朝日日本歴史人物事典 「赤松政則」の解説
赤松政則
生年:康正1(1455)
室町時代の武将。加賀半国守護,のち播磨・備前・美作守護。時勝の子。幼名次郎法師丸。兵部少輔,左京大夫。嘉吉の乱で播磨城山城が落城したとき父時勝は9歳であったが,赤松満政に託されて城を脱出,天隠竜沢に匿われて成長した。時勝の早世後,赤松氏の遺臣たちはその遺児次郎法師丸(政則)を担いで主家再興を企て,長禄2(1458)年吉野に南朝の皇胤を襲い,嘉吉3(1443)年に内裏から奪い去られたままになっていた神璽を奪還した。これにより次郎法師丸には加賀半国守護職と備前新田荘が与えられた。この再興劇の裏には,播磨の国人上月氏の出身で当時幕政に深く関与していた蔭凉軒主季瓊真蘂や,赤松氏の旧領を得て強大化した山名氏の勢力を快く思わない細川勝元による将軍足利義政への口添えがあった。以後赤松氏は一貫して細川氏と親しい関係を保つことになる。 寛正6(1465)年次郎法師丸は元服して政則と名乗り,応仁の乱では東軍(細川方)に属して戦い,まもなく播磨・備前・美作から山名軍を追って3カ国守護職を回復した。将軍足利義政・義尚との関係も良好で,文明9(1477)年には侍所頭人に任じられている。しかし同15年から山名氏の播磨進攻が始まり,同年暮れには播但国境の真弓峠で大敗を喫した。このため一時は重臣浦上則宗や小寺則職に廃立を企てられるほどであった。蔭凉軒主亀泉集証(播磨後藤氏の出身)の斡旋で何とか和解がなされたが,山名氏の攻撃はなおも続き,備前福岡,播磨片島などで激戦があった。長享2(1488)年ようやく山名氏を撃退,明応2(1493)年には勝元の娘めし(洞松院)と結婚して細川氏との関係は一層深まった。同5年閏2月,赤松氏としては最高の従三位に叙せられたが,同年4月播磨坂田荘の長円寺で急逝した。
(榎原雅治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報