葛飾北斎(読み)カツシカホクサイ

デジタル大辞泉 「葛飾北斎」の意味・読み・例文・類語

かつしか‐ほくさい【葛飾北斎】

[1760~1849]江戸中・後期の浮世絵師。江戸の人。幼名、時太郎、のち鉄蔵。初号、春朗、ほかに画狂人・為一など。初め勝川春章に学んだが、狩野派土佐派琳派りんぱ洋風画など和漢洋画法を摂取し、読本挿絵や絵本、さらに風景画新生面を開いた。「北斎漫画」や「富嶽三十六景」が有名。

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共同通信ニュース用語解説 「葛飾北斎」の解説

葛飾北斎

江戸時代後期の浮世絵師。江戸本所の生まれとされ、幼年時のことはよく分かっていない。1778年ごろに、本格的に浮世絵の世界に入ったとみられ、洋画などのさまざまな画法を学び、表現に取り入れた。絵本の挿絵や肉筆画、狂歌本などを幅広く手掛けた。代表作に「富嶽ふがく三十六景」。海外でも人気が高く、昨年10月から今年1月にはパリで「北斎」展が開かれ、約36万人が訪れた。

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精選版 日本国語大辞典 「葛飾北斎」の意味・読み・例文・類語

かつしか‐ほくさい【葛飾北斎】

  1. 江戸後期の浮世絵師。葛飾派の祖。本姓、中島。幼名、時太郎、のち鉄蔵。別号、春朗、宗理、可候。江戸の人。勝川春章に師事して役者絵、美人画、絵本、さし絵などを描き、さらに狩野派、土佐派、琳派や、中国風、洋風の画法を修める。人間や自然を厳しく探求し、構成的で力強く、動きのある筆法により、人物画や風景版画に独自の画境を達成。その影響はフランスの印象派にまで及んだ。代表作「北斎漫画」「富嶽三十六景」「千絵の海」など。宝暦一〇~嘉永二年(一七六〇‐一八四九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「葛飾北斎」の意味・わかりやすい解説

葛飾北斎
かつしかほくさい
(1760―1849)

江戸中期から後期にかけての浮世絵師。江戸・本所割下水(わりげすい)に川村某の子として生まれる。幼年時の事柄についてはあまり明らかではないが、幼名を時太郎といい、後年鉄蔵と改めた。4、5歳のころに一時、幕府御用鏡師中島伊勢(いせ)の養子となったといわれるが、その間の事情は伝わっていない。14、15歳のころ木板版下彫りを学び、また貸本屋の徒弟となったともいわれ、絵は6歳ごろから好んで描いていたと自ら後年に述懐している。しかし、本格的に浮世絵の世界に入ったのは、1778年(安永7)とされ、当時役者絵の大家として知られていた勝川春章(かつかわしゅんしょう)の門に入ってからである。

 画界にデビューしたのは早くもその翌年で、春章の別号旭朗井(きょくろうせい)から朗の字をもらって勝川春朗と号し、細判(ほそばん)役者絵『瀬川菊之丞(きくのじょう)の正宗娘おれん』ほか2図をほぼ同時に発表している。この後、約15年間を勝川派の絵師として錦絵(にしきえ)や黄表紙、洒落本(しゃれぼん)などの挿絵を描いて過ごしたが、1794年(寛政6)中には勝川派を離れ、琳派(りんぱ)の俵屋宗理(たわらやそうり)を襲名して狂歌絵本や摺物(すりもの)などを数多く描いて活躍した。またこのころには戯作(げさく)も行い、時太郎可候(かこう)の名で数種の黄表紙を発表している。しかし、1798年には宗理号を家元に戻し、北斎を号して独立独歩の作画活動を開始することとなる。

 まず1804年(文化1)ごろから1813年ごろにかけては読本(よみほん)挿絵の分野に多くの名作を残している。そのなかでもとくに、曲亭馬琴(きょくていばきん)とのコンビによって出版された『新編水滸(すいこ)画伝』や『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』、また柳亭種彦(りゅうていたねひこ)とによる『近世怪談霜夜星(しもよのほし)』などは、この時期の読本を代表するものとして著名である。1814年ごろより、連年数種の作品を発表してきた読本挿絵は急激に減少し、かわって絵の教習本ともいえる絵手本(えてほん)に傾注し始める。この方面でもっとも知られるのは、同年より没後も刊行され続けた『北斎漫画』である。全巻を通して約3000余図が載せられており、まさに絵の百科事典ともいえる性格をもっていて、日本はむろん、古くからヨーロッパにも「ホクサイスケッチ」とよばれ、多大な影響を及ぼしている。ほかにもこの方面では『略画早指南(りゃくがはやおしえ)』『三体画譜(さんていがふ)』『一筆画譜』など、特殊な描法を紹介した絵手本も発表されており、1848年(嘉永1)には『絵本彩色通(えほんさいしきつう)』で油彩画やガラス絵、銅版画などの制作方法を開陳している。このように絵手本は北斎晩年期に一貫して出版され続けたが、その間、文政(ぶんせい)(1818~1830)初年ごろから天保(てんぽう)(1830~1844)初年ごろにかけては、風景画の代表作『冨嶽(ふがく)三十六景』(全46枚)、『諸国滝廻(たきめぐ)り』(全8枚)、『諸国名橋奇覧』(全11枚)などのシリーズが集中的に出版されている。その後、1834年(天保5)ごろを境として、しだいに肉筆画に傾注するが、1843年ごろから日課として描いた『日新除魔(にっしんじょま)』と題されているおびただしい数の獅子(しし)の図には、老年期の画風とは思えぬみずみずしい作品が多数含まれていることに注目される。しかし、不屈の人北斎も病を得て嘉永(かえい)2年4月18日、浅草聖天町遍照院内に没した。

 なお、北斎については多くの奇行が伝えられ、生涯のうち転居すること93回、また画号を改めること二十数度で、そのおもだった号だけでも画狂人(がきょうじん)、戴斗(たいと)、為一(いいつ)、画狂老人(がきょうろうじん)、卍(まんじ)など多くが知られている。しかし、約70年にも及んだ作画生活は終生刻苦勉学に貫かれていて、その情熱は当時の絵師としてはまれにみるところであった。

[永田生慈]

『岡畏三郎編『浮世絵大系8 北斎』(1975・集英社)』『辻惟雄著『日本の美術31 北斎』(1982・小学館)』『松木寛著『名宝日本の美術23 北斎・広重』(1983・小学館)』


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朝日日本歴史人物事典 「葛飾北斎」の解説

葛飾北斎

没年:嘉永2.4.18(1849.5.10)
生年:宝暦10.9.23?(1760.10.31)
江戸後期の浮世絵師。浮世絵師のなかで最も長い70年余の作画期中,画風を次々と変転させながらも各分野に一流を樹立した浮世絵派を代表する絵師。のみならず印象派をはじめとする近代の世界美術に多大な影響をおよぼし,今日国際的に評価されている。江戸本所割下水の川村家に生まれ,幕府の御用鏡磨師中島伊勢の養子となる。俗称鉄蔵,晩年は三浦屋八右衛門と名乗る。(勝川)春朗(1779~94頃),宗理(1794~98),北斎(1796~1814),戴斗(1811~20),為一(1820~34),卍(1834~49)の主要な画号のほか,画狂人(1800~08)など三十余の号を使用した。 画業は主要画号の使用時期を基準に6期に区分するのが一般的である。春朗期は,勝川春章に入門したとされる安永7(1778)年から勝川派を出る寛政6(1794)年ごろまで。初作は安永8年の細判役者絵3点。細判役者絵を中心に多種多様な画作をしており,習作期ということができる。次が寛政10年までの宗理期。狂歌本の挿絵,摺物,肉筆美人画を主とし,北斎独自の「宗理型美人」を創出して人気絵師となる。この宗理期から次の北斎期にかけては積極的に諸派諸流を研鑽しており,狩野融川,3代堤等琳,住吉広行らに学んだと伝えられている。続いて文化11(1814)年ごろまでの北斎期。この期は,北斎の画業の一大進展期,様式の確立期であり,あらゆる分野に活躍したが,『隅田川両岸一覧』(1806頃)などの絵入狂歌本,長判を主体とする摺物,「くだんうしがふち」に代表される洋風風景版画,『小説比翼文』(馬琴作,1804)にはじまる読本の挿絵,宗理型美人をさらに発展円熟させた肉筆美人画はそのなかでも特筆に価しよう。その後の戴斗期は短いが,『北斎漫画』(初編は1814年刊)を続刊するなど,絵本・絵手本に主力を注いだ時代である。為一期の前半は色紙判の狂歌シリーズ摺物が注目され,後半は「富岳三十六景」(1831~34頃)46枚に代表される風景版画・花鳥版画の大成期であり,著名な風景版画のシリーズはこの時期に集中している。最晩年の卍時代は,『富岳百景』(初編は1834年刊)などの絵本・絵手本類と肉筆画に専念した。卍期の肉筆画には超俗的で異様な妖気が漂い,老いてますます絵に没入する北斎の面目躍如たるものがある。生涯に30度以上居を変え,金銭に無頓着で身なりかまわず,人を驚かすことが好きであった北斎は,自らの造形力の向上を信じて画業一筋に生きた“画狂人”であった。『富岳百景』初編には自ら「九十歳にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん歟百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん」云々と記している。<参考文献>飯島虚心『葛飾北斎伝』,楢崎宗重『北斎論』,鈴木重三『人間北斎』,安田剛蔵『画狂北斎』,永田生慈『葛飾北斎年譜』

(浅野秀剛)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「葛飾北斎」の意味・わかりやすい解説

葛飾北斎 (かつしかほくさい)
生没年:1760-1849(宝暦10-嘉永2)

江戸後期に活躍した浮世絵師。本姓は川村氏で,江戸本所割下水(わりげすい)に生まれる。幕府御用鏡師の中島伊勢の養子となり,幼名時太郎,のち鉄蔵と改める。〈北斎〉とは一時の画号で,生涯に30回ほどの改号をする。〈画狂人〉とも号して,画三昧の生活を送り,浮世絵師中で最も作域が広い。1778年(安永7),勝川春章の門に入り,翌年に春朗と号して役者絵を発表,以後,役者絵,角力絵,浮絵,黄表紙の挿絵を描く。94年ころ,勝川派を破門された後,狩野,住吉,琳派,洋風画派を学び,2世俵屋宗理を名のり,30歳代後半に至って自己の画風を確立,97年に北斎と初めて号した。このころ,《東遊》《東都名所一覧》等の絵入狂歌本に優れた挿絵を描いて注目され,《くだんうしがふち》等では洋風の遠近・陰影表現による風景版画シリーズも発表する。次いで北斎の声価を決定づけたのは,文化年間(1804-18)の初めころから流行する読本(よみほん)の挿絵の仕事である。中国伝奇小説の影響を濃く反映し,荒唐無稽な内容をもつ読本の世界を絵画化するため,北斎は和漢洋の三体を融合し想像力を駆使した画面を展開した。木版墨摺技術の可能性を極限まで追求した北斎の読本挿絵の成果は,小説家曲亭馬琴と組む時に最も大きく得られ,《新編水滸画伝》(1806)や《椿説弓張月》等の傑作が生まれた。この読本挿絵で培われた北斎の新生面は,錦絵風景版画の分野でより効果的に発揮され,代表作《富嶽三十六景》をはじめとして《諸国滝廻り》《千絵の海》《諸国名橋奇覧》等の揃物シリーズに結実した。一例を挙げると,ゴッホが〈鷲の爪〉と呼んだ《富嶽三十六景》中の〈神奈川沖浪裏〉のすさまじい波の表現は,読本挿絵の経験の中から生まれた。この〈リアルな絵空事(えそらごと)〉の世界が北斎後期作品の核心部をなすといえるが,これは後に歌川広重に批判される(絵本《富士見百図》序文)。版画以外でも,肉筆の美人画および花鳥画に傑作が多く,中でも《二美人図》《雪中美人図》《酔余美人図》が代表作。その他,絵手本の刊行が注目されるが,山水,花鳥,人物,器物,図案等あらゆる題材を対象とした《北斎漫画》13編(1814-49)は彼の総決算ともいえる成果で,フランス印象派のドガらにも大きな示唆を与えた。
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百科事典マイペディア 「葛飾北斎」の意味・わかりやすい解説

葛飾北斎【かつしかほくさい】

浮世絵師。幕府用達鏡師の子として江戸本所に生まれる。90回を越える転居など奇行が多く,逸話も多い。改号の癖があり,春朗,宗理,可候,北斎,画狂人など30以上の号を用いた。1778年勝川春章の門に入り,美人画役者絵が退廃の度を進める化政期以降,奇抜な発想や大胆な構図で風景画花鳥画のジャンルに清新な画境を開拓して浮世絵版画を中興した。終生画業の開発と変革に努め,和漢洋の各種画法に強い関心を示した。風景版画に《富岳三十六景》《千絵の海》等のほか,《富岳百景》《北斎漫画》等の絵本類もあり,その画業は国際的にも高く評価される。門下からは柳川重信,昇亭北寿ら異色の作家が輩出。
→関連項目上野の森美術館歌川広重春画摺物席画蔦屋重三郎福井県立美術館

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「葛飾北斎」の意味・わかりやすい解説

葛飾北斎
かつしかほくさい

[生]宝暦10(1760).江戸
[没]嘉永2(1849).4.18. 江戸
江戸時代末期の浮世絵師。幼名時太郎,10歳のとき鉄蔵と改名。 14,15歳頃,木版彫刻師の徒弟となり,安永7 (1778) 年勝川春章に師事。翌8年勝川春朗と称する。ひそかに狩野派を学んで春章門を追われ,堤派の堤等琳,土佐派の住吉内記に師事。また司馬江漢の銅版画に感化を受け,和漢洋のあらゆる画法を体得した。画域も役者絵,美人画,風景画,花鳥画,社会風俗画,挿絵,版本など広い分野にわたり,画狂人の自称どおり生涯に3万枚以上の作品を描いた。改名癖があり,二十数回も改号し,その都度画風も異なる。北斎と号したのは寛政 10 (98) 年からで,この号を用い風景版画を発表。『富嶽三十六景』 (1830年から出版) が評判となり,浮世絵における風景版画創始者の地位を確立。作品は早くから海外にも知られ,マネ,モネらフランス印象派の画家に大きな影響を与えた。また文化年間 (04~18) には読本挿絵に専念し,次いで『北斎漫画』を続刊した。その他の主要作品は狂歌本『東都名所一覧』挿絵,絵本『隅田川両岸一覧』挿絵,錦絵『近江八景』『諸国滝廻り』『千絵 (ちえ) の海』,肉筆画『二美人図』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「葛飾北斎」の解説

葛飾北斎 かつしか-ほくさい

1760-1849 江戸時代中期-後期の浮世絵師。
宝暦10年9月23日生まれ。勝川春章に入門し,勝川春朗と号して役者絵を発表。のち狩野(かのう)派,住吉派,琳派,さらに洋風銅版画の画法をとりいれ独自の画風を確立。70年間にわたり旺盛な作画活動をつづけ,画域は風景・花鳥・美人・戯画とひろく,錦絵,版本挿絵,肉筆画にすぐれた作品をのこした。奇行で知られ,生涯に93回も引っ越しをした。嘉永(かえい)2年4月18日死去。90歳。江戸出身。姓は川村,のち中島。別号に画狂老人,戴斗,為一(いいつ),卍など。作品に「冨岳三十六景」「北斎漫画」など。
【格言など】九十歳よりは,又々画風をあらため,百歳の後に至りては,此道を改革せんことをのみ願ふ(「絵本彩色通」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「葛飾北斎」の解説

葛飾北斎
かつしかほくさい

1760.9.23~1849.4.18

江戸後期の浮世絵師。葛飾派の祖。本姓は川村のち中島。俗称時太郎,のち鉄蔵。はじめ勝川春章の門に入り春朗と号した。宗理・画狂人・為一・卍(まんじ)など多くの号をもつ。活躍期は70年にも及び,狩野派・琳派・洋風画などの諸流派の画法を学んだ独自の画風で,錦絵版画・摺物(すりもの)・版本挿絵・絵本・肉筆画とあらゆるジャンルにわたって作画を行った。代表作の「富嶽三十六景」や「北斎漫画」などを通じてヨーロッパ後期印象派の画家たちにも影響を与えた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「葛飾北斎」の解説

葛飾北斎
かつしかほくさい

1760〜1849
江戸後期の浮世絵師
江戸の人。30余の号をもち,93度転居。勝川春章に浮世絵を学んだが,狩野派・土佐派,司馬江漢の西洋画法など諸流を研究し,個性の強い画風を確立。終生絵画への情熱を持ち続けた。美人画・役者絵・風景画・花鳥画などを描いたが,特に風景画にすぐれた。『富嶽三十六景』は傑作。フランス印象派の画家たちに大きな影響を与えた。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「葛飾北斎」の解説

葛飾北斎 (かつしかほくさい)

生年月日:1760年9月23日
江戸時代後期の浮世絵師
1849年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の葛飾北斎の言及

【浮世絵】より

…長春は美人立姿の掛幅画にとどまらず,画巻や屛風にこまやかな観察をいきとどかせた風俗描写を展開,人物と衣装,季節の情感を盛る浮世絵肉筆画の良き範例を示した。この派の流れは孫弟子の勝川春章,さらには春章の弟子の葛飾北斎へと受けつがれ,宮川・勝川・葛飾派という浮世絵肉筆画の主流を形成することになる。紅摺絵期の宝暦年間は,美人画の石川豊信,役者絵の鳥居清満(1735‐85)が全盛で,俳趣の濃い詩的な風俗表現が好まれた。…

【還魂紙料】より

柳亭種彦著。為一(葛飾北斎)画(若干図)。1826年(文政9)刊。…

【曲亭馬琴】より

…ために,恩人京伝との仲も疎遠になり,名声ゆえの孤立感をかみしめることもあった。やがて画工葛飾北斎とのコンビによる《墨田川梅柳新書》《新累解脱(しんかさねげだつ)物語》(以上1807),《椿説(ちんせつ)弓張月》(1807‐11),《三七全伝南柯夢(さんしちぜんでんなんかのゆめ)》(1808),《占夢南柯後記》(1812)等の傑作がつぎつぎに上梓され,彼の地位を不動のものとした。かくして名作《南総里見八犬伝》(1814‐42)の執筆,刊行がはじまった。…

【三七全伝南柯夢】より

…読本。曲亭馬琴作,葛飾北斎画。1808年(文化5)刊。…

【椿説弓張月】より

…読本。曲亭馬琴作,葛飾北斎画。1807年(文化4)前編刊,11年完結。…

※「葛飾北斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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