細川勝元(読み)ホソカワカツモト

デジタル大辞泉 「細川勝元」の意味・読み・例文・類語

ほそかわ‐かつもと〔ほそかは‐〕【細川勝元】

[1430~1473]室町中期の武将。法名、竜安寺宗宝。再三、管領かんれいとなり、応仁の乱では将軍足利義政を助けて東軍を率いて戦ったが、陣中に没した。禅宗を信仰し、京都に竜安寺を創建。

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精選版 日本国語大辞典 「細川勝元」の意味・読み・例文・類語

ほそかわ‐かつもと【細川勝元】

  1. 室町中期の武将。通称九郎。管領細川持之の子。応仁元年(一四六七)応仁の乱が起こると将軍義政と後土御門天皇を奉じて山名宗全と戦ったが、勝敗がつかないうち病没。禅を信じ、京都に龍安寺建立。永享二~文明五年(一四三〇‐七三

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改訂新版 世界大百科事典 「細川勝元」の意味・わかりやすい解説

細川勝元 (ほそかわかつもと)
生没年:1430-73(永享2-文明5)

室町中期の武将。持之の子。幼名六郎。1445-49年(文安2-宝徳1),52-64年(享徳1-寛正5),68-73年(応仁2-文明5)の3度にわたって管領となる。将軍足利義政の初め,畠山持国の勢力が強く,勝元は山名宗全の娘を夫人としてこれと結び持国に対抗したが,持国の死後は互いに反目を深めた。この対立は1458年(長禄2)の赤松家再興問題で一挙に表面化した。細川氏嘉吉の乱で没落した赤松氏を再興することによって,これと領国を接する山名氏を牽制しようとした。一方,赤松氏により加賀半国守護を奪われた富樫成春は山名宗全を頼ったため,両者の関係はさらに悪化した。両者の対立が表面化した時期はちょうど畠山,斯波の両管領家をはじめとする諸国の守護大名家において家督をめぐる争いが激化しはじめた時期でもあった。畠山家では持国の死後,養嗣子の政長と実子義就との争いが生じていた。一方,斯波家でも義健の没後,養嗣子義敏と家臣甲斐常治ら重臣とが対立して義敏は家督を退けられ,代わって渋川義鏡の子義廉が斯波家を継ぐと,両者の間で相続争いが生じた。将軍義政は1465年(寛正6)日野富子との間に義尚が誕生すると,還俗させた弟義視との家督継承の約束を反故としたため,義視と義尚とに家督争いが生じ,それぞれが山名宗全,細川勝元を頼り,前述の畠山,斯波両家の争いもこの両派の対立に結びついていき,応仁・文明の乱勃発の原因となった。戦闘が膠着状態に陥り勝敗がいまだ決しない73年,義父宗全死後2ヵ月のちに,勝元も没した。法名竜安寺宗宝。勝元は和歌,連歌に心をよせ,東常縁に師事し,また儒学にも長じて,太田道灌が《孟子》の教えを請うほどであった。一方で禅に傾倒し,妙心寺の義天を師と仰いで,その別荘地に竜安寺の基となる庵を開き,妙心寺など禅院の復興にも力を貸している。
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朝日日本歴史人物事典 「細川勝元」の解説

細川勝元

没年:文明5.5.11(1473.6.6)
生年:永享2(1430)
室町時代の武将,室町幕府管領。聡明丸,六郎。右京大夫,武蔵守。持之の子。摂津・丹波・讃岐・土佐国守護。嘉吉2(1442)年8月,父の病死により13歳で家督を継ぐが,幼少のため叔父細川持賢がこれを後見。文安2(1445)年3月,畠山持国のあとを受けて管領となり,宝徳1(1449)年退任して持国に替わったが,享徳1(1452)年から寛正5(1464)年まで再任,3度目は応仁2(1468)年から文明5(1473)年の死去まで,通算21年間同職に在任した。軍事よりも謀略,駆け引きに長じ,嘉吉の変ののち強大化した山名持豊(宗全)の女婿となってこれと結ぶ一方,寛正1(1460)年畠山義就を失脚させたのも彼の手腕とみられる。 しかし,赤松家再興を支持したことにより次第に持豊と対立するようになり,寛正6年,やはり持豊の女婿であった斯波義廉を退けて同義敏を立てたことで,両者の対立は決定的となる。将軍家の跡目を巡って勝元が足利義視を,持豊が足利義尚を支援したことは,応仁1年に応仁の乱が勃発する一因となった。勝元は東軍総帥として畠山,斯波,将軍家の後継者としてそれぞれ,政長,義敏,義視を支援し,義就,義廉および日野富子・義尚母子を支援する持豊と抗争を繰り返した。しかし膠着状態が続くなか,戦争の主導権は漸次,赤松政則,斎藤妙椿ら有力守護・守護代層の手に移っていき,文明5年3月持豊が病死したのに続いて勝元も同年5月病死する。妙心寺の義天玄承らに参禅し,山城竜安寺のほか丹波に竜興寺を創建。また和歌,絵画,鷹狩,犬追物などを嗜み,医術を研究して医書『霊蘭集』を著すなど多趣味であった。墓は竜安寺にある。

(森田恭二)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「細川勝元」の意味・わかりやすい解説

細川勝元
ほそかわかつもと

[生]永享2 (1430)
[没]文明5 (1473).5.11. 京都
室町時代中期の武将。細川持之の子。幼名聡明丸,通称は九郎。法名宗宝。右京大夫,武蔵守。従四位下。文安2(1445)年以降,三たび管領(在職 1445~49,1452~64,1468~73)となった。讃岐,土佐,丹波,摂津の守護となり,畿内近国を中心に領国制を展開した代表的な領国大名。やがて山名持豊(宗全)と対立するにいたり,ついに応仁1(1467)年応仁の乱が起こった。勝元は将軍足利義政をはじめ後土御門天皇後花園天皇を奉じ,おおむね京都東北に陣取り(東軍),十余万の兵を率いて,持豊の率いる西軍と戦った。勝敗はいっこうに決せず,文明5(1473)年3月に持豊が,5月には勝元が相次いで死んだ。勝元は禅宗への帰依があつく,山城に龍安寺,丹波に龍興寺を興した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「細川勝元」の意味・わかりやすい解説

細川勝元
ほそかわかつもと
(1430―1473)

室町中期の武将、室町幕府の管領(かんれい)。幼名聡明丸(そうめいまる)。右京大夫(うきょうのだいぶ)、一時武蔵守(むさしのかみ)を兼ねる。持之(もちゆき)の子。1442年(嘉吉2)13歳で細川宗家を継ぎ、摂津、丹波(たんば)、讃岐(さぬき)、土佐の守護を兼任。45年(文安2)16歳で管領となり、幼少の将軍義政(よしまさ)を助けたのをはじめ、前後3回、通算20年余り管領に在任。山名宗全(やまなそうぜん)(持豊(もちとよ))の女(むすめ)を妻とし、宗全と結んで畠山(はたけやま)氏の内争に干渉したが、ついで政所執事(まんどころしつじ)伊勢貞親(いせさだちか)と結んで赤松氏の再興を助け、斯波義敏(しばよしとし)、畠山政長(まさなが)を援助して、斯波義廉(よしかど)、畠山義就(よしなり)を援助する宗全と対立、ついに味方の諸大名を京都に集め67年(応仁1)大乱に突入した(応仁(おうにん)の乱)。勝元は将軍義政(よしまさ)を擁し、東軍の総大将として宗全の率いる西軍と戦ったが、勝敗が決しないうち宗全が没し、勝元も約2か月後の文明(ぶんめい)5年5月11日病没した。生活は華美であったが、和歌、絵画、犬追物(いぬおうもの)をたしなみ、医術を研究し、また妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)、雪江宗深(せっこうそうしん)に参禅し、京都に龍安寺(りょうあんじ)、丹波に龍興(りょうこう)寺を創建した。法名龍安寺宗宝。

[小川 信]

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百科事典マイペディア 「細川勝元」の意味・わかりやすい解説

細川勝元【ほそかわかつもと】

室町幕府の管領(かんれい)。持之(もちゆき)の子。摂津・丹波・讃岐(さぬき)・土佐の守護。1445年以後3度約20年にわたって管領を勤めた。将軍継嗣問題,斯波(しば)・畠山両家の家督争いなどから山名宗全と対立,応仁・文明の乱を起こした。勝敗がきまらぬうち陣没。禅宗に帰依し,京都に竜安(りょうあん)寺を建てた。→足利義政
→関連項目伊勢貞親畠山政長細川氏

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「細川勝元」の解説

細川勝元
ほそかわかつもと

1430~73.5.11

室町中期の武将。持之(もちゆき)の嫡子。聡明丸・六郎。右京大夫。法名竜安寺宗宝仁栄。1442年(嘉吉2)父の死去で家督を継承,摂津・丹波・讃岐・土佐4カ国守護となる。若年のため叔父持賢の補佐をうけた。将軍足利義政のもとで管領を3度勤める。畠山持国と対抗するため,はじめ山名持豊(宗全)と結んでその女婿となるが,赤松氏の再興,斯波・畠山両氏の家督争い,さらには将軍家継嗣問題をめぐって対立を深めた。67年(応仁元)1月,持豊が勝元の支援する管領畠山政長の失脚をはかったため両者は兵を京都に集結,応仁・文明の乱が勃発した。将軍義政を擁し,東軍の総大将として持豊率いる西軍と争ったが,勝敗が決まらないまま持豊没後まもなく病没。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「細川勝元」の解説

細川勝元 ほそかわ-かつもと

1430-1473 室町時代の武将。
永享2年生まれ。細川持之(もちゆき)の子。文安2年以後,3度管領(かんれい)となる。将軍家や畠山・斯波(しば)氏の後継争いをめぐって山名持豊(もちとよ)(宗全)と対立。応仁(おうにん)・文明の乱では東軍の総大将としてたたかったが,文明5年5月11日陣中で病死した。44歳。禅に傾倒し,竜安(りょうあん)寺,竜興寺を創建。和歌,絵画,医術にも通じた。通称は六郎。
【格言など】人の器によりそれぞれ使うは君の職也,故に見損ずる時は君の過也(「君慎」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「細川勝元」の解説

細川勝元
ほそかわかつもと

1430〜73
室町中期の武将
1445年以降3度管領となる。将軍足利義政,畠山・斯波 (しば) 氏らの後嗣をめぐる争いで山名持豊(宗全)と対立。'67年応仁の乱では,東軍の主将として将軍義政を擁し,畠山政長・斯波義敏らを後援し,持豊を主将とする西軍と戦ったが乱中に病死した。禅に帰依,竜安寺をおこした。

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世界大百科事典(旧版)内の細川勝元の言及

【応仁・文明の乱】より

…室町時代末期にあたる1467‐77年(応仁1‐文明9)に京都を中心に全国的規模で展開された内乱。この乱では,東軍(細川勝元方)と西軍(山名持豊(宗全)方)に分かれて,全国各地ではげしい合戦が展開され,中央の状況だけではなく各地の政治的状況が反映していた。
【原因】

[家督争い]
 乱の原因は複雑な要素からなっていたが,その中でも表面だった要因の一つに,有力守護家内部における家督争いと,有力守護大名間の対立があげられる。…

※「細川勝元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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