日本歴史地名大系 「多賀町」の解説 多賀町たがちよう 滋賀県:犬上郡多賀町面積:一三五・九三平方キロ犬上郡東部にあり、霊仙(りようぜん)山から鈴鹿山脈にかけての山山から流れ出る芹(せり)川・犬上川に沿って集落が開ける。犬上川を挟んで西は甲良(こうら)町、北西部は彦根市、東は岐阜県養老(ようろう)郡上石津(かみいしづ)町・三重県員弁(いなべ)郡藤原(ふじわら)町、南は神崎郡永源寺町、愛知(えち)郡愛東(あいとう)町・湖東(ことう)町・秦荘(はたしよう)町に接する。町西部を名神高速道路・国道三〇七号が通り、東西に国道三〇六号が走る。古代には田可(たか)郷・火田(ひた)郷があった。「延喜式」神名帳には多賀神社とその境内社の日向(ひゆうが)神社の名があり、この頃敏満(びんまん)寺も創建されたらしい。 多賀町たがまち 埼玉県:川越市川越城下多賀町[現在地名]川越市幸町(さいわいちよう)・大手町(おおてまち)江戸(えど)町の通り(川越街道)と南(みなみ)町の通りを結ぶ東西の横道に沿う両側町。北裏は本(ほん)町・南裏は志義(しぎ)町。城下一〇ヵ町のうち当町と鍛冶(かじ)町・志義町・上松江(かみまつえ)町・志多(した)町を下五ヵ町と称した。桶作職人が開いたので箍(たが)町と名付けられ、のち字を改めたといい、古くから桶大工役銭を出し、その他の諸役は免除されていた(風土記稿)。一七世紀後半頃の川越城図に「タカ町」とみえ、両側とも町屋である。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では多賀町とみえ、町の長さ五八間、家数一三・店数一七、男七三・女五一。宝永二年(一七〇五)の川越惣町中御伝馬小役御国役帳によれば南側一〇名(うち名主勘次郎は免除)、北側四名で、桶大工丸役三・半役七・大工丸役二の計八軒半の国役を負担した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「多賀町」の意味・わかりやすい解説 多賀〔町〕たが 滋賀県東部,芹川,犬上川の上・中流域にある町。 1941年多賀,久徳,芹谷の3村が合併して町制。 55年脇ヶ畑村と大滝村も合体して現町制。中心集落の多賀は,イザナギノミコト,イザナミノミコトをまつる多賀大社 (延寿の神) の門前町として発展。町域の約 80%は山地。芹川の沖積平野では米作が主であるが,70年以後ビール醸造,タイヤバルブの工場が立地。芹川上流の河内の風穴 (石灰洞) などカルスト地形があり,石灰石を利用してセメント工業が行われる。多賀大社奥書院庭園,胡宮神社社務所庭園はともに名勝。町域西部を名神高速道路が縦断,国道 306号線が中央部を横断する。面積 135.77km2。人口 7274(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by