朝日日本歴史人物事典 「益富又左衛門」の解説
益富又左衛門(初代)
江戸中期,肥前生月島(長崎県)の捕鯨家。本姓山県,名は正勝。平戸鏡山に住して畳を商い,畳屋を屋号とした。地元の酒造業者田中長太夫と鮪網共同経営を始め,享保10(1725)年秋,合資で生月島館浦の鯨突組を興業。田中はまもなく撤退,以後単独で壱岐,五島,大村などへ事業を拡張し,同18年には突取法から網絡法へ漁法を転換させた。各地に一家のものを配置し,一時は総捕獲数年間200頭,従事者4000人におよんだという。藩への15万2000両余もの多額の献金や海岸埋め立て,防波堤の築立,各地の新田開発にも尽力,この功績によって益富の姓を下賜,藩士(175石)に列せられた。4代又左衛門(正真,山県二之助)は蝦夷地開発をめざす江戸幕府の命で,寛政12(1800)年択捉島捕鯨の可能性を調査した。『勇魚取絵詞』(1829跋)は5代又左衛門正弘のころの,御崎浦での捕鯨事業を図説したものである。<参考文献>大林雅也『大日本産業事蹟』,服部一馬「幕末期蝦夷地における捕鯨業の企画について」(『横浜大学論叢』5巻2号)
(田島佳也)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報