室町中期の武将。持之の子。幼名六郎。1445-49年(文安2-宝徳1),52-64年(享徳1-寛正5),68-73年(応仁2-文明5)の3度にわたって管領となる。将軍足利義政の初め,畠山持国の勢力が強く,勝元は山名宗全の娘を夫人としてこれと結び持国に対抗したが,持国の死後は互いに反目を深めた。この対立は1458年(長禄2)の赤松家再興問題で一挙に表面化した。細川氏は嘉吉の乱で没落した赤松氏を再興することによって,これと領国を接する山名氏を牽制しようとした。一方,赤松氏により加賀半国守護を奪われた富樫成春は山名宗全を頼ったため,両者の関係はさらに悪化した。両者の対立が表面化した時期はちょうど畠山,斯波の両管領家をはじめとする諸国の守護大名家において家督をめぐる争いが激化しはじめた時期でもあった。畠山家では持国の死後,養嗣子の政長と実子義就との争いが生じていた。一方,斯波家でも義健の没後,養嗣子義敏と家臣甲斐常治ら重臣とが対立して義敏は家督を退けられ,代わって渋川義鏡の子義廉が斯波家を継ぐと,両者の間で相続争いが生じた。将軍義政は1465年(寛正6)日野富子との間に義尚が誕生すると,還俗させた弟義視との家督継承の約束を反故としたため,義視と義尚とに家督争いが生じ,それぞれが山名宗全,細川勝元を頼り,前述の畠山,斯波両家の争いもこの両派の対立に結びついていき,応仁・文明の乱勃発の原因となった。戦闘が膠着状態に陥り勝敗がいまだ決しない73年,義父宗全死後2ヵ月のちに,勝元も没した。法名竜安寺宗宝。勝元は和歌,連歌に心をよせ,東常縁に師事し,また儒学にも長じて,太田道灌が《孟子》の教えを請うほどであった。一方で禅に傾倒し,妙心寺の義天を師と仰いで,その別荘地に竜安寺の基となる庵を開き,妙心寺など禅院の復興にも力を貸している。
執筆者:小林 保夫
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(森田恭二)
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室町中期の武将、室町幕府の管領(かんれい)。幼名聡明丸(そうめいまる)。右京大夫(うきょうのだいぶ)、一時武蔵守(むさしのかみ)を兼ねる。持之(もちゆき)の子。1442年(嘉吉2)13歳で細川宗家を継ぎ、摂津、丹波(たんば)、讃岐(さぬき)、土佐の守護を兼任。45年(文安2)16歳で管領となり、幼少の将軍義政(よしまさ)を助けたのをはじめ、前後3回、通算20年余り管領に在任。山名宗全(やまなそうぜん)(持豊(もちとよ))の女(むすめ)を妻とし、宗全と結んで畠山(はたけやま)氏の内争に干渉したが、ついで政所執事(まんどころしつじ)伊勢貞親(いせさだちか)と結んで赤松氏の再興を助け、斯波義敏(しばよしとし)、畠山政長(まさなが)を援助して、斯波義廉(よしかど)、畠山義就(よしなり)を援助する宗全と対立、ついに味方の諸大名を京都に集め67年(応仁1)大乱に突入した(応仁(おうにん)の乱)。勝元は将軍義政(よしまさ)を擁し、東軍の総大将として宗全の率いる西軍と戦ったが、勝敗が決しないうち宗全が没し、勝元も約2か月後の文明(ぶんめい)5年5月11日病没した。生活は華美であったが、和歌、絵画、犬追物(いぬおうもの)をたしなみ、医術を研究し、また妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)、雪江宗深(せっこうそうしん)に参禅し、京都に龍安寺(りょうあんじ)、丹波に龍興(りょうこう)寺を創建した。法名龍安寺宗宝。
[小川 信]
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1430~73.5.11
室町中期の武将。持之(もちゆき)の嫡子。聡明丸・六郎。右京大夫。法名竜安寺宗宝仁栄。1442年(嘉吉2)父の死去で家督を継承,摂津・丹波・讃岐・土佐4カ国守護となる。若年のため叔父持賢の補佐をうけた。将軍足利義政のもとで管領を3度勤める。畠山持国と対抗するため,はじめ山名持豊(宗全)と結んでその女婿となるが,赤松氏の再興,斯波・畠山両氏の家督争い,さらには将軍家継嗣問題をめぐって対立を深めた。67年(応仁元)1月,持豊が勝元の支援する管領畠山政長の失脚をはかったため両者は兵を京都に集結,応仁・文明の乱が勃発した。将軍義政を擁し,東軍の総大将として持豊率いる西軍と争ったが,勝敗が決まらないまま持豊没後まもなく病没。
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…室町時代末期にあたる1467‐77年(応仁1‐文明9)に京都を中心に全国的規模で展開された内乱。この乱では,東軍(細川勝元方)と西軍(山名持豊(宗全)方)に分かれて,全国各地ではげしい合戦が展開され,中央の状況だけではなく各地の政治的状況が反映していた。
【原因】
[家督争い]
乱の原因は複雑な要素からなっていたが,その中でも表面だった要因の一つに,有力守護家内部における家督争いと,有力守護大名間の対立があげられる。…
※「細川勝元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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