朝日日本歴史人物事典 「赤松洞松院」の解説
赤松洞松院
室町時代の武家の女性。本名めし。細川勝元の娘。竜安寺の尼だったが,明応2(1493)年4月,弟(兄ともいう)政元の命で還俗し赤松政則の後妻となった。細川氏と赤松氏はかねてより親しい関係にあったが,特に当時,室町幕府内で畠山政長と覇権を争っていた政元が,赤松氏を自派に確実につなぎおくためにこの結婚を成立させたものと思われる。婚礼の2日後,政元はクーデタによって将軍足利義材(義稙)を追放して義澄を擁立,次いで政長を敗死させた。こうして政元の独裁政権が成立する。一方めしの夫政則は同5年に病死し,一族の七条政資の子義村が養子として跡を継いだ。当時の義村の年齢は不詳だが,庶流から家督となった義村には一族内部にも敵対勢力があり,また老臣浦上則宗の台頭もあってその地位は不安定だった。そのため弟政元の権力を背後に持つめしが,義村の後見人としてにわかに政治的発言力を強めることになった。政則の死から永正14(1517)年に至る21年間,赤松領国における所領安堵や諸役免除はすべて「つほね」の黒印が押された彼女の消息でなされている。政元の死後はその養子高国を支持するが,義村は政元のもうひとりの養子澄元を支持して両者は対立。さらに義村が老臣浦上村宗と対立するとめしは村宗を支持し,大永2(1522)年の村宗による義村弑逆をも是認していたといわれる。
(榎原雅治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報