小杉村(読み)こすぎむら

日本歴史地名大系 「小杉村」の解説

小杉村
こすぎむら

[現在地名]氷見市小杉

東は富山湾に面し、北はとまり村、南と西は藪田やぶた村。村の大部分は丘陵山地で占められ、しかも海近くにまで迫っているため耕地が少なく、泊村境瀬間田谷内せまだやちに水田がつくられている。海沿いに浜往来(海浜道)が通り、垣内は南からこし谷内やち・谷内・瀬戸せとの三つに分れる。至徳二年(一三八五)一二月一二日の足利義満御判御教書(遺編類纂所収飯尾文書)によれば、当村や耳浦みみうら庄内惣領分地頭職が飯尾兼行に安堵されている。永禄一二年(一五六九)一〇月二五日の神保長職宛行状(越佐史料所収川辺氏旧記)では唐之からの島・与川よかわ・小杉が神保覚広(信包)に宛行われている。近世初頭に泊村を分村したという(貞享元年「郷帳表」加賀藩農政史稿)正保郷帳では高二三三石余、田方二町四反余・畑方一三町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高八七石・免五ツ、小物成は山役九〇匁、網役一二〇匁四分(ほか二六二匁六分退転)、猟船櫂役三〇匁(ほか三七匁退転)、釣役五匁(ほか七匁退転)、塩竈役一一匁出来、塩役一〇匁四分出来(三箇国高物成帳)


小杉村
こすぎむら

[現在地名]中原区小杉・小杉町一―三丁目・小杉御殿こすぎごてん町一―二丁目・小杉陣屋こすぎじんや町一―二丁目

多摩川右岸に位置し、東は上丸子かみまりこ村、西は上小田中かみこだなか村、南は今井いまい村、北は多摩川および荏原えばら等々力とどろき(現東京都世田谷区)の飛地に接する。上小田中・今井両村との境を北西から南東へりよう用水が流れる。中原道が北東の上丸子村から村のほぼ中央を通り神地ごうじ橋を経て上小田中村へ至る。中町耕地なかまちこうち御殿跡ごてんあとなどの小字がある。宮内の常楽みやうちのじようらく寺蔵十二神将像胎内の寛永一三年(一六三六)一二月銘の修理札に「施主小杉郷 永塚五郎右衛門」とあり、田園簿に村名がみえる。


小杉村
こすぎむら

[現在地名]伊賀町小杉

阿拝郡の北端に位置し、北は近江国。柘植つげ川支流の河合かわい川上流(野田川)の発源地。西は東湯舟ひがしゆぶね(現阿山町)へ耕地をもって続く。耕地は山地に囲まれて狭い。天禄二年(九七一)五月二二日付阿拝郡司解案(東南院文書)によれば、湯船ゆぶね(現阿山町)の四至の東限に小榲こすぎ川とあり、小榲は湯船庄の東部に位置していたと推定できる。寛治三年(一〇八九)一一月二日付伊賀国湯船村田坪付注文案(村井敬義氏本東大寺古文書)に「小榲」「小榲新開」とみえ、二―五段の見作田が六ヵ所あったことが知れる。


小杉村
こすぎむら

[現在地名]越生町小杉

堂山どうやま村の南西、越辺おつぺ川支流の麦原むぎはら川流域にある山間村。曹洞宗建康けんこう寺は太田道真が退隠後住した館跡に建立したと伝え、道観橋どうかんばし陣屋じんやなどの地名が残る。慶長二年(一五九七)九月九日の入西郡越生之郷小杉村御検地詰帳(相馬家文書)が残り、それまでの年貢高に対し一〇二・五パーセントの打出しがなされ、年貢増徴が図られていた(埼玉県史)。田園簿では田高一〇四石余・畑高九一石余、幕府領。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳では高二三三石余で、旗本森領。


小杉村
こすぎむら

[現在地名]四日市市小杉町・小杉新こすぎしん町・野田のだ二丁目・大谷台おおたにだい・みゆきヶおか

生桑いくわ村の北東、海蔵かいぞう川の東岸、垂坂たるさか山の丘陵の中ほどにあり、北西には山之一色やまのいつしき村が位置する。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳に長木氏の知行分としてみえる「小菅」は小杉とも考えられる。江戸時代は初め幕府領、享保九年(一七二四)以降大和郡山藩領、享和元年(一八〇一)幕府領となる。しかし一部はおし(現行田市)藩領になったらしく、幕末には、忍藩領四九〇・五六五一石と、幕府領二五六・三六八九石の相給となった。享保九年頃の家数は九三、うち本百姓七一・水呑二二。人数四四一、うち男二〇二・女二三〇・僧侶九。馬一七。


小杉村
こすぎむら

[現在地名]平賀町小杉

ひら川中流右岸の自然堤防上にあり、南の石畑いしばたけ村、北の館田たちた村と家並が続く。西の平川岸に四ッ屋よつや村がある。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀郡の新田に高一一九・四一石とある。貞享四年(一六八七)検地帳に村高四五四・二九七石、うち田方四〇町五反二畝一四歩、四四二・六五石、畑方一町九反三畝一歩、一一・六四七石とあり、漆木八本、永荒畑二反一畝、空地一反、宝積院抱えの観音堂が記される。


小杉村
こすぎむら

[現在地名]富山市小杉

赤田あかだ村の東に位置し、村内を飛騨街道(布市道)が通る。富山藩領。初め布市ぬのいち村に含まれ、元禄―宝永(一六八八―一七一一)にわたって月岡つきおか野北辺の地を開発、享保(一七一六―三六)末頃に村立てされたといわれる。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高八六七石余・定免三ツ五厘、新田高一七石余・平均免三歩六厘余、定小物成は野役八七匁余。所属組は清水しみず村と同じ。慶応四年(一八六八)の家数三八(うち頭振一)・人数一六九(うち頭振三)であった(郡方人別書上帳)。宝永四年の月岡野組中歩帳(黒瀬家文書)によれば、布市村のうち小杉村として月岡野役銀八七匁九分、歩数は四万四千歩余に上り組中一四ヵ村のうち最大である。


小杉村
こすぎむら

[現在地名]白山町小杉

ふじ川の上流城立じようりゆう村の西北方上流にあり、西北へ大原おおはら村を経て西にし峠を越えて伊賀国奥鹿野おくがの(現名賀郡青山町)へ至る街道筋にあり、また西南へ塩見しおみ峠を経て霧生きりう(現青山町)へ至る元取もとどり越への街道が通る。布引ぬのびき山地の南麓の山間部にある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には七三石七斗とある。近世は慶長一三年(一六〇八)以降津藩領。寛延年中(一七四八―五一)の家数二七、人数一〇三、牛九、寺院に西大寺がある(宗国史)


小杉村
こすぎむら

[現在地名]横越村小杉

阿賀野川左岸に立地する大村で、南は横越村の耕地、北は蔵岡くらおか(現新潟市)に接する。上杉氏支配の頃、鈴木勘右衛門が開拓し深田村と称したが、その後小杉郷右衛門の支配となり改称したという(中蒲原郡誌)。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)には「百九拾六石四斗六升 横越嶋村木津相見小杉一市村共」とあり、同一五年頃の給知方ほど役帳(同書)には「壱斗 こん屋 小杉村」とある。正保国絵図は五二〇石余、沢海藩領。元禄郷帳は三一四石二斗余、北東に枝集落平山ひらやまがあり、元禄五年(一六九二)の小杉村反別帳(資料大江山村史)に「六畝弐拾九歩 平右衛門山諏訪社領」と記され、また同一六年の永代売渡申田方証文事(田村家文書)には「五拾歩 平右衛門山村境ノ田方」とあって、古くは平右衛門へいえもん山と称された。


小杉村
こすぎむら

[現在地名]砺波市小杉

小島おじま村の東、庄川の分流旧新又あらまた川沿岸の微高地にある。南は紺屋島こうやじま村・杉木すぎのき村。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、若林わかばやしの内で役家数三。正保郷帳では高四九三石余、田方三〇町三反余・畑方二町五反、新田高五四石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高六九五石・免四ツ五歩、小物成は野役一四匁・鱒役一匁。その後享保九年(一七二四)の畑直高六石余などが加わった(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)には一七軒五歩、うち五歩は無家役(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。所属組は中神なかがみ村に同じ。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)では高七四三石余・免四ツ五歩、宝永元年(一七〇四)新開、文化九年(一八一二)組高帳入の新田は一九三石、一免下三ツ五歩。


小杉村
こすぎむら

[現在地名]寺井町小杉

大長野おおながの村の南、手取川とかけはし川に挟まれた平坦部に立地。元和元年(一六一五)の篠島豊前代官所在々目録(篠島文書)によれば蔵入分の高三〇石余、免二ツ九歩、定納高は八石余。正保郷帳によれば高六八五石余、田方三九町余・畑方一町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(小杉区有文書)では高六五九石、免三ツ八歩、小物成は畳表役四匁。天明五年(一七八五)の村鑑(森文書)によれば家数二六(百姓一七・頭振八・孀一)、人数一二五(男五八・女六七)、うち男一八人・女七人が奉公に出ている。


小杉村
おすぎむら

[現在地名]明智町東方ひがしかた 小杉

門野かどの村から南へ山越えした山中にある小村。慶長郷帳に「おすき村」とあり、高五一石余。正保郷帳に田方四四石・畑方七石余とある。嘉永二年(一八四九)の土地所持状況をみると、一石以下の零細な者が三三・三パーセント、一石から五石は五七・一パーセント(明智町誌)。明治二年(一八六九)の村明細帳によれば、高五一石余、田三町七反余・畑七反余、家数一七、人数男四九・女四〇、馬六。八王子神社は慶長一八年(一六一三)の創建という。明治七年小杉・沢中さわなか峰山みねやま落倉おちくら馬木ばき高波たかなみ馬坂まざか村の七ヵ村は合併して東方村となる。このうち岩村藩領沢中村を除く六ヵ村は、江戸時代より東方六ヵ村としてまとまった行動をしている。


小杉村
こすぎむら

[現在地名]下村小杉

大白石おおしらいし村の北東に位置する。寛永一〇年(一六三三)四月の牛ヶ首用水在々水割帳(牛ヶ首用水土地改良区蔵)に村名がみえ、取水樋の大きさは縦四寸二歩・横五寸。正保郷帳によると高四〇六石余、田方二六町三反余・畑方七反、ほかに新田高四六石余。寛文三年(一六六三)の役家数六、うち肝煎家一(「川西家高付帳」川合家文書)。同一〇年の村御印では草高四六五石、免四ツ二歩、小物成は川役三匁(三箇国高物成帳)。その後元禄八年(一六九五)に検地引高九四石が発生、天明六年(一七八六)の草高は三七一石。寛保二年(一七四二)の散小物成三匁、百姓家数六・頭振家数七、神明二社を祀る(「高免等書上帳」折橋家文書)


小杉村
こすぎむら

[現在地名]上川村日野川ひのかわ 小杉

常浪とこなみ川左岸に位置し、北東は芹田せりだ村。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「小杉 百六十九石六斗一升」とある。元和六年(一六二〇)の漆木役は三三三本(津川旧記)。「新編会津風土記」に家数一三とある。会津へ移入する塩の塩俵を編んでいた当村は他の五村とともに俵の値上げを願出ている(欠年「願書」伊藤郡太氏蔵)


小杉村
こすぎむら

[現在地名]山中町小杉町

大聖寺だいしようじ川上流、坂下さかのしも村の東に位置し、集落は曲流地左岸にあってわずかの平地があるほかはすべて山地である。正保郷帳によると高六六石余、田方一町五反余・畑方三町三反余、物成高二八石余。「江沼志稿」では村高はやや減少しているが、免は四ツ三歩で周囲の村々に比して高率である。また小物成に山役があり、家数一五・人数七八、馬三。鎮守は天満社(俗に十一面観世音という)。天満社は現在小杉神社と称し、菅原道真を祀る。


小杉村
こすげむら

[現在地名]柏崎市小杉

よね山北麓に孤立した村。頸城くびき郡に属する。吉尾よしお村から谷根たんね村へ山越えに通じる道は北陸道の古道ともいう。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「こすげ村」と記し、知行人は御料所・豊田平左衛門・大井田平右衛門の相給。本納四・六石、縄高二一・〇五九石、役家数二・人数六とある。近世初めは高田藩領。


小杉村
こすぎむら

[現在地名]福光町梅原うめはら

梅原村の北にある。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、広瀬組に属し、役家数五。正保郷帳では高一〇六石余、田方六町九反余・畑方二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高九〇石、免四ツ(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には三清元組に属し、家数四・人数一八、肝煎は在房ありふさ村と兼帯の長次郎、組合頭は四兵衛(「三清元組覚帳」同文書)


小杉村
こすぎむら

[現在地名]武生市小杉町

丹生山地を流れる天王てんのう川左岸、粟野あわの村の南にある。中世は山干飯やまかれい保の地。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に村名がみえ、高一五七・七〇二石、先高一二〇石余・出分三六石余。正保郷帳によると、田方一四九石余・畠方八石余。


小杉村
こすぎむら

[現在地名]門前町小杉

矢徳荻平やとくおぎひら村の東の丘陵と山地に立地。もと同村の枝村で小杉新と称した。承応三年(一六五四)の村御印には小杉新とみえ、高六石余、免二ツ二歩八厘(能登奥両郡収納帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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