朝日日本歴史人物事典 「葛飾応為」の解説
葛飾応為
江戸後期の画家。浮世絵師葛飾北斎の娘。名は栄。3代堤等琳の門人南沢等明の妻となるが,のち離縁して北斎のもとで作画を続け,北斎の制作助手も務めたようだ。北斎没後8年目に当たる安政4(1857)年に家を出たきり行方不明になったと伝えられ,不幸な晩年が想像される。一説に家出した年に応為は67歳であったといい,これによると生まれた年は寛政3(1791)年で北斎32歳ということになる。北斎の妻某は1男2女をもうけて死去又は離別し,後妻は1男1女(一説に1男2女)をもうけたという。この中で応為が何番目の娘になるのか定かではない。飯島虚心著『葛飾北斎伝』には一応3女としているが,長女美与,次女鉄,4女猶のほか,北斎娘辰女筆という署名のある美人図が伝えられており,この辰女の位置づけ次第では,応為の順番も変わる可能性が大である。 画号として応為,栄,阿栄,栄女を使用している。このうち応為は,北斎が娘を「オーイ,オーイ」と呼んでいたので,その音をそのまま画号としたと伝える。代表作に「三曲合奏図」(米・ボストン美術館蔵),「吉原夜景図」(太田記念美術館蔵),「夜桜図」(メナード美術館蔵)などがある。このうち「吉原夜景図」「夜桜図」をみると光に対する繊細な関心が知られる。特に「夜桜図」では星の光も,胡粉や朱,藍を複雑に組み合わせて種々の等級の差を表現するなど,明治期の小林清親による「光線画」に先行する作例として重要である。従来北斎の亜流画家又は助手としての評価しか受けていなかった応為だが,光の画家として改めて美術史上に位置づけ直す必要がある。
(安村敏信)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報