(木村真美子)
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平安後期の廷臣。藤原家成の三男。母は藤原経忠女。後白河上皇の寵臣。7歳で越後守となり,讃岐守,侍従,越後守,右近衛中将等を歴任し,平治の乱では藤原信頼に従って敗れ,死罪のところを平重盛の姻戚であるために許された。のち本官に復したが,後白河上皇と二条天皇との対立から1161年(応保1)再び一時解官され,さらに69年(嘉応1)尾張守のとき,領地問題で延暦寺衆徒と紛争を起こし備中国に流罪となるがすぐ赦免された。77年(治承1)右大将の官を望んだが平宗盛に占められ不満を抱いた。西光,俊寛らと平氏追討の謀議をはかり発覚,東山鹿ヶ谷(ししがたに)で逮捕され,重盛のとりなしで再び死罪を免れ,備前国に流罪となったが難波(一説有木別所)で清盛のために殺された。
→鹿ヶ谷事件
執筆者:平林 盛得
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平安後期の公卿(くぎょう)。中納言家成(ちゅうなごんいえなり)の三男。母は中納言経忠(つねただ)の女(むすめ)。後白河(ごしらかわ)上皇の寵臣(ちょうしん)。平治(へいじ)の乱(1159)では藤原信頼(のぶより)について敗れ解官されたが、平重盛(しげもり)と姻戚(いんせき)関係にあったため死罪を免れ、のち本官に復した。しかし、2年後に平時忠(ときただ)らと憲仁(のりひと)親王を東宮(とうぐう)にたてようと画策して失敗、ふたたび解官されたが翌年には許された。その後は参議を経て権(ごん)大納言に進んだ。1177年(治承1)に僧西光(さいこう)、俊寛(しゅんかん)らと東山の鹿(しし)ヶ谷(たに)において平氏討伐を企てたが、事前に漏れて捕らえられ、備前(びぜん)国(岡山県)に配流され途中で殺された。妻の1人に歌人藤原定家の姉がいる。
[朧谷 寿]
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1138~77.7.9
後白河上皇の近臣。鳥羽上皇の寵臣家成の三男。母は藤原経忠の女。「芙蓉の若殿上人」として後白河上皇に寵愛される。平治の乱で藤原信頼に連坐するが,平重盛との姻戚関係から死罪を免れる。1161年(応保元)に後白河上皇の皇子憲仁(のりひと)立太子事件に参画。66年(仁安元)参議正三位。のち権大納言正二位。所領をめぐる争いから延暦寺の訴えでたびたび解官・配流されるが,後白河上皇の保護により復任,しだいに平氏と対立。鹿ケ谷(ししがたに)の謀議にかかわり備前国に配流され,殺害された。
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…1177年(治承1)後白河法皇の近臣が平氏打倒を企てた陰謀事件。権大納言藤原成親,僧西光(藤原師光)が中心となり,平康頼,僧俊寛,藤原成経(成親の子)らが加わった。俊寛の京都東山鹿ヶ谷の山荘で謀議をこらしたので,こう呼ばれる。…
…【吉田 晶】
【中世】
平氏が瀬戸内海の海賊的土豪を勢力下に収めて台頭したころ,備中の土豪の多くが平氏の忠実な家人となったのは備前と同様で,とくに《平家物語》にみえる瀬尾兼康(せのおかねやす)は,備中国都宇郡妹尾郷(現,岡山市妹尾)を本拠とした武士で,備前の難波二郎経遠・三郎経房兄弟らとともに平氏の有力な家人であった。鹿ヶ谷の陰謀の主謀者藤原成親(なりちか)が備前児島に流され,最後には備前・備中の境,有木(ありき)の別所(べつしよ)に移されてここで殺されたのも,この付近に平氏の有力な家人が多かった証拠である。 瀬尾兼康・宗康父子が源義仲軍と戦って討死したように,備中の平氏与党の武士たちの多くが平氏に殉じたあとには,大量の関東武士がこの地に地頭職を与えられて入部した。…
※「藤原成親」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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