細川政元(読み)ホソカワマサモト

デジタル大辞泉 「細川政元」の意味・読み・例文・類語

ほそかわ‐まさもと〔ほそかは‐〕【細川政元】

[1466~1507]室町後期の武将勝元の子。足利義澄を擁して将軍とし、管領となって幕政の実権を握った。養子とした澄之・澄元高国の家督争いにまき込まれ、澄之派に暗殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「細川政元」の意味・読み・例文・類語

ほそかわ‐まさもと【細川政元】

  1. 室町後期の武将。勝元の子。応仁の乱後、幕府の実権を握る畠山政長を敗死においやり将軍足利義稙(よしたね)放逐、義稙の甥の義澄を将軍とした。山城国をはじめ七か国の守護を兼ね、天下無双の権威といわれた。実子がなく前関白九条政基の子澄之を迎えたが、さらに細川成之の孫澄元を養子とし、澄之の家督相続を改めたため澄之派により謀殺された。文正元~永正四年(一四六六‐一五〇七

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百科事典マイペディア 「細川政元」の意味・わかりやすい解説

細川政元【ほそかわまさもと】

室町後期の武将。勝元の子。1473年家督を相続,摂津など4ヵ国守護継承。1493年将軍義材(よしき)を廃し,足利政知の子僧清晃(足利義澄)を将軍として自らは管領に就任した。修験道に凝って妻帯しなかったため,九条政基の子澄之と細川成之の孫澄元を養子にとった。政元は政務を省みなかったため,澄之・澄元の両者間で家督紛争が起こり,ついに澄之方に暗殺された。
→関連項目芥川城足利義稙宗祇畠山政長細川高国六角征伐

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朝日日本歴史人物事典 「細川政元」の解説

細川政元

没年:永正4.6.23(1507.8.1)
生年:文正1(1466)
室町時代の武将。幼名聡明丸。通称九郎。右京大夫。勝元の子。文明18(1486)年7月管領となる。いったんは畠山政長に譲るが,長享1(1487)年8月,延徳2(1490)年7月と短期間復職したのち,明応3(1494)年12月から永正4(1507)年に死去するまで同職を独占した。摂津,丹波,讃岐,土佐の守護。文明14年閏7月内衆薬師寺元長らに命じて摂津国人茨木氏を討ち,長享1年9月には将軍足利義尚の近江出陣に従った。同2年9月,京都で土一揆が起こり下京を焼いたが,これを鎮圧。延徳2年8月近江守護に補任され,翌年8月将軍足利義材(義稙)の近江出陣にも参陣している。実子がなく,延徳3年2月九条政基の子澄之を養子とし,文亀3(1503)年5月には澄元も養子として阿波から迎えられた。政元に実子がなかった理由として,その男色と修験道への没頭がいわれている。『政基公旅引付』には薬師寺元一が政元の男色を暴露した記事がみられ,修験道修行のため遊行に出ようとしたこともあった。明応2年閏4月,内衆の安富元家,上原元秀らを派遣して,河内の畠山基家討伐中の将軍義材と畠山政長を攻撃,政長を自殺させ義材を捕らえた。新将軍に義澄を擁立して権力手中にするが,義材は脱出して抵抗を続けた。永正1年9月には内衆薬師寺元一の反乱が起こり,赤沢朝経も一時これに呼応。この乱は鎮圧したものの,澄之の擁立を図る内衆香西元長,薬師寺長忠らにより自邸で入浴中暗殺された。

(森田恭二)

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改訂新版 世界大百科事典 「細川政元」の意味・わかりやすい解説

細川政元 (ほそかわまさもと)
生没年:1466-1507(文正1-永正4)

室町後期の武将。幼名聡明丸,九郎。官途は右京大夫,武蔵守。勝元の嫡子として応仁の乱中に家を継ぎ,摂津,丹波,讃岐,土佐の守護に就任。乱後は将軍権力の強化を図る足利義尚,義材(義稙)に抵抗,1493年(明応2)将軍義材を廃立し政敵畠山政長を敗死させ,幕府の実権を一手に掌握した。みずから擁立した新将軍義澄の加冠に際し管領に就任,以後細川氏家督のみが管領となる先蹤を開いた。しかしこの政変で畠山尚順をはじめ遠国大名の離反を招き,幕府が畿内政権に矮小化する契機ともなった。施政の前半は幕府の諸機構を自己の勢力下に収めるなど専制化に意欲を見せたが,晩年は修験に凝って妻帯せず,ために関白九条政基の子澄之と細川成之の孫澄元の2名を猶子とした。この両者の間に家督紛争が生じ,被官層が分裂して争い,三好之長に擁立された澄元の台頭を恐れる澄之に暗殺された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「細川政元」の意味・わかりやすい解説

細川政元
ほそかわまさもと
(1466―1507)

室町末期の武将。室町幕府の管領(かんれい)。摂津・丹波(たんば)・土佐守護。応仁(おうにん)の乱中の1473年(文明5)父勝元(かつもと)の死により、細川一族でも管領の家柄である京兆(けいちょう)家を継承。86年以後、三度短期間管領となるが、93年(明応2)畠山政長(はたけやままさなが)を殺害して将軍義材(よしき)(義稙(よしたね))を廃し義高(よしたか)(義遐(よしとお)・義澄(よしずみ))を擁立、幕府の実権を握り、細川京兆家による専制体制を確立した。94年以降、没するまで13年間管領。政元は修験道(しゅげんどう)に凝り妻をめとらず、子もなく、九条政基(くじょうまさもと)の子を養子として澄之(すみゆき)、一族細川義春(よしはる)の子を養子として澄元(すみもと)と名のらせた。このため細川氏の家臣も二派に分裂し、政元は永正(えいしょう)4年6月23日澄之派の香西元長(こうざいもとなが)、薬師寺長忠(やくしじながただ)らに浴室で暗殺された。

[矢田俊文]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「細川政元」の解説

細川政元
ほそかわまさもと

1466~1507.6.23

戦国期の武将。勝元の子,母は山名持豊の養女。聡明丸・九郎。右京大夫。摂津・丹波・讃岐・土佐4カ国守護。管領を4度つとめた。1493年(明応2)足利義材(よしき)(義稙(よしたね))を廃して義澄を将軍に擁立,畠山政長を討ち細川京兆(けいちょう)家の畿内支配の確立をはかった(明応の政変)。はじめ細川澄之を養子としたが,1506年(永正3)阿波国守護家の澄元を家督に定めた。畿内の実権掌握をめぐって内衆(うちしゅう)と対立しており,家督を廃された澄之を擁した香西(こうざい)元長らに暗殺された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「細川政元」の意味・わかりやすい解説

細川政元
ほそかわまさもと

[生]文正1(1466)
[没]永正4(1507).6.23. 京都
室町時代中期の武将,管領 (在職 1486,87~?,90,94~1507) 。勝元の子。道号,雲関。法諱,宗興。足利義政の死後権勢をふるった畠山政長を,明応2 (1493) 年に倒し,11代将軍足利義澄を擁して幕府の中心となったが,養子澄之,澄元の家督争いにより,澄之派の香西元長らに殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「細川政元」の解説

細川政元 ほそかわ-まさもと

1466-1507 室町-戦国時代の武将。
文正(ぶんしょう)元年生まれ。細川勝元の子。明応2年畠山政長をたおし,足利義澄(よしずみ)を将軍にたてて管領(かんれい)となり,実権をにぎる。修験道にこって政務を家臣にまかせ,養子細川澄之(すみゆき)・澄元の家督争いで澄之派の香西元長(こうざい-もとなが)らに永正(えいしょう)4年6月23日殺された。42歳。幼名は聡明丸。

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旺文社日本史事典 三訂版 「細川政元」の解説

細川政元
ほそかわまさもと

1466〜1507
室町後期の武将
管領。勝元の子。応仁の乱(1467〜77)後,足利将軍家の衰微に乗じ,1493年足利義澄 (よしずみ) を擁して,将軍義稙 (よしたね) ・畠山政長らと争い,義澄を11代将軍として権勢をふるった。のち家督争いに巻き込まれ殺された。

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367日誕生日大事典 「細川政元」の解説

細川政元 (ほそかわまさもと)

生年月日:1466年12月20日
戦国時代の武将;室町幕府管領
1507年没

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