよし)、のち将軍足利義輝(あしかがよしてる)より義の字を得て義辰(よしたつ)、さらに義久と改める。父貴久と薩摩(さつま)、大隅(おおすみ)の領国化を進め、1566年(永禄9)家督を相続した。1572年(元亀3)日向(ひゅうが)木崎原(きざきばる)で伊東(いとう)氏を大破し、1577年(天正5)伊東氏を追い出し薩隅日3か国の本貫地を戦国所領とした。続いて九州を領国にするため1578年高城(たかじょう)合戦で大友氏を討ち、1581年水俣(みなまた)城で相良(さがら)氏を破り、1584年島原合戦で龍造寺(りゅうぞうじ)氏を倒した。1586年岩屋(いわや)城で高橋氏を従わせ、九州をほぼ制圧したが、翌年豊臣(とよとみ)秀吉に降(くだ)り、剃髪(ていはつ)し、薩摩一国を安堵(あんど)された。1599年、家久(いえひさ)に家督を譲ったが引き続き家久を補佐した。戦国大名、豊臣政権下の大名の当主として諸領主を統治し、近世大名化への土台をつくった。慶長(けいちょう)16年1月21日没。79歳。墓は鹿児島市福昌寺(ふくしょうじ)墓地にある。

三木 靖]

『山本正誼編『島津国史』(1972・鹿児島県地方史学会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「島津義久」の意味・わかりやすい解説

島津義久 (しまづよしひさ)
生没年:1533-1611(天文2-慶長16)

戦国時代の武将。戦国大名島津貴久の長男。幼名虎寿丸。三郎左衛門尉,修理大夫。法名貫明,竜伯。1566年(永禄9)家督を受けつぎ戦国大名として領国の拡大に活躍。初陣は1555年(弘治1)大隅帖佐攻め。69年北薩の雄菱刈氏を倒し,72年(元亀3)木崎原合戦で日向伊東氏を破り,74年(天正2)大隅の最大の領主肝付(きもつき)氏を降伏させ,また同年北薩の入来院(いりきいん)氏に所領を返上させ,薩摩,大隅,日向という守護大名以来の根本所領を回復した。その後九州を領国化すべく78年耳川の戦で大友氏を下し,84年島原合戦で竜造寺氏を下し,86年筑前を従えたが豊臣秀吉に敗れ87年川内泰平寺で秀吉に降伏,薩摩国などを安堵された。《島津国史》は以後弟の義弘に家督を譲ったとしている。95年(文禄4)大隅富隈城のち国分舞鶴城に引退。古今伝授を受けるなどの素養もあった。
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朝日日本歴史人物事典 「島津義久」の解説

島津義久

没年:慶長16.1.21(1611.3.5)
生年:天文2(1533)
安土桃山時代の南九州の大名。貴久の嫡子。修理大夫。初名は忠良。将軍足利義輝から諱の1字をもらい義辰と名乗り,近衛家を通して修理大夫の官を獲得し,永禄9(1566)年家督を継承した。その後,薩摩(鹿児島県)北部の菱刈氏を破り薩摩国を分国化し,大隅国(鹿児島県)の伊地知・肝付氏を破り同国も分国に加えた。天正5(1577)年には伊東氏を日向国(宮崎県)から追放し,翌年豊後(大分県)大友氏を日向耳川に下し,南九州3国を領する大名となった。こののち,イエズス会との間で鹿児島に司祭館を建設し直轄貿易港山川で南蛮貿易を行う計画を進めたが,肥前(佐賀県,長崎県)竜造寺氏を倒し北九州への影響力行使が可能になると計画は中止された。天正15年,豊臣秀吉の九州平定に屈し,出家して竜伯と号した。文禄1(1592)年の朝鮮出兵には,弟義弘らを派遣し,自身は鹿児島にとどまり寺社領の没収など,中世的な知行体制を近世に移行させる前段の作業を行った。男子がなく,家督には義弘の子久保を指名。久保が朝鮮で没したのちは忠恒を家督に据えて隠居したが,義弘と共に生涯「両殿」として影響力を行使した。<参考文献>『鹿児島県史』,福島金治『戦国大名島津氏の領国形成』

(福島金治)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島津義久」の意味・わかりやすい解説

島津義久
しまづよしひさ

[生]天文2(1533).2.9. 鹿児島
[没]慶長16(1611).1.21. 大隅,富隈
戦国~安土桃山時代の武将。島津貴久の長男。幼名は虎寿丸,通称は又三郎。忠良,義辰と称した。永禄9 (1566) 年,薩摩国大隅国日向国の3国の守護となり,天正5 (1577) 年日向の伊東氏を討伐して領内を鎮定。北上して相良氏龍造寺氏大友氏らを圧倒し,ほぼ九州全域を統一。同 15年,豊臣秀吉の征伐に敗れたが許され,文禄の役 (→文禄・慶長の役 ) に尽力。

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百科事典マイペディア 「島津義久」の意味・わかりやすい解説

島津義久【しまづよしひさ】

戦国時代の武将。島津氏16代の当主。貴久(たかひさ)の長子。1566年家督を継ぎ,日向(ひゅうが)の伊東氏を追い,豊後(ぶんご)の大友氏を破り,相良(さがら),秋月,竜造寺,有馬氏らを降伏させ,ほぼ九州全土を平定した。1587年豊臣秀吉の九州征伐によって敗れ,家督を弟義弘に譲り出家し竜伯と号した。→耳川の戦
→関連項目種子島時尭

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島津義久」の解説

島津義久 しまづ-よしひさ

1533-1611 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)2年生まれ。島津貴久(たかひさ)の長男。島津氏16代。永禄(えいろく)9年(1566)家督をつぐ。弟義弘とともに伊東義祐(よしすけ),竜造寺隆信(たかのぶ),大友義統(よしむね)を破り,ほぼ九州全域を平定。天正(てんしょう)15年豊臣秀吉に敗れたが,薩摩領有はゆるされた。文禄(ぶんろく)の役には義弘を朝鮮に派遣し,自分は太閤(たいこう)検地などへの対応にあたった。慶長16年1月21日死去。79歳。初名は忠良,義辰(よしとき)。通称は又三郎。号は竜伯。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「島津義久」の解説

島津義久
しまづよしひさ

1533.2.9~1611.1.21

織豊期~江戸初期の武将。島津家16代当主。薩摩国生れ。島津貴久の嫡男。初名又三郎忠良,のち義辰。修理大夫。1578年(天正6)薩摩・大隅・日向3カ国を平定し,ひき続き九州統一を進めたが,87年5月8日,豊臣秀吉に降伏。89年9月琉球国王尚寧(しょうねい)の使僧天竜寺桃庵を京都に同行。92年(文禄元)1月19日,秀吉から琉球を軍役負担の与力としてつけられた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「島津義久」の解説

島津義久
しまづよしひさ

1533〜1611
安土桃山〜江戸時代初期の武将
島津貴久の長男。南九州の薩摩・大隅・日向で勢力を固め,豊後(大分県)の大友氏,肥前(佐賀・長崎県)の竜造寺氏・有馬氏,肥後(熊本県)の阿蘇氏・相良氏などを降し,1586年までに全九州を平定。翌年豊臣秀吉に降伏した。

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世界大百科事典(旧版)内の島津義久の言及

【九州征伐】より

…島津氏は1578年大友氏を下して以降,その勢力を肥後,肥前,筑後に及ぼし九州を手中にする勢力に拡大した。その報を聞き,全国統一を画していた秀吉は,85年10月,勅を奉じて島津義久を諭し,大友氏と和を図らせる停戦令を出したが,島津氏は〈秀吉は由来なき仁,返書は笑止〉として応諾しなかったばかりか,島津氏の行動を正当とし,対決姿勢を示した。秀吉は翌86年3月,九州国分(くにわけ)策として肥後半国と筑後を大友氏に,肥前1国を毛利氏に,筑前は京都より知行,それ以外は島津氏領国にすると提案するとともに,大友氏の島津氏征服の強い要請により,毛利氏に軍事動員を指示して,島津氏からの返書を待った。…

【薩摩国】より

…旧国名。薩州。鹿児島県西半部。
【古代】
 西海道に属する中国(《延喜式》)。大隅国と同じく日向国より分出し,合わせて南九州の三国,奥三州などと呼ばれた。《日本書紀》白雉4年(653)7月条に〈薩麻之曲竹島之間〉とみえ,《続日本紀》大宝2年(702)8月条に薩摩・多褹(たね)を征討し,戸を校(かんが)え吏を置く,10月条に唱更(はやひと)国司の言上で国内の要害に柵を建て兵を置くとあり,その説明に唱更国とは今の薩摩国府なりとあることから,このころ薩摩国は日向国より分出設置されたと思われる。…

【島津氏】より

…鎌倉時代から江戸時代まで南九州を領有した有力な大名。惟宗姓。のち藤原姓から源姓を名のるに至る。系図では初代忠久を源頼朝庶子,惟宗広言養子とするが,近衛家家司惟宗氏の出で京都から鎌倉に移り頼朝より厚遇をうけたものであろう。1185年(文治1)島津荘下司となり,翌年地頭に補任され,97年(建久8)には薩摩・大隅両国の家人奉行人(守護)に任命された。日向国についても同様であったらしい。1203年(建仁3)比企氏の乱で三国の守護・地頭職を失ったが,薩摩分のみはまもなく回復した。…

※「島津義久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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