立花実山(読み)たちばなじつざん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「立花実山」の意味・わかりやすい解説

立花実山
たちばなじつざん
(1655―1708)

江戸中期武士、茶人。筑前(ちくぜん)福岡藩家老立花重種の子。宗有、而生斎とも号す。8歳のときから藩主黒田光之(みつゆき)に仕えて重用され、嗣子(しし)綱之を廃してその弟綱政(つなまさ)を擁立、隠居付きの家老として権勢を振るった。しかし綱政の嫌うところとなり、光之の没した翌1708年(宝永5)6月、鯰田(なまずだ)(福岡県飯塚(いいづか)市)に流謫(るたく)され、半年後の11月、配所で殺された。この間に書き留めた日記が『梵字艸(ぼんじそう)』三巻(ほかに無記入一冊)で、獄中での生活を伝える。また二度にわたって入手したという『南方録(なんぽうろく)』は、千利休(せんのりきゅう)の言行を弟子である堺(さかい)南宗寺(なんしゅうじ)集雲庵(あん)の南坊宗啓(なんぼうそうけい)が書き留めたものというが、実山が新しい流派をおこすために、同僚の衣裴了義(えびりょうぎ)や弟の立花寧拙らと謀り、諸記録をもとにつくった偽書と考えられる。著書に、『南方録』を入手した経緯を述べる『岐路弁疑(ぎろべんぎ)』のほか、『壺中炉談(こちゅうろだん)』『喫茶又録(ゆうろく)』などがある。墓は実山の創建した東林寺にある。

[村井康彦]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「立花実山」の解説

立花実山

没年:宝永5.11.10(1708.12.21)
生年:明暦1(1655)
江戸初期の筑前国(福岡県)黒田家の重臣。平左衛門重種の次男として福岡に生まれる。名は重根,通称五郎左衛門,法名宗有,来也堂。実山は道号。父は1万5000石の高禄で,黒田姓を許されていた。千利休の侘び茶を理論的に叙述する大著『南方録』(7巻,1690年以降成立)の成立に深く関与し,実質的な編著者と目される。8歳で主君黒田光之に近侍し,53歳まで勤続したが,光之没後の御家騒動にまきこまれて牢居ののち暗殺された。和歌を中院通茂に学んで文才あり,禅は曹洞宗卍山道白に親接し博多に東林寺を創建した。獄中記『梵字艸』,茶書『岐路弁疑』『壺中炉談』,地誌『紅帆草』などの著作がある。墓塔が東林寺にある。<参考文献>熊倉功夫『南方録を読む』,戸田勝久『南方録の展開

(戸田勝久)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「立花実山」の解説

立花実山 たちばな-じつざん

1655-1708 江戸時代前期-中期の武士,茶人。
明暦元年生まれ。筑前(ちくぜん)福岡藩家老。藩主黒田光之(みつゆき)につかえ権勢をふるったが,光之死後の宝永5年藩主綱政により幽閉され,11月10日暗殺された。54歳。千利休の言行録とされる「南坊録」を編集し,南坊流をひらいた。名は重根。通称は五郎左衛門。別号に宗有,而生斎など。著作に「壺中炉談」「岐路弁疑」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の立花実山の言及

【南方録】より

…現代の茶道界で最も重要視される茶書であるが,その成立には種々の疑問がある。まず《南方録》とその発見者とされる立花実山(1656‐1708)の記すところに従って,その成立過程を述べよう。堺の南宗寺の塔頭,集雲庵住持南坊宗啓(生没年不詳)は,わび茶の大成者千利休に近侍し,見聞する利休の言動や秘伝,茶会を克明に記録し,1巻まとまるごとに利休の検閲をうけて秘伝書6巻を書いた。…

※「立花実山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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