日本歴史地名大系 「西阿倉川村」の解説 西阿倉川村にしあくらがわむら 三重県:四日市市中部地区西阿倉川村[現在地名]四日市市西阿倉川・みゆきヶ丘(おか)東阿倉川村の西、海蔵(かいぞう)川の北に位置し、川を隔てて野田(のだ)村に対する。村の北は垂坂(たるさか)山の丘陵。「神鳳鈔」に「飽良河御厨」の名がある。江戸時代は初め幕府領、慶安郷帳(明大刑博蔵)では、田方五二六・八八九石に対し、畑方は二九・二七六石と著しく少ない。享保一一年(一七二六)以降加納家(のち上総一宮藩)領。もと、東阿倉川とともに一村であった。寛延元年(一七四八)北の羽津(はづ)五ヵ村(羽津・鵤・八幡・別名・吉沢)と東・西両阿倉川および小杉(こすぎ)村との間で村の北東にあたる志根我(しねが)野をめぐる境争論が生じた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by