日本歴史地名大系 「稲山保」の解説
稲山保
いなやまほ
観応三年(一三五二)六月二〇日の足利尊氏下文写(諸家文書纂)に「稲山保」とみえ、保内の平井孫三郎跡の地頭職が勲功の賞として羽仁弥八信家に宛行われた。このことは七月二三日の管領施行状によって甲斐守護に伝えられ、八月五日には守護武田陸奥守信武が守護代武田弾正少弼(信武の子信明か)に対し、信家への土地引渡しを行うよう命じている(「武田信武施行状写」同書)。南北朝の争乱のなかで、南朝方の平井孫三郎の所領が没収され、羽仁信家に与えられたのであろう。守護代は同年一一月一六日二名の遵行使を派遣したが、平井弥三郎・市川弥平次らに押領されていて新地頭への引渡しがなされなかったため、文和三年(一三五四)二月に信家は早期引渡しを求めて再度の訴えを行い(「羽仁信家申状写」同書)、武田信武は改めて守護代に対し、下地の遵行を命じているが(同年四月三日「武田信武施行状写」同書)、その結果は不明である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報