石灰庄
いしはいのしよう
現多賀町河内から芹川中流の中川原辺りまでを庄域としたと思われる古代からの庄園。河内には鍾乳洞があり、古くから当地方では石灰を産出していたための庄名と思われる。江戸時代には八重練・久徳辺りの特産物に石灰がある。承安三年(一一七三)九月二〇日の八条院庁下文案(白河本東寺百合文書)によれば、「近江国 石灰庄」など一六ヵ所が八条院から興善院(現京都市東山区)に寄進されている。嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録(竹内文平氏旧蔵文書)に石灰新庄がみえる。元徳二年(一三三〇)頃と思われる敏満寺僧・同寺庄地頭代申詞記(胡宮神社文書)によれば、敏満寺は石灰庄と甲良庄(現甲良町)の境界に位置し、「両庄兼行之寺」であると記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 