改訂新版 世界大百科事典 「赤松政則」の意味・わかりやすい解説
赤松政則 (あかまつまさのり)
生没年:1455-96(康正1-明応5)
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…赤松氏の有力被官で,備前和気郡三石城主。赤松政則を補佐し,嘉吉の乱で没落した主家赤松氏の再興に尽力した。すなわち,応仁の乱では細川勝元に属して活躍,赤松氏が山名氏に代わって播磨・備前・美作3国の守護を回復するのに寄与した。…
…また細川勝元,畠山政長と15年間にわたって,細川方で管領の職を独占してきた体制が打破され,山名・細川の対立が表面化した。このような状況の中で,15日には細川勝元,細川成之,京極持清,赤松政則らが共同して室町殿に出仕し,将軍義政に義就の治罰を強要しようとして,山名方に阻止されるという事件が起きた。このため翌16日には逆に将軍から細川勝元に対して,政長に味方することを禁ずる命令が出された。…
…則村が義貞を欺いて築城の日時をかせいだ話,欺かれたことを知って激怒した義貞軍6万余騎に50余日も攻められて落ちなかった話,天険を利した城には登るすべもなく,城中には播磨,美作の高名な弓の名人800人がこもって果敢に応戦した話などは《太平記》に詳しい。白旗城は赤松氏の象徴的な本城であったが,嘉吉の乱に山名氏に攻められて落城し,赤松政則が飾磨郡に置塩城を築いてこれを本城としたため,以後再興されずに廃城となった。浅野文庫所蔵の〈諸国当城古城之図〉にある播磨国白旗城図は近世の踏査によるものらしく,ほぼ現状に近い。…
…赤松氏は福岡に守護所をおき,備前を東西に2分して浦上,松田両氏をそれぞれ守護代としたが,嘉吉の乱で没落した。代わって山名教之が戦功の賞として備前守護職を得たが,南朝の遺臣たちに奪われた神璽奪回の勲功によって赤松政則が赤松氏を再興したとき,政則は備前新田荘を所領として与えられ,入部をめぐって山名教之と紛争を起こした。応仁・文明の乱に赤松政則は東軍に属し,播磨に下国して播磨,備前,美作の旧領3ヵ国を回復して守護に任ぜられた。…
※「赤松政則」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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