出羽国(読み)デワノクニ

デジタル大辞泉 「出羽国」の意味・読み・例文・類語

でわ‐の‐くに〔では‐〕【出羽国】

出羽

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日本歴史地名大系 「出羽国」の解説

出羽国(羽後国)
でわのくに(うごのくに)

出羽の名は「続日本紀」和銅元年(七〇八)九月二八日条に「越後国言、新建出羽郡、許之」とみえるのが初見で、越後国の申請を受けて新たに越後国の北部に出羽郡を置いたと記す。同二年七月一日条には「令諸国運送兵器於出羽柵、為蝦狄也」とあり、軍事基地として出羽柵でわのきがすでに機能している様子を伝える。同五年九月二三日条に「太政官議奏曰、建国辟疆、武功所貴、設官撫民、文教所崇、其北道蝦狄、遠憑阻険、実縦狂心、屡驚辺境、自官軍雷撃、凶賊霧消、狄部晏然、皇民無擾誠望便乗時機、遂置一国、式樹司宰、永鎮百姓、奏可之、於是始置出羽国」とあり、北方経営の一環として出羽国が設置され、同年一〇月一日条にはさらに「割陸奥国最上置賜二郡、隷出羽国焉」とあり、直ちに最上・置賜二郡(現山形県)をも出羽国に編入し、一国としての形を整えた。以来近世末までの出羽国は、現鹿角かづの市・鹿角郡(陸奥国)を除く秋田県域を含んでいた。

原始

秋田地方の縄文時代は西暦紀元前八〇〇〇―前七〇〇〇年から西暦紀元を過ぎるまで、長い年月にわたると推定される。それだけに早期から晩期までの各遺跡、多彩な遺物包含地も広く分布し、海成・河成の段丘、丘陵面や扇状地上に発見される。その生活を物語る貝塚は土花つちはな(由利郡西目町出戸でと菖蒲崎しようぶざき(本荘市川口)新屋浜あらやはま(秋田市新屋)児桜こざくら(秋田市寺内町)の砂丘上、角間崎かくまざき(南秋田郡若美町)寒風かんぷう山裾野台地上、女川おながわ男鹿おが市船川)萱刈沢かやかりさわ(山本郡八竜町)の海成段丘、柏子所かしこどころ落合おちあい(能代市)の河成段丘上などに発見されている。集落跡は清水しみず遺跡(鹿角市八幡平)のような竪穴住居が最も多く、下堤しもつつみ遺跡(秋田市四ッ小屋よつごや)は縄文中期の竪穴住居一〇が集合し、藤株ふじかぶ遺跡(北秋田郡鷹巣町)のように敷石住居といわれるものもある。また特徴的な組石遺跡は大湯おおゆ遺跡(鹿角市十和田)野中堂のなかどう万座まんざの環状列石をはじめ、県内で一六を数える。

志藤沢しとざわ遺跡(南秋田郡若美町)から縄文土器の伝統を有しながら籾痕のある土器片が発見された。新間あらまA遺跡(南秋田郡井川町黒坪)からも同じ籾痕土器が発見され、明らかに弥生式土器であるとされる。二者の年代は紀元二―三世紀を下らないと推定され、その段階で一部では農耕も行われ始めていたといえる。

四世紀後半には東北地方南部で古墳が、五―六世紀には福島・宮城地方で中期古墳が築かれたとされるが、秋田地方で確認されるのは後期の八世紀以降の古墳である。


出羽国
でわのくに

近世までの出羽国はほぼ現在の山形県と鹿角かづの市・鹿角郡を除く秋田県を併せた地域にあたり、北・東は陸奥国、南は同国および越後国に接し、西は日本海に面していた。明治元年(一八六八)、出羽国は二国に分割され、南半は羽前国、北半が羽後国となったが、同四年の廃藩置県により両国は廃された。

古代

〔国の成立〕

「続日本紀」和銅五年(七一二)九月二三日条によれば、出羽国は「自官軍電撃、凶賊霧消、狄部晏然、皇民無擾、誠望便乗時機、遂置一国、式樹司宰、永鎮百姓」との太政官議奏によって建置された。七世紀、大和政権による日本海沿岸開拓(蝦夷とよばれた東北地方原住の人々の律令制下への組入れ)の前線は徐々に北上し、大化三年(六四七)には淳足ぬたり(現新潟市)、同四年には磐舟いわふね(現新潟県村上市)が設置され、現山形県域に所在が比定される「都岐沙羅柵」が設置されたのは斉明天皇四年(六五八)のことである。また同年から同六年にかけては阿倍比羅夫が水軍をもって日本海沿岸を制圧している。なお「日本書紀」ではこの遠征記事のなかに現秋田県域の齶田(秋田)・淳代(能代)などの地名はみえるが、現山形県域に比定される地の記載はない。こうした状況下に和銅元年九月には庄内地方南部に越の国の一郡として出羽郡が設置された。出羽国はこの出羽郡を中心として設置されたと考えられるが、国設置直後の同五年一〇月一日に「割陸奥国最上置賜二郡出羽国焉」(「続日本紀」同日条)と、これまで陸奥国に所属していた最上・置賜おきたま両郡が出羽国管下に切替えられた。当時の置賜郡は今日の置賜地方とほぼ同じ地域とみられ、最上郡はのちの村山郡と最上郡を合せた地域で、その後の開拓により、現秋田県域を含む大国となった出羽国も新設時はほぼ今日の山形県に該当する地域を版図としたとみられる。

出羽の名称は、前出の建郡について記載する「続日本紀」和銅元年九月二八日条の「新建出羽郡」が初見とみられ、「和名抄」国郡部に「以天波」、「延喜式」民部省は出羽郡に「イデハ」の訓を付す。越後国の北部に出た出端いではの意と解される。なお「拾芥抄」では出羽郡を「デハ」と訓じている。置賜郡と最上郡が陸奥国管下の郡として設置された年月は明らかでないが、「日本書紀」持統天皇三年(六八九)一月三日条に「陸奥国優曇郡」、また平城宮跡出土木簡に「陸奥国裳上郡裳(以下欠)」とあり、早くから陸奥国方面からの開拓によって郡が設置されていた。

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改訂新版 世界大百科事典 「出羽国」の意味・わかりやすい解説

出羽国 (でわのくに)

旧国名。羽州。現在の山形,秋田両県。

東山道に属する上国(《延喜式》)。北から東,南東部まで陸奥国に接し,陸奥国とともに奥羽(おうう)と総称され両国の一体関係は強かった。政治的には721年(養老5)以来陸奥按察使(むつのあぜち)の統轄下に属し,軍制上も陸奥多賀(たが)城のちには胆沢(いさわ)城に置かれた鎮守府の指揮下にあった。この地方が史上最初にあらわれるのは,658年(斉明4)越(こし)の国守阿倍比羅夫(あべのひらふ)の北航に際し齶田(あきた)/(あいた),渟代(ぬしろ)に郡(評)(こおり)を置いたという《日本書紀》の記事である。以来越の管轄下にあったらしく,708年(和銅1)に越後国は出羽郡を建てた。これが出羽(伊氐波(いでは))の地名の初見であり,越後国の北部に突出した出端郡の意と解される。〈出羽〉の文字によって允恭朝に鳥の羽を土地の産物として献上したことに由来を求める地名説話もあるが,史料的には根拠がない。当初現在の庄内地方を主たる郡域としたが,北方秋田方面までその延長上とされていたから,遠くかつ広くて掌握しにくかったらしく,712年9月に地域安定を理由に独立した出羽国が建置された。そして1郡1国である同国に10月陸奥国置賜(おきたま),最上(もがみ)2郡が割き加えられ,北陸道ではなく東山道に属した。国府はまず,現鶴岡市の旧藤島町辺に置かれ,733年(天平5)に秋田村高清水(たかしみず)岡(現,秋田市)に進出した出羽柵に移された。出羽柵は秋田城になるが,国府は奈良朝末の政情不安によって現在の酒田市北郊城輪柵(きのわのさく)遺跡の地に南遷した。この庄内の国府と秋田城,雄勝(おがち)城(横手盆地南部)は〈一府二城〉と称し古代出羽国経営の中心となった。国分寺は庄内にあり,秋田城には四天王寺があった。

 政治的にも軍事的にも陸奥の多賀城から指令を受けることが多かったので,759年(天平宝字3)雄勝城が築かれ雄勝,平鹿(ひらか)2郡が分割整備されると,陸奥国加美(かみ)から奥羽山脈を越え玉野(たまの)(尾花沢市)-避翼(さるはね)(舟形町)-平戈(ひらほこ)(金山町)-横河(湯沢市の旧雄勝町)-雄勝(羽後町)-助河(すけかわ)(横手市の旧増田町)と通ずる出羽山道駅路が開設された。道は究極的には秋田城を目ざすものであったが,平安時代になると水道駅路として完成された。《延喜式》によると最上(山形市)-村山(東根市)-野後(のじり)(大石田町)-避翼-佐芸(鮭川村)-飽海(あくみ)(酒田市の旧平田町)-遊佐(ゆざ)(遊佐町)-蚶方(きさかた)(にかほ市の旧象潟町)-由理(ゆり)(由利本荘市の旧本荘市)-白谷(しらや)(秋田市の旧雄和町)-秋田の駅順で,野後,避翼,佐芸,白谷は他国に類のない馬船兼備の水駅であった。《延喜式》によると郡は置賜,最上,村山,雄勝,平鹿,山本,田川,出羽,飽海,河辺,秋田の11郡で,出羽国府から京都まで調庸運送の公式日数は陸路で上り47日,空荷の下り24日,海路は52日である。878年(元慶2),939年(天慶2)に俘囚(ふしゆう)の乱もあったが,前九年の役で山北の俘囚主清原氏が強大になり,後三年の役で滅びると奥州藤原氏が出羽にも強い影響力を持った。やがて由利郡も置かれ源頼朝の奥入りを迎えた。
執筆者:

鎌倉期にも奥羽両国は同様の政治状況下におかれ,鎌倉幕府が国衙機構の実権を完全に掌握する。貴族が出羽守に任命されることがあっても,田数調査や寺社興行など出羽国の国家的行事は幕府が出羽国留守所に命じて取りしきった。同時に郡,荘園,保すべてに総地頭が任命され,各地における行政一般や軍事・警察・裁判上の重要な職権を与えられた。奥羽両国が守護不設置なのは,この官職的性格の強い総地頭が守護職権をも包摂していたためである。これらの職は関東御家人により独占され,出羽留守職の菅原氏については未詳であるが,例外的存在は由利維久ぐらいである。それ以外の初期の総地頭は,米沢盆地の3荘1郡や寒河江(さがえ)荘の地頭に大江広元,仙北郡に中原親能が任命されたのをはじめ,秋田郡・小鹿島(おがしま)の橘公業,平鹿郡の松葉助宗,大泉荘・海辺荘の武藤資頼,小田島荘の中条兼綱,大曾禰荘の安達盛長,成生(なりう)荘の二階堂氏等々,いずれも幕府の官僚系武士であった。彼ら自身またはその弟や次男は,ただちに地頭職を名字の地として,出羽国御家人の地位と新武士団を築いた。長井,大泉,小鹿島,小田島,平賀,大曾禰の各氏を代表とする。とくに1218年(建保6)安達景盛秋田城介に任命され,名字とした。蝦夷に接する奥羽両国は新たに蝦夷島管轄の拠点とされたが,秋田城介はこの任務を出羽側で担当したとみられる。このような地頭の配置と支配機構の強化は,奥羽特殊地域観を助長し,基本税も依然として馬,砂金,布などが田率ごとに賦課された。莫大な実益を伴う地頭職は幕府の政変ごとに持主を交替し,鎌倉末期には幕府で専制権を握った北条氏に大半が集積される。奥羽両国は幕府支配組織のモデルと評価されるほど,鎌倉政権の重要基盤だったのである。先進文化が積極的に移入され,一宮鳥海・月山の両所や小鹿島赤神山の神祇崇拝,および山寺立石寺,羽黒山,秋田城古四天王寺の将軍家御願所指定などを通じて,出羽民衆の精神生活まで幕府支配は浸透したが,一方では蝦夷蜂起の動きも絶えなかった。

 鎌倉幕府滅亡後,建武政府は貴族の葉室光顕を出羽守兼秋田城介に任命し出羽国を掌握しようとしたが,光顕は横死した。かわって陸奥守兼鎮守府将軍北畠顕家,ついで同北畠顕信に奥羽併管を命じ,多少の効果をあげた。しかし南北両朝の対立によって,北朝足利方も奥羽併管の特設軍政官を派遣し,出羽でも南北両党はめまぐるしく激突した。足利方の担当官は奥州総大将斯波家長,石塔義房をへて,1345年(興国6・貞和1)奥州管領制に切り換えられる。南北両朝ともに,奥羽両国をひとつの広域行政区として支配しようとしたのである。だが観応の擾乱(じようらん)以後の政変により奥州管領は分裂し,56年(正平11・延文1)出羽一国を管轄対象とする羽州管領も成立したと伝えられる。初代管領は斯波兼頼で,やがて職制は羽州探題に切り換えられた。しかし羽州管領と羽州探題の存在を否定する説もある。91年(元中8・明徳2)暮に鎌倉府が奥羽を併管し,1399-1440年(応永6-永享12)稲村御所篠川御所の管轄下におかれた。この内乱期から室町幕府支配の下で,郷村を名字とする数多くの土豪層,国人層が台頭し,守護大名的領主も出現する。庄内の大宝寺氏,仙北の小野寺氏,米沢・伊達の伊達氏,秋田・津軽の安東氏は,京都扶持衆にもなった。十刹諸山に指定された光明寺,勝因寺,崇禅寺,金剛寺,資福寺は彼らの勢力範囲に照応する。

 伊達氏,安東氏の勢力は奥羽両国にまたがっていたが,戦国期の争乱の中で各勢力の角逐はいっそう激化する。出羽北辺では,津軽から米代川河口の檜山(ひやま)に本拠を移した安東氏が,日之本(ひのもと)将軍を称して蝦夷島を管轄し,陸奥国比内,鹿角にも勢力を広げ,秋田湊安東氏を統合して,戦国大名秋田氏となる。出羽南辺では,米沢城に本拠を移した伊達晴宗が奥州探題にも任命され,羽州探題を自認する最上氏と戦国大名の覇を競った。庄内には越後上杉氏の勢力が侵入する。仙北では雄勝から平鹿に本拠を移した小野寺氏が戸沢氏,六郷氏らと抗争をくりかえし,由利には十二頭と称される国人勢力があった。彼らは中央政界の動向にも敏感であり,織田信長の天下統一時,秋田,戸沢,大宝寺,寒河江,伊達などの各氏はいち早く信長に鷹を献上している。1590年(天正18)豊臣秀吉の奥羽仕置では,87年関東奥羽惣無事令以後も法令違反の合戦を続けたにもかかわらず,出羽諸氏は陸奥諸氏ほど大幅な改易をうけなかった。最上,伊達両氏は領国内仕置権ともいうべき特別権限まで保証される。それ以外の諸氏も,領地の3分の1を太閤蔵入地に設定されながらも,仕置当時の勢力をほぼ承認され朱印状を交付された。秋田氏の管轄する蝦夷島が蠣崎氏管轄下に切り換えられ,浅利領陸奥国比内郡が秋田領出羽国秋田郡に正式に編入されたのも,このときである。豊臣政権下で,出羽国にも近世的秩序が形成されはじめることになる。
執筆者:

豊臣秀吉は1590年6月,奥羽の諸将に小田原参陣を命じ,8月10日,会津黒川城で奥羽検地の厳命を発した。検地奉行木村常陸介重玆(しげこれ),大谷刑部少輔吉継による〈出羽国御検地条々〉も同日付けでだされている。これによれば,検地は指出しの方法をとり,一定の換算率によって苅高を永楽銭の貫高にあらため,納入させるものであった。出羽地方に現在まで天正検地帳は残っていないが,その実施が現地の土豪たちに厳しいものであったことは検地反対一揆によって知ることができる。この一揆は庄内と仙北郡に起こった。庄内の検地は大谷吉継と上杉景勝によって行われたが,検地に反対する一揆勢は一時庄内の諸城を占領し,尾浦城も包囲される勢いであった。一揆の中核は武藤氏に仕えた地侍であったが,やがて上杉方に鎮圧されて庄内の武藤氏は滅び,庄内は上杉氏の所領となった。仙北一揆は同年10月,検地役人の大谷氏の配下を殺したことを口火として,小野寺領内の増田,山田,川連(かわつら)などの城主を中心として起こっている。この一揆勢も,やがて上杉軍によって制圧された。検地をもとに91年正月,石高による知行宛行(ちぎようあてがい)朱印状が出羽諸将に交付された。奥羽唯一の太閤蔵入地が秋田氏を代官として設置されたほか,南部の置賜は伊達氏より没収して蒲生氏に与えられ,村山,最上と仙北の一部は最上氏領,庄内は上杉領となり,また北部では秋田氏,戸沢氏,小野寺氏などがおもな大名であった。

 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦は徳川家康の上杉討伐で始まったが,出羽では徳川方の最上軍と豊臣方の上杉軍との戦いとなって戦況は長びき,徳川大勝の関ヶ原の戦報によって終結した。関ヶ原の戦後,家康は上杉景勝の領地を120万石から30万石として,城下を米沢に移し,最上氏は村山,最上のほかに庄内と由利郡も手にした。

 さらに,上杉氏に味方した小野寺義道の領地を没収し,秋田,戸沢,六郷などの諸氏を常陸に移して常陸の佐竹義宣(よしのぶ)を出羽に国替させた。幕藩制下の新しい大名配置はかくして定まったのである。近世出羽の成立期でもっとも大きな事件は,22年(元和8)一族の内紛によって最上氏(57万石余)が改易となり,そのあとに諸大名が入部したことである。鳥居忠政(山形22万石),酒井忠勝(鶴岡14万石)をはじめ,戸沢氏(新庄),松平氏(上山)などであり,以後近世期の藩として山形,上山以外はそれぞれ幕末まで定着した。したがってこの地域のその後のおもな都市のほとんどは,近世初期の城下町として形成されている。国替のもっとも多かった山形藩は,最上氏以後元禄年間までに9回,その後幕末までに4回を数えた。

 近世初期には各藩とも開発が著しく進んだ。17世紀初頭に各藩とも総検地を実施して,実際の村高を把握したが,藩の実高は幕府の朱印高に対して大幅の増加をみている。例えば表高30万石の米沢藩の実高は51万石余,秋田藩(20万石)は実高30万石余を打ちだした。1647年(正保4)の出羽国絵図によれば,置賜,村山,最上,田川,櫛引,遊佐,油利,雄勝,平刈(平鹿),山本,豊嶋,秋田,檜山の13郡があり,石高の合計は95万石余で,その領域は佐竹(秋田),上杉(米沢),松平(山形),酒井(鶴岡)などのほか幕府代官領(11万石余),寺社領(1万7000石余)など14に色分けしているが,その石高合計は幕府への届高と同じである。

北部(現,秋田県)では米代(よねしろ)川流域の杉材が著名であり,院内銀山を中心に金銀山の開発が佐竹氏の入部以後急速に進んだ。米は出羽の産物の第一であるが,とくに庄内米が知られ,また羽州南部では最上紅花,青苧(あおそ),蠟,漆などが有名である。秋田杉はすでに豊臣期に軍用板として用いられ,出羽の産物のほとんどは北国海運あるいは西廻海運によって,上方・瀬戸内方面と結びついていた。米や大豆ははじめ敦賀,小浜に入港し,京都や大坂に入ったが,河村瑞賢による西廻海運の整備以後は下関を回って大坂,江戸に行くものが多くなった。最上紅花は京都西陣織の染料として,置賜や最上の青苧は奈良晒(さらし)や北陸の縮織の原料として移出された。出羽の特産物の多くは上方に移出されたが,その帰り荷として塩,古手,木綿,瀬戸物などの商品が移入され,西廻海運によって出羽の産業と上方の経済は密接な関係にあった。山形や秋田など城下町の有力商人に,堺や近江出身のものが多いのもそのためである。

 陸上の主要な街道は羽州街道で,諸大名の参勤交代にはすべてこれが使われた。この街道は奥州街道(仙台-松前道)から桑折(こおり)で分かれ,陸奥の七ヶ宿街道から金山峠を越えて出羽に入り,上山,山形,新庄,横手,秋田,大館を結んでいる。南下するほどこの街道を利用する大名は多くなるが,近世初頭,とくに佐竹氏が整備したところも多い。日本海に面する出羽地方から太平洋側に出るには,奥羽山脈を越えなければならないが,脇道として山形-仙台の笹谷峠越え,天童-仙台の関山峠越え,新庄-古口への堺田峠越え,角館-盛岡の仙岩峠越えなど,多くの横断道がある。日本海側にはほぼ南北に,奥羽三関の一つとされる念珠ヶ関(ねずがせき)から大山,酒田,秋田と結ぶ北国街道があるが,巡見使街道ともいわれ,危険なところも多いため利用する人は少なかった。

中期以後,各地に商品生産や流通が発達する一方で,藩財政の窮乏が深まり農村の荒廃も進んだ。これに対して,18世紀中ごろ以降に行われた米沢藩,秋田藩,庄内藩などの藩政改革は有名である。

 米沢藩では宝暦末年,郡代森平右衛門が財政の再建と農村の復興のために支配機構の改革などを試みたが,藩政内部の対立で失敗した。そのあとに断行した明和・安永の改革は,新藩主に15歳の治憲(鷹山)を迎え竹俣当綱(まさつな)を中心とする改革派グループによって進められた。その内容は大倹約令にはじまり,これまでの御用商人との縁を切ること,農村をはじめ領内各地に漆,楮(こうぞ),桑をそれぞれ100万本植えること,また縮織の技術を導入し,藩校興譲館を創設したことなどである。しかしこの第1次の改革は,天明の飢饉に遭遇したこともあって暗礁にのりあげた。その後天明の中断期をはさみ,いわゆる寛政の改革が実施された。治憲は隠退したが強力な後見者となり,執政は先に小姓頭で失職した中老莅戸(のぞぎ)善政が中心であった。改革は農村支配の整備のために代官制度を改革し,国産物の奨励を広くまた積極的に行い,とくに養蚕業の振興を図った。この改革は,農村の復興と財政の再建に多くの成果をあげたことから,この時期の改革の典型とも目されている。

 秋田藩でも1789年(寛政1)以後改革を開始した。まず藩制の刷新のため,新たに評定・財用の両奉行を置き,全体を統括する総奉行を設けた。また1781年(天明1)以後藩財政の再建のため国産物の増産をはかり,山林木山方,薪方を置き,銅山方を設けている。そこでのちの秋田杉の植林が行われ,大坂の銅商人大坂屋に経営を請け負わせる銅山改革が実施された。勧農政策としては,郡奉行を設置し,農村の復興のために諸産物を奨励したり,また荒廃田を再興し,新田開発を目的とする六郡開発令を出している。特産物の奨励には産物方支配人があたり,とくに養蚕業の発達を背景とした秋田畝織(うねおり)が知られる。その他この時期に著しい発達をみた産物に,川連漆器,能代春慶塗などがある。藩校の創設が企てられたのは1789年であるが,93年江戸の折衷学派山本北山を迎えて機構を整え,明道館(のち明徳館)ができた。

 庄内藩でも1767年(明和4)財政窮乏打開のため財政改革に着手した。豪農商の本間光丘(みつおか)が登用され,まず家中の会計整理をはじめ,安永および天明年間に〈御地盤組立〉という財政再建計画をだしている。しかしこの財政整理は農村の荒廃を救うことにならなかった。95年にはじまる改革は,改革御用掛竹内八郎右衛門,白井矢太夫を中心に行われ,その大綱は困窮農民の救済策や農業振興策など,農村の復興をはかる農政改革を重要課題とした。庄内藩の藩校致道館が開設されたのは1805年(文化2)で,祭司は寛政改革の執政白井であった。秋田藩の総奉行中山青峨が明道館初代祭酒であったが,そのことからも改革における藩校の位置が理解されよう。

近世後期から幕末期の出羽諸藩は,北羽(現,秋田県)ではその変化が少ないが,南羽(現,山形県)ではかなりの変動をみている。とくに最上川中流部における幕領の増減と山形藩主の移動によるものである。村山郡の幕領は天明年間に約20万石となり,1798年(寛政10)に長瀞藩(1万1000石),1830年(天保1)に天童藩(2万石)ができ,山形には1767年(明和4)に秋元氏が入部し,1845年(弘化2)には水野忠精(5万石)に代わるなど,幕領諸藩領の錯綜がいっそう進んだ。幕末の出羽諸藩にはとくに目だった藩政改革はないが,小藩でも新庄藩の吉高勘解由(かげゆ)の改革,上山藩の金子清邦の改革などが注目される。また近世中後期の出羽出身の人物に北羽では佐藤信淵,平田篤胤などの日本的学者があらわれ,南羽では幕末に清川八郎や雲井竜雄など維新の志士を生んだ。戊辰戦争は,結局西南雄藩の政府軍と会津・庄内を中心とする奥羽越列藩同盟の戦いとなったが,出羽諸藩の中でも北羽の秋田藩は官軍につき,庄内藩軍との間に激しい戦いを交えた。しかし米沢藩,山形藩をはじめ,出羽諸藩の大部分は同盟軍となったが,政府軍の洋式軍備のもとに次々と降伏して,約6ヵ月の戦いは終結した。

 新政府は奥羽支配のために新たな国郡制を設け,1868年12月出羽国を羽前国,羽後国の2国とした。また戦争の論功行賞として,秋田,本荘などには賞典禄を与える一方,米沢,山形,庄内などの朝敵諸藩には領地没収,首謀者の斬罪などの処分を行った。また旧幕領と没収地に民政局を設置し,69年7月には酒田県を設置した。以後,全国的な廃藩置県をまたずに70年9月には山形県ができたが,71年7月の廃藩置県の断行により,羽前は8県,羽後は5県となり,まもなく統合して同年11月には,秋田県,置賜県,山形県,酒田県の4県となっている。現在の秋田県は同年に成立したが,現在の山形県が行政的に一つになるのは,3県が統合した76年であった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「出羽国」の意味・わかりやすい解説

出羽国
でわのくに

現在の山形県と、鹿角(かづの)市・小坂(こさか)町を除く秋田県全域にあたる地域の旧国名。東山道(とうさんどう)に属する。出羽の名称は、708年(和銅1)『続日本紀(しょくにほんぎ)』に越後(えちご)国(新潟県)の北に出羽(いでは)郡を新設したとあるのが初見で、翌年、諸国に出羽柵(いではのき)に兵器を送ることを命じている。出羽柵がどこに置かれたかは明らかではないが、山形庄内(しょうない)地方であったことは確かとみられる。このように8世紀初頭には、しだいに越後北部から中央の政治勢力がこの地に及んでいきつつあった。こうして712年出羽国が設置された。このとき、陸奥(むつ)国の最上(もがみ)・置賜(おいたみ)の2郡(現山形県)を出羽国に編入し、先に設けられた出羽郡とあわせて3郡で一国を構成した。範囲は、ほぼ現在の山形県全域にあたるものとみられる。721年(養老5)出羽国は陸奥の按察使(あぜち)の支配下に置かれ、東山道の管下に入った。按察使は奥羽両国の国司を監督するのを任としたから、このことは、この時期、東から奥羽山脈越えに内陸へ進む開発・経営と、越後方面から北進するそれとを、強力に推進する意図の表れとみられる。733年(天平5)雄勝(おがち)郡が新置され、同年、出羽柵が秋田高清水(たかしみず)村(秋田市)に移ったとされているが、国府はすぐに移らず、従来の地にとどまったとみられるなど、この間の事情については確かではない。759年(天平宝字3)雄勝柵(位置不明)を拡充して雄勝城がつくられ、同年、雄勝郡北部を割いて、平鹿(ひらか)郡が設置された。こうして8世紀中期から後期にかけては、現在の秋田県の地にも急速に中央の勢力が及んでいった。8世紀中期に、各国ごとに国分寺が建立されたが、出羽国の国分寺の所在地は、山形県鶴岡(つるおか)市平形(ひらかた)の国分の地ではないかと推測されている。

 古代律令(りつりょう)制下の出羽国は11郡58郷で、ほぼ現在の山形県域に属する最上(もがみ)、村山、置賜、飽海(あくみ)、田川、出羽(いでは)の6郡と、ほぼ現秋田県域に入る雄勝、平鹿、山本(のち仙北(せんぼく))、河辺(かわべ)、秋田の5郡であった。このうち飽海郡が現秋田県南西部の由利地方南部の地に及んでいたことが注目される。秋田郡は804年(延暦23)新たに秋田河(現雄物(おもの)川)以北の地に設置され、田川・飽海の2郡はその設置年代が不明であるなど、その行政区画の変遷については明らかではない。

 鎌倉時代、出羽国には守護は置かれなかった。地頭(じとう)は各地に置かれ、現山形の地は一部の国衙(こくが)領を除いては、中世までにその大半の地は荘園(しょうえん)化した。秋田の地は資料に乏しく、その確かな動向は戦国期まで明らかではない。鎌倉中期以降、幕府の重臣が相次いで出羽守(かみ)に任じられ、出羽は幕府の知行(ちぎょう)国化したものとみられる。この間、平安期までに成立したとみられる出羽三山の羽黒修験(はぐろしゅげん)など、注目すべき動きもみられた。南北朝時代から、この地に入った最上氏がしだいに勢力を伸ばしていった。戦国時代にはさらに、庄内に武藤氏、秋田の地に小野寺、戸沢、浅利(あさり)、安東(あんどう)などの豪族が輩出して抗争を繰り広げた。江戸時代初期、会津から米沢(よねざわ)への上杉氏、常陸(ひたち)から秋田への佐竹氏の転封、さらに最上氏の改易に伴う庄内への酒井氏の入部など、出羽の地もその支配には大きな変動があった。1647年(正保4)の「出羽国知行高帳」によれば、出羽国は、本田惣高(そうだか)95万1523石4斗7升6合で、うち田方79万4694石3斗6升4合、畑方13万9324石1斗5升1合、寺社領1万7504石9斗6升1合で、その村数1836か村となっている。新田惣高17万2871石4斗1升7合で、その村数277か村とあり、代官領、寺社領、各大名領などあわせて14の支配に分かれていた。国内の産物では、庄内米、最上紅花(べにばな)、米沢絹、秋田杉、院内(いんない)鉱山の銀、阿仁鉱山の銅などが著名であった。

 明治維新後の1868年(明治1)に、出羽国は羽前(うぜん)・羽後の二国に分離された。71年の廃藩置県時には12県となり、同年11月に現在の秋田県、76年8月に現在の山形県が成立した。

[高橋秀夫]

『『秋田県史』全16巻(1960~67・秋田県)』『『山形県史』全5巻(1960~62・山形県)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「出羽国」の意味・わかりやすい解説

出羽国
でわのくに

現在の山形県と秋田県。東山道の一国。上国。東北地方は大和朝廷の支配が最も遅く及んだ地方で,蝦夷地とされた。斉明4 (658) 年には阿倍比羅夫が征討の軍を進め,しだいに開拓が進められた。律令制の国郡制度では和銅1 (708) 年9月越後国に新たに出羽郡が設置され,さらに同2年7月夷狄を制するため出羽柵に武器を送るように諸国に命じている。同5年9月出羽郡が独立して一国となり,10月には陸奥国の最上郡,置賜郡の2郡が出羽国に加えられた。天平5 (733) 年 12月には出羽柵を北に進めて秋田城を設置し,新たに雄勝郡が置かれた。国府も国分寺も初め山形県鶴岡市にあったが,のち国府は酒田市吉田に,次いで国府,国分寺とも酒田市本楯に移ったといわれる。『延喜式』には最上郡,村山郡,置賜郡,雄勝郡,平鹿郡,山本郡,飽海郡,河辺郡,田川郡,出羽郡,秋田郡の 11郡が,『和名抄』には 65郷 (高山寺本) ,田2万 6109町が記されている。前九年の役 (1056~64) では源頼義源義家父子が安倍氏征討に苦しんだが,出羽国の俘囚の長清原武則の援助で,安倍貞任安倍宗任の兄弟を滅ぼし,武則はその功により鎮守府将軍に任じられた。清原氏が後三年の役 (1086~87) で滅んでからは,平泉の藤原氏が陸奥出羽押領使として支配するようになった。文治5 (1189) 年藤原泰衡源頼朝に滅ぼされて藤原氏の支配は終わった。鎌倉時代から室町時代までは守護は置かれなかった。戦国時代には檜山に秋田氏,横手に小野寺氏,山北に戸沢氏,庄内に武藤氏,山形に斯波最上氏 (→最上氏 ) ,寒河江に大江氏,長井荘に伊達氏が出て互いに覇を競った。江戸時代には米沢に上杉氏,秋田に佐竹氏,亀田に岩城氏,庄内に酒井氏,上ノ山に松平氏,新庄に戸沢氏,本庄に六郷氏が封じられ幕末にいたった。明治1 (1868) 年に羽前国羽後国に分かれ,明治維新を経て同4年7月各藩はそれぞれ県となったが,同 11月秋田県,置賜県,山形県,酒田県となり,1876年秋田県,山形県の2県となった。

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百科事典マイペディア 「出羽国」の意味・わかりやすい解説

出羽国【でわのくに】

旧国名。羽州とも。東山道の一国。現在の山形・秋田2県。712年,越後(えちご)国出羽郡が独立して建置。さらに陸奥(むつ)国から2郡を加えられた。出羽柵,次いで秋田城がおかれた。《延喜式》に上国,11郡。中世後期,最上・秋田・伊達・小野寺氏らが割拠。近世初めに上杉氏も加わり,秋田藩鶴岡藩山形藩米沢藩などが置かれた。1868年,羽前(うぜん)・羽後2国に分割。→出羽三山神社
→関連項目秋田[県]羽後国羽前国奥羽大泉荘質地騒動東北地方陸奥将軍府山形[県]

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藩名・旧国名がわかる事典 「出羽国」の解説

でわのくに【出羽国】

現在の山形県秋田県を占めた旧国名。古く蝦夷(えみし)に備えて出羽柵(でわのさく)、秋田城が設置された。律令(りつりょう)制下で東山道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は秋田城からのちに現在の酒田市城輪(きのわ)に移され、国分寺は鶴岡市におかれていたと推測される。11世紀後半の前九年(ぜんくねん)の役(えき)後三年(ごさんねん)の役後、奥州藤原(おうしゅうふじわら)氏が支配。鎌倉時代から室町時代を通じて守護はおかれず、戦国時代に最上(もがみ)氏、小野寺氏、秋田氏などが抗争を繰り広げた。江戸時代に米沢(よねざわ)は上杉氏、鶴岡は酒井氏、秋田は佐竹氏が領有、他に小藩がおかれ、幕末に至った。1868年(明治1)に羽前(うぜん)国、羽後(うご)国に分けられ、1871年(明治4)の廃藩置県ののち、同年に現在の秋田県、1876年(明治9)に現在の山形県が成立した。◇羽州(うしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「出羽国」の解説

出羽国
でわのくに

「いではのくに」とも。東北地方日本海側の国。現在の秋田県・山形県。708年(和銅元)越後国北部におかれた出羽郡を中心に,712年9月建国,翌月陸奥国から最上(もがみ)・置賜(おきたま)2郡が編入された。北部領域は律令国家支配の進展にともない北上拡大した。北陸道から派生したが,東山道に所属。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では最上・村山・置賜(おいたみ)・雄勝・平鹿(ひらか)・山本・飽海(あくみ)・河辺(かわのべ)・田川・出羽(いでは)・秋田(あいた)の11郡からなる。「和名抄」所載田数は2万6109町余。「延喜式」では調庸として布・米・穀を定める。国府は当初の庄内平野から733年(天平5)高清水岡(現,秋田市)に移り,のち現在の城輪柵(きのわのさく)跡(現,山形県酒田市)に転じた。一宮は大物忌神社(現,山形県遊佐町)。平安後期に清原氏が台頭,後三年の役後は奥州藤原氏の勢力下となり,その滅亡後鎌倉幕府が強力に支配した。室町中期から北部で安藤氏が成長して秋田氏となり,南部では伊達氏や最上氏が力をのばしたが,豊臣政権や江戸幕府により所領没収や国替が行われた。幕末まで秋田・鶴岡・米沢藩など10余藩があった。1868年(明治元)羽前国・羽後国に二分された。

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