紫波郡(読み)しわぐん

日本歴史地名大系 「紫波郡」の解説

紫波郡
しわぐん

面積:三九七・一二平方キロ
紫波町矢巾やはば町・都南となん

県の内陸部ほぼ中央に位置し、北から東にかけ盛岡市、南東から南は稗貫ひえぬき郡、西は岩手郡に接する。近世の当郡は東・北・西の三方が岩手郡、南が稗貫郡に接した。近代に入り北の一部が南岩手郡に編入されたのみで、近世の郡域とほとんど変化はない。中央やや東寄りを北上川が南流する。西端の奥羽山脈の低位山地には南昌なんしよう山・東根あずまね山・須賀倉すがくら山などが連なり、その東麓には北上川の支流滝名たきな川・五内ごない川・宮手みやで川・沢内さわうち川・平沢ひらさわ川など東流する小河川によって開析された上位段丘・中位段丘・下位段丘が発達している。東端には北上高地のおに山・権現ごんげん山などが連なり、その西麓は北上川支流の乙部おとべ川・天王てんのう川・赤沢あかざわ川・佐比内さひない川が形成した河岸丘陵および北上川東岸の河岸低地からなる。中央をJR東北本線・東北新幹線が南北に貫き、北上川右岸を国道四号(旧奥州街道)、左岸を国道三九六号(旧遠野街道)が通る。また西寄りを東北自動車道が走る。

「日本後紀」弘仁二年(八一一)一月一一日条に「斯波」郡とみえ、このとき建置された。「続日本紀」宝亀七年(七七六)五月二日条にみえる出羽国「志波村」は当地方にかかわると考えられ、延暦年間(七八二―八〇六)には子波・斯波などの表記で地名がみえる(続日本紀・日本後紀)。中世には斯波の表記が多いが、近世の郷帳類では志和とみえることがほとんどで、近代に入り紫波の表記に固定した。

〔原始〕

考古遺跡は段丘上や河岸丘陵上に存在し、河岸低地には奈良時代以降の遺跡が多い。現在のところ旧石器時代および縄文時代草創期の遺跡・遺物は発見されていない。縄文時代早期では紫波町宮手遺跡から住居跡一棟と尖底深鉢土器・石鏃・石匙が発見され、矢巾町大渡野おおわたりの遺跡からはファイヤーピットと尖底深鉢土器・石鏃などが発見されている。前期では紫波町すぎうえII遺跡、都南村湯沢ゆざわ遺跡がある。湯沢遺跡は中期初頭の竪穴住居跡八棟が段丘先端部分を占地し、集落を形成している。中期になると湯沢遺跡、紫波町西田にしだ遺跡・大明神だいみようじん遺跡など注目される遺跡が出現する。湯沢遺跡は中期中葉から末葉および後期初頭にかけての大集落跡で、竪穴住居跡・フラスコピット・落し穴状遺構が多数検出され、住居跡とフラスコピット、竪穴住居跡と落し穴状遺構との関係などについて多くの資料を提供した。西田遺跡は墓域を中心とした遺跡で、遺跡の中心部に円形状に配された墓壙があり、それを大型柱穴群が取巻き、その外側を住居跡群、その南外側にフラスコピット群が位置する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報