精選版 日本国語大辞典 「藤原成親」の意味・読み・例文・類語
ふじわら‐の‐なりちか【藤原成親】
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(木村真美子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
平安後期の公卿(くぎょう)。中納言家成(ちゅうなごんいえなり)の三男。母は中納言経忠(つねただ)の女(むすめ)。後白河(ごしらかわ)上皇の寵臣(ちょうしん)。平治(へいじ)の乱(1159)では藤原信頼(のぶより)について敗れ解官されたが、平重盛(しげもり)と姻戚(いんせき)関係にあったため死罪を免れ、のち本官に復した。しかし、2年後に平時忠(ときただ)らと憲仁(のりひと)親王を東宮(とうぐう)にたてようと画策して失敗、ふたたび解官されたが翌年には許された。その後は参議を経て権(ごん)大納言に進んだ。1177年(治承1)に僧西光(さいこう)、俊寛(しゅんかん)らと東山の鹿(しし)ヶ谷(たに)において平氏討伐を企てたが、事前に漏れて捕らえられ、備前(びぜん)国(岡山県)に配流され途中で殺された。妻の1人に歌人藤原定家の姉がいる。
[朧谷 寿]
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1138~77.7.9
後白河上皇の近臣。鳥羽上皇の寵臣家成の三男。母は藤原経忠の女。「芙蓉の若殿上人」として後白河上皇に寵愛される。平治の乱で藤原信頼に連坐するが,平重盛との姻戚関係から死罪を免れる。1161年(応保元)に後白河上皇の皇子憲仁(のりひと)立太子事件に参画。66年(仁安元)参議正三位。のち権大納言正二位。所領をめぐる争いから延暦寺の訴えでたびたび解官・配流されるが,後白河上皇の保護により復任,しだいに平氏と対立。鹿ケ谷(ししがたに)の謀議にかかわり備前国に配流され,殺害された。
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…1177年(治承1)後白河法皇の近臣が平氏打倒を企てた陰謀事件。権大納言藤原成親,僧西光(藤原師光)が中心となり,平康頼,僧俊寛,藤原成経(成親の子)らが加わった。俊寛の京都東山鹿ヶ谷の山荘で謀議をこらしたので,こう呼ばれる。…
…【吉田 晶】
【中世】
平氏が瀬戸内海の海賊的土豪を勢力下に収めて台頭したころ,備中の土豪の多くが平氏の忠実な家人となったのは備前と同様で,とくに《平家物語》にみえる瀬尾兼康(せのおかねやす)は,備中国都宇郡妹尾郷(現,岡山市妹尾)を本拠とした武士で,備前の難波二郎経遠・三郎経房兄弟らとともに平氏の有力な家人であった。鹿ヶ谷の陰謀の主謀者藤原成親(なりちか)が備前児島に流され,最後には備前・備中の境,有木(ありき)の別所(べつしよ)に移されてここで殺されたのも,この付近に平氏の有力な家人が多かった証拠である。 瀬尾兼康・宗康父子が源義仲軍と戦って討死したように,備中の平氏与党の武士たちの多くが平氏に殉じたあとには,大量の関東武士がこの地に地頭職を与えられて入部した。…
※「藤原成親」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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