朝日日本歴史人物事典 「細川定禅」の解説
細川定禅
南北朝時代の武将。頼貞の子,顕氏の弟。六条若宮別当となり卿律師と称す。足利尊氏の招きに応じて讃岐で挙兵し,四国・中国の軍勢を率いて京都に進攻。叡山の後醍醐天皇を攻める総大将となり,園城寺で北畠顕家に敗れたものの,建武2(1335)年1月,新田義貞,脇屋義助の追軍を洛中にてわずか三百余騎でしのぎ「智謀勇力イヅレモ取々ナリシ人傑」(『太平記』)と評される。九州へ敗走する尊氏の命で顕氏らと共に四国平定に当たる。尊氏東上後はこれに従い,湊川の戦などで戦功を挙げる。幕府内で顕氏が,同族の和氏と対等な立場を保ちえたのも「鬼神の様」(『梅松論』)とうたわれた定禅に負うところが大きい。<参考文献>小川信『細川頼之』
(小林保夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報