藤原親実(読み)ふじわらのちかざね

朝日日本歴史人物事典 「藤原親実」の解説

藤原親実

生年生没年不詳
鎌倉前期の幕府吏僚。明経道の中原忠順の子。評定衆中原師員の叔父。仁治2(1241)年の安芸厳島社神官等申状は,親実が70歳を超えていたことを記す。摂家将軍藤原頼経に仕えた諸大夫で,将軍御所の儀礼祭祀などの奉行を務めた。確認できる官職は,周防守。文暦2(1235)年,厳島社造営の人事として,周防守護から安芸守護に転任,厳島神社の神主に任ぜられた。寛元2(1244)年には上洛して,六波羅評定衆となる。その後,周防守護に戻り,寛元3年から建長3(1251)年までの在職がみとめられる。建長5年の法勝寺阿弥陀堂供養では,在京人として西二階門を警固した。<参考文献>佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』,森幸夫「六波羅評定衆考」(小川信古稀記念論集『日本中世政治社会研究』)

(永井晋)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の藤原親実の言及

【安芸国】より

…ほかに新補地頭として確かめうるものに,大朝本荘の吉川氏,三入荘の熊谷氏,安芸町村の平賀氏,都宇竹原荘の小早川氏,八木村の香川氏,温科村の金子氏などがある。厳島神主職も佐伯氏から藤原親実に移った。23年(貞応2)の同社炎上後安芸国を造営料としたが,再建事業遅滞のため国務を社家に付し神主親実を守護に任じその権限による造営の促進がはかられた。…

【守護領】より

…鎌倉・南北朝・室町時代の守護の直轄所領・所職。鎌倉時代のものとしては1235年(嘉禎1)に幕府が認めた安芸守護藤原親実の例が著名である。それは国府ならびに同近辺の郡地頭職,在庁兄部(このこうべ)職(国衙在庁官人の支配・指揮権をもつ),祇園神人兄部職(交通・商業活動を行う祇園社神人の支配権をもつ),国内に広く分布する久武名(有勢な国衙在庁の仮名)などから成っており,これらは前守護武田信光さらに宗孝親の体制を継承したものであった。…

※「藤原親実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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