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出羽国 でわのくに

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

出羽国
でわのくに

現在の山形県と秋田県。東山道の一国。上国。東北地方大和朝廷の支配が最も遅く及んだ地方で,蝦夷地とされた。斉明4 (658) 年には阿倍比羅夫が征討の軍を進め,しだいに開拓が進められた。

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デジタル大辞泉の解説

でわ‐の‐くに〔では‐〕【出羽国】

出羽

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百科事典マイペディアの解説

出羽国【でわのくに】

旧国名。羽州とも。東山道の一国。現在の山形・秋田2県。712年,越後(えちご)国出羽郡が独立して建置。さらに陸奥(むつ)国から2郡を加えられた。出羽柵,次いで秋田城がおかれた。
→関連項目秋田[県]羽後国羽前国奥羽大泉荘質地騒動東北地方陸奥将軍府山形[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

でわのくに【出羽国】

現在の山形県秋田県を占めた旧国名。古く蝦夷(えみし)に備えて出羽柵(でわのさく)、秋田城が設置された。律令(りつりょう)制下で東山道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は秋田城からのちに現在の酒田市城輪(きのわ)に移され、国分寺は鶴岡市におかれていたと推測される。11世紀後半の前九年(ぜんくねん)の役(えき)後三年(ごさんねん)の役後、奥州藤原(おうしゅうふじわら)氏が支配。鎌倉時代から室町時代を通じて守護はおかれず、戦国時代に最上(もがみ)氏、小野寺氏、秋田氏などが抗争を繰り広げた。江戸時代に米沢(よねざわ)は上杉氏、鶴岡は酒井氏、秋田は佐竹氏が領有、他に小藩がおかれ、幕末に至った。1868年(明治1)に羽前(うぜん)国、羽後(うご)国に分けられ、1871年(明治4)の廃藩置県ののち、同年に現在の秋田県、1876年(明治9)に現在の山形県が成立した。◇羽州(うしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

でわのくに【出羽国】

旧国名。羽州。現在の山形,秋田両県。
【古代】
 東山道に属する上国(《延喜式》)。北から東,南東部まで陸奥国に接し,陸奥国とともに奥羽(おうう)と総称され両国の一体関係は強かった。政治的には721年(養老5)以来陸奥按察使(むつのあぜち)の統轄下に属し,軍制上も陸奥多賀(たが)城のちには胆沢(いさわ)城に置かれた鎮守府の指揮下にあった。この地方が史上最初にあらわれるのは,658年(斉明4)越(こし)の国守阿倍比羅夫(あべのひらふ)の北航に際し齶田(あきた∥あいた),渟代(ぬしろ)に郡(評)(こおり)を置いたという《日本書紀》の記事である。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

出羽国
でわのくに

現在の山形県と、鹿角(かづの)市・小坂(こさか)町を除く秋田県全域にあたる地域の旧国名。東山道(とうさんどう)に属する。出羽の名称は、708年(和銅1)『続日本紀(しょくにほんぎ)』に越後(えちご)国(新潟県)の北に出羽(いでは)郡を新設したとあるのが初見で、翌年、諸国に出羽柵(いではのき)に兵器を送ることを命じている。出羽柵がどこに置かれたかは明らかではないが、山形庄内(しょうない)地方であったことは確かとみられる。このように8世紀初頭には、しだいに越後北部から中央の政治勢力がこの地に及んでいきつつあった。こうして712年出羽国が設置された。このとき、陸奥(むつ)国の最上(もがみ)・置賜(おいたみ)の2郡(現山形県)を出羽国に編入し、先に設けられた出羽郡とあわせて3郡で一国を構成した。範囲は、ほぼ現在の山形県全域にあたるものとみられる。721年(養老5)出羽国は陸奥の按察使(あぜち)の支配下に置かれ、東山道の管下に入った。按察使は奥羽両国の国司を監督するのを任としたから、このことは、この時期、東から奥羽山脈越えに内陸へ進む開発・経営と、越後方面から北進するそれとを、強力に推進する意図の表れとみられる。733年(天平5)雄勝(おがち)郡が新置され、同年、出羽柵が秋田高清水(たかしみず)村(秋田市)に移ったとされているが、国府はすぐに移らず、従来の地にとどまったとみられるなど、この間の事情については確かではない。759年(天平宝字3)雄勝柵(位置不明)を拡充して雄勝城がつくられ、同年、雄勝郡北部を割いて、平鹿(ひらか)郡が設置された。こうして8世紀中期から後期にかけては、現在の秋田県の地にも急速に中央の勢力が及んでいった。8世紀中期に、各国ごとに国分寺が建立されたが、出羽国の国分寺の所在地は、山形県鶴岡(つるおか)市平形(ひらかた)の国分の地ではないかと推測されている。
 古代律令(りつりょう)制下の出羽国は11郡58郷で、ほぼ現在の山形県域に属する最上(もがみ)、村山、置賜、飽海(あくみ)、田川、出羽(いでは)の6郡と、ほぼ現秋田県域に入る雄勝、平鹿、山本(のち仙北(せんぼく))、河辺(かわべ)、秋田の5郡であった。このうち飽海郡が現秋田県南西部の由利地方南部の地に及んでいたことが注目される。秋田郡は804年(延暦23)新たに秋田河(現雄物(おもの)川)以北の地に設置され、田川・飽海の2郡はその設置年代が不明であるなど、その行政区画の変遷については明らかではない。
 鎌倉時代、出羽国には守護は置かれなかった。地頭(じとう)は各地に置かれ、現山形の地は一部の国衙(こくが)領を除いては、中世までにその大半の地は荘園(しょうえん)化した。秋田の地は資料に乏しく、その確かな動向は戦国期まで明らかではない。鎌倉中期以降、幕府の重臣が相次いで出羽守(かみ)に任じられ、出羽は幕府の知行(ちぎょう)国化したものとみられる。この間、平安期までに成立したとみられる出羽三山の羽黒修験(はぐろしゅげん)など、注目すべき動きもみられた。南北朝時代から、この地に入った最上氏がしだいに勢力を伸ばしていった。戦国時代にはさらに、庄内に武藤氏、秋田の地に小野寺、戸沢、浅利(あさり)、安東(あんどう)などの豪族が輩出して抗争を繰り広げた。江戸時代初期、会津から米沢(よねざわ)への上杉氏、常陸(ひたち)から秋田への佐竹氏の転封、さらに最上氏の改易に伴う庄内への酒井氏の入部など、出羽の地もその支配には大きな変動があった。1647年(正保4)の「出羽国知行高帳」によれば、出羽国は、本田惣高(そうだか)95万1523石4斗7升6合で、うち田方79万4694石3斗6升4合、畑方13万9324石1斗5升1合、寺社領1万7504石9斗6升1合で、その村数1836か村となっている。新田惣高17万2871石4斗1升7合で、その村数277か村とあり、代官領、寺社領、各大名領などあわせて14の支配に分かれていた。国内の産物では、庄内米、最上紅花(べにばな)、米沢絹、秋田杉、院内(いんない)鉱山の銀、阿仁鉱山の銅などが著名であった。
 明治維新後の1868年(明治1)に、出羽国は羽前(うぜん)・羽後の二国に分離された。71年の廃藩置県時には12県となり、同年11月に現在の秋田県、76年8月に現在の山形県が成立した。[高橋秀夫]
『『秋田県史』全16巻(1960~67・秋田県) ▽『山形県史』全5巻(1960~62・山形県)』

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