日本大百科全書(ニッポニカ) 「細川顕氏」の意味・わかりやすい解説
細川顕氏
ほそかわあきうじ
(?―1352)
南北朝期の武将。頼貞(よりさだ)の嫡男。生年不詳。通称小四郎。兵部少輔(ひょうぶのしょう)・陸奥守。従四位下。元弘の乱以降足利尊氏・直義(ただよし)に従い、1334年(建武1)護良親王(もりよししんのう)を鎌倉に連行、中先代(なかせんだい)の乱では成良親王(なりよししんのう)と共に鎌倉を脱出する直義に同行したという。1336年一族で四国に渡り、細川氏嫡流の和氏(かずうじ)とともに足利方軍勢催促の中心を担い、四国勢を率いて尊氏と合流後、畿内各所を転戦。1338年(暦応1)には、高師直(こうのもろなお)らと和泉国で北畠顕家(きたばたけあきいえ)を破った。これらの功により、河内・和泉・讃岐・土佐各国の守護を兼ね、侍所頭人(さむらいどころとうにん)に任じられた。しかし1347年(貞和3)楠木正行(くすのきまさつら)と戦って京都に敗走、河内・和泉両国守護は高師泰に与えられた。このため観応の擾乱(じょうらん)では直義方として活躍、和議の成立で和泉国守護を回復した。その後尊氏と直義の対立が再燃すると、尊氏方に転じた。1352年(文和1)後村上天皇が拠る石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を攻撃、周辺の寺社を焼き払ってようやく勝利したが、直後に没したため、寺社の冥罰(みょうばつ)によるものと評された。法名勝園寺巒興(しょうえんじらんこう)。和歌を好み、『風雅和歌集』などに入集している。
[櫻井 彦]
『佐藤進一著『室町幕府守護制度の研究』上・下(1967、1988・東京大学出版会)』▽『小川信著『細川頼之』新装版(1989・吉川弘文館)』